075 家族会議Ⅱ:正常なる天秤
夢実の母が殴られたとき、依里花が見ていたのは夢実の表情だった。
落ち着いているのなら放っておいてもいい。
夢実の母は、嘘をついてまで依里花を陥れた。
夢実も界魚の核となっている間に、依里花の発言等からそれを知り、怒りを抱えていたのだろうから。
殴られてしかるべきだ。
だが、夢実は依里花のパーティに入ったばかり。
力の加減を知らない。
想像よりも軽い体。
思っていたより鋭いパンチ。
そしてゴリュッ、という何かを砕き潰したような感触。
夢実としては、いきなり両親をぶち殺すなんて暴力的な手段に出るつもりはなく、ひとまずは一発殴っておいて、そこから話そうと思っていたはず。
しかし現実は、目の前の母親は顔が変形し、後頭部を強打し、白目を剥いて倒れている。
――まずい、やりすぎた。
そう思っただろう。
もっとも、依里花としては非常に胸がすっきりする光景だったのだが――それはそうと、夢実が困っている。
彼女はすかさず夢実の母に駆け寄ると、その頭部に手を当て、できるだけ光が外に漏れないよう至近距離でヒーリングを使った。
そして床に寝かす。
「怪我は無いみたい、気を失ってるだけだね」
依里花は素人ではあるが、自信満々に言ってみるとそれなりに説得力は出るものだ。
張り詰めた空気がわずかに緩む。
「そっか……」
「そ、そっかじゃないだろう。お前、母さんになんてことを!」
夢実の父が彼女に掴みかかる。
だが依里花が間に割り込み、彼に笑いかけた。
「いきなりビンタされたら、誰だってびっくりするよ。しかも自分の娘を戒世教に誘拐させて喜んでた親だよ? むしろ先制攻撃するべきなのは夢実ちゃんの方だったと思うけどな」
戒世教――その単語に、周囲の人々はざわつく。
依里花はただ事実を言っただけだ。
だが、その事実はあまりに彼にとって都合が悪い。
気まずそうに顔を伏せる夢実の父――するとそこに、看護師が駆け寄ってきた。
彼女は夢実に問いかける。
「何があったの!」
「親子喧嘩、です」
気まずそうに答える夢実。
すると看護師は「ただでさえ忙しいのに……」と小声でつぶやくと、ストレッチャーを運んでくる。
運ばれる母、それを追いかける父。
父は夢実に対して「お前も来なさい!」と怒鳴る。
唇を噛む夢実。
すると依里花は彼女の手を握り、まっすぐに目を見ながら告げた。
「私が、夢実ちゃんの家族になるから」
守るつもりだった。
夢実は、依里花にとってそういう存在になりたいと思っていた。
界魚の核になるという結果は不本意ではあったけれど、最低限、依里花さえ生きていれば――そんな思いで他者の命すら復讐の糧とした。
だけどいつの間にか、依里花の手はすごく大きくなっていて――
「たとえ何があっても、夢実ちゃんを一人にはしないよ」
不満? 解釈違い?
いや、そんなものは微塵もない。
むしろ、余計に強く惹かれて、惹かれて、惹かれて。
たぶんこの瞬間、夢実は人と地球の重力の関係よりも強く、依里花と結びついたんだと思う。
「だから、怖がることなんて何もない」
正直に言うと、不安はあった。
夢実は、自分の両親が戒世教の信者であることを知らなかった。
知ったのは、誘拐されたあと、さらに依里花にまで被害が及んだことを知ったのは核になったあと。
つまり、“認識”が変わってから、実際に親と顔を合わせたのはさっきが初めてだった。
仮にあのとき、両親が優しい親としての顔を見せていたら――夢実は迷ったかもしれない。
だがそうはならなかった。
母は仮面すらかぶらずに、己の欲望を、そしてそこから来る怒りをむき出しにして、理不尽な暴力を振るう。
それは答え合わせ。
あの瞬間、彼女は『私たちは戒世教の信者であり、一人娘を信仰のために道具として使いました』と自白したのだ。
だから反射的に夢実は手を出した。
怒り。
悲しみ。
あるいは復讐でもあったのだろうか。
もちろん、親に暴力を振るったのは初めてだった。
そんな発想すら浮かばないぐらい夢実はいい子で、両親は優しかったから。
でも実際に殴ってみて、罪悪感を覚えず、それが自然なことだと認識しまっている自分に、彼女は絶望した。
急に家族が他人になった。
そんな怖さ。
言ってしまえばそれは“答え合わせ”に過ぎなくて、別に今、この瞬間に現実が書き換わったわけではないのだけれど――それでも、宙ぶらりんになって、暗闇へと落ちていくような感覚が。
たぶん、依里花が手を掴んでくれなかったら、今ごろもっと下まで落ちていったんだろう。
「……ふふっ、依里花ちゃん変わったね」
「そう?」
「たくましくなった。というか、かっこよくなった」
惚れ直した――という言い方もおかしい。
元から好きなのだから。
惚れ足した、とでも言うべきだろうか。
「私、ただでさえ依里花ちゃんのこと大好きなのに、これから先、もっともっと好きになるんだろうな」
そして夢実は、自然と依里花に顔を近づけ、唇を触れ合わせる。
計画性は無い。
本能的に、好きすぎて、そうしたいと思った。
ふわりと柔らかな感触。
ただ体の一部が触れ合っただけなのに、胸がぽかぽかして、全身がふわふわして、幸せに包まれる。
孤独の怖さなんて、たやすくかき消される。
「じゃあ、行ってくるね」
「う、うん……がんばって! 帰ってくるの、待ってるから」
ここが夢実ちゃんの帰る場所だよ――と言わんばかりの大胆な発言に、夢実の胸がきゅんと高鳴る。
戻ってきたら、こんどは二人きりで、甘いキスをしよう。
そう心に決めて、彼女は両親を追った。
依里花は頬を赤らめながら、夢実を見送る。
そして手を振る彼女が背中を向けると、指先で唇に触れた。
「サードキスはアタシが予約する」
そんな依里花の耳元で、ギィがぼそりと囁く。
「ひんっ!? さ、さーど……?」
「ギシシ。二番目まではユズル」
そう言って、すすす……と後ずさる。
その直後、誰かが依里花の手を掴んだ。
「依里花、こっち来て!」
「わわっ!? 令愛、いきなり何!?」
実に慌ただしい限りである。
令愛に腕を引かれ、依里花が連れて行かれた先は、父である礼司の前だった。
こういうのって、もっと順を追ってやるものじゃ――と、界魚の牙を前にしたとき以上に緊張する依里花。
そこに、
「紹介するね、あたしの命の恩人で、恋人。倉金依里花さんですっ」
令愛がさらなる爆弾を投下する。
いや、確かに依里花も覚悟は決めた。
決めたのだが、親への挨拶には心の準備というものが必要であって、何よりそもそも誰かと交際するという経験自体が無い依里花が、このような局面に直面してまともに対応できるはずもなく。
「ど、どうも……」
体を縮こまらせ、口ごもりながら頭を下げる。
一方、急に恋人を紹介された礼司も困惑していた。
「……女の子、だよね」
「まあ、そうです」
「お父さん、大事なのは気持ちだよ。それにさっきも言ったとおり――」
「ああ、わかっているさ。藍子の――僕の元妻のことで、色々と迷惑をかけたようだね」
どうやら依里花は、すでに大木の顛末を彼に伝えているらしい。
ふいに重くなる空気。
だが、先ほどまでの浮いた雰囲気よりは、依里花にとっては馴染みがあったので、少しだけ緊張がほぐれる。
「それは、私が大木……さんを」
「気を遣わないでくれ。彼女は、犯罪者なのだから」
自分に言い聞かせるように、噛み締めながら礼司は言った。
彼もわかってはいたのだ。
離婚した頃、すでに大木はまともな会話が成立しないレベルで戒世教にのめり込んでいた。
それでも、結婚して、家庭を作るまで愛した女だ。
前向きに解釈して、どうにか彼女の言動を理解できないかと努めた。
だが――全ては無意味な努力だった。
とっくの昔に、もう後戻りできないところまで逝ってしまっていたのだろう。
「僕も割り切らないといけない」
「……では、そうします。大木に復讐したいと思ったのは、個人的な感情によるものです。その行動自体は令愛のためを思ったわけではありません」
「だが令愛を支えてくれたそうじゃないか」
「私がそうしたいと思ったから、やっただけです」
別に令愛と大木を引き離して復讐――なんて考えていたわけではない。
そもそも令愛と出会い、惹かれたとき、彼女が大木の娘だと依里花は知らなかったのだから。
すると答えを聞いた礼司が頬を緩ませる。
「ふっ、ずいぶんとまっすぐに言うんだね」
「私の人生、ろくでもないことばっかでしたけど――胸を張れることは、張っておきたいなと思って」
「誇り、ってやつかな」
「ええ、令愛みたいに素敵な女の子が私を頼りにしてくれる。その事実が、証明だと思ってます」
「嬉しいね、令愛のことをそこまで想ってくれるなんて」
それは彼の素直な気持ちだった。
出会いの経緯は普通でないが、依里花から令愛に向けられた気持ちには淀みがない。
「すまないね、私の方で頭を整理するまで少し時間を使いそうだ。だが、今の話で令愛を任せられる相手だとは想ったよ」
今のやり取りを抜きにしても、依里花が令愛の命の恩人であることは紛れもない事実だ。
その点だけで、礼司は依里花に言葉では言い尽くせないほどの恩を感じていた。
「これからも令愛と仲良くしてやってくれ」
礼司の言葉に、依里花と令愛は顔を見合わせ互いに笑う。
そして依里花は、彼に頭を下げた。
「ありがとうございますっ!」
そんな彼女に、令愛が抱きつく。
「やったね、依里花っ」
「うん、いきなり紹介されてびっくりしたけどね」
「ごめんごめん、お父さんと会えて嬉しくて浮かれてたっていうか……とにかく依里花のことをお父さんに見せたい気持ちでいっぱいになっちゃったの」
要は、それだけ自慢できる相手だということで。
令愛からのキラキラとした好意を受け、依里花は気恥ずかしさに頬が赤らむ。
そんなとき、令愛はふいに依里花に耳打ちをした。
「実は他にも恋人が二人いますって話は、落ち着いてからの方がいいかもね」
依里花の表情が引きつる。
「いや、それ、話す必要ある……?」
「不慮の事故でバレた方が面倒なことにならない?」
「それはそうだけど……」
いくら交際を認めてもらえたとはいえ、さすがにそこまで認めてもらえる自信は無い。
ひそひそ話をする娘とその恋人を、「ん?」と不思議そうに見る礼司。
彼と目が合った依里花は、「あはは……」と苦笑いするしかなかった。
◆◆◆
騒ぎを嫌ってか、依里花たちのいる廊下を離れた日屋見夫妻。
麗花を連れて彼らが向かった先は、病院の応接室だった。
「ああいう騒がしさも私は嫌いではないのだけれど」
部屋の手前で、ふいに麗花は言った。
剛誠は無表情のまま、それに答える。
「聞かれてはまずい話もあるだろう」
「そういう話をするつもりだ、と」
「私と愛美が身を隠していたのは、命を守るためでもある。うかつに人に聞かせるものではない」
「では、なぜメディアに囲まれるリスクを負ってまで、この病院に来たんだろうね。あなたは誰よりも、私が曦儡宮召喚の儀式に巻き込まれたことを喜んでいたはずなのに」
「珍しいな、お前が皮肉を言うとは」
「我慢する必要もないと思ったからね。それにあなたならわかっているはずだ、嫌味の一つでも言いたくなる状況だと」
「そうだな……中で落ち着いて話をしよう」
「私も腹を据えて話したい。でも、部屋には先に私が入らせてもらうよ。父様と母様は私が良いと言うまで入らないでね」
そう言って、前に出る麗花。
彼女はドアノブを握ると、何かを確かめるように、慎重にそれをひねった。
「麗花ちゃん、どういうことなの?」
不思議そうな顔をする母をよそに、麗花は真剣な表情で扉を開き、中の様子を伺う。
そして部屋を観察したあと、しゃがみ込んでテーブルの下を確かめると、「ギュゲス」とつぶやき己の武器を呼び出した。
「それは一体――!」
驚く親への反応は後回し。
彼女はギュゲスを装着した腕を伸ばし、テーブルの裏面に張り付いた何かを取り外した。
そして剛誠の前に見せつける。
「ほら、予想通り」
強く握りしめると、拳の内側で爆弾がぼふっ! と炸裂する。
「仕掛けられていたのか」
「病院の関係者が私たちの命を狙っているの?」
「戒世教内部にも二人を殺したい人はいる。犯人を特定するのは難しいと思うな」
改めて、部屋に入る麗花。
親二人もそれに続き、三人はテーブルを挟み、ソファに腰を降ろす。
「ところで、その腕は――」
邪魔になったギュゲスを収め、麗花は答えた。
「曦儡宮様から力を分け与えられた――なんて話はしないよ」
「……そうか」
剛誠は少しがっかりしたようだ。
だからこそ、麗花は拒絶する。
「これは断じて曦儡宮の力などではない、とはっきり言っておく。真恋から与えられた宝物だからね」
「だが神の実在を示すものではあるのではないか」
「神……ねえ。どうなんだろう、あれは神と呼ばれるべきなのかな」
「成功したのだろう、曦儡宮様召喚の儀式は。だからそんなものが現れたのではないのか」
「麗花ちゃんは、神に等しい存在に出会ったのね」
二人の言っていることは間違いではない。
ただ、彼らの期待を満たすような真似はしたくなかった。
「神様だとか、儀式だとか。娘の腕がこんなになっているのに、真っ先に気にするのはそこなんだね」
「身を案じずとも、麗花はここに生きている。だが学園がこの世に戻ってきても、曦儡宮様は顕現しなかった。消えたものを優先しただけだ」
「そうよ、麗花ちゃんの身は心配してるわ。曦儡宮様と同じぐらいに」
「愛されてはいるけれど、私の方が勝ることはない。父様や母様にとって、娘は曦儡宮と同等の存在なんだ」
わざとらしく、麗花はふてくされてみせた。
「不満か」
「そういうわけではないよ。私を私として育ててくれたことは感謝しているし、親として愛してくれたこともわかっている。でも――意識しなければ、気づかない程度の寂しさはある」
しかし麗花のそれは、決して演技ではない。
心のどこかで、少なからず思っていたことだ。
愛されている。
けれど一番の存在ではない。
隣には常に、実体すらない、曦儡宮という存在が並んでいるのだから。
そして両親はそんな娘の寂しさを察して、表情を曇らせる。
それが余計に麗花の不満を膨らませた。
「そう、そういうところだよお父様。お母様もそうだ。親として、娘にこんなことを言わせた罪悪感はあるんだろう?」
「ああ」
「そんな一般的な価値観も持ち合わせているくせに、戒世教の悲願が達成できるとなれば、娘の命より曦儡宮の方を優先するんだ。きっと二人には明確な判断基準があるんだと思う。そういうところ、はっきりさせる人間だからね。でも私には理解できなかったよ。結局、最後まで」
悔やむようにそう語る麗花。
愛美はその不穏な言葉に、眉をひそめる。
「最後ってどういう――」
「今日はせっかくだから色々話そう。私は父様と母様のこと、素晴らしい両親だと思っているよ。そのうえで、小さな疑問を全部ぶちまけてみようと思う」
麗花は問いに答えない。
なぜなら、それは自身で気づかなければならないことだから。
いや、絶対に気づいているはずのことだから。
「父様は、母様が瀬田口の子供を産むこと、どう思っていたんだい?」
麗花のその質問に、愛美は驚いた様子だった。
「どうしてそんなことを」
だが剛誠は動じずに答える。
「喜ばしいと思ったよ」
「ねえあなたっ」
「曦儡宮の因子を体内に宿した、優秀な子供が生まれる、とね。優れた人間には、幸せになるための選択肢が多く与えられる」
「自分の血を引いていなくとも?」
「子供が幸せになること、それは親にとっての悲願の一つだろう。叶うのなら、血の有無など些細な問題だ」
「なんというか……愛されているのはわかるのに、どうしてこうも、人間味を感じないのだろうね」
「麗花ちゃん、あの学校の中で一体何があったの?」
「お母様はどうだった? 瀬田口に抱かれて」
「麗花ちゃん!」
「答えてほしいな。いや――その表情の変化で読み取れる。悪気は無いんだ。ただ、世間一般に受けいられないことは知っているというだけで」
「だって……麗花ちゃんはどこまで行っても、私と、剛誠さんの娘だもの」
「いびつだね」
「理想の家族だと思ってるわ。だってそうでしょう、麗花ちゃんは幸せだった。私と剛誠さんも幸せだったの」
「形だけはそうだったのかもしれない。でも、表面の色はどうだろう。濁ったマーブル模様をしていないかな」
「誰が、そうしたの? 麗花ちゃんは、何のせいでそうなってしまったの?」
「元から疑問には思っていたよ、ただ口にだす必要性を感じなかっただけで。その心境が変わったのは――やはり、学園に入学した頃だろうね」
「確かに、以前のように信者として熱心に活動はしなくなったな」
「別に熱心だったわけじゃないよ。そうすれば、父様と母様が喜んでくれたから。でも今は違う、私にはそれ以上に大切なものができたんだ」
麗花の目に輝きが宿った。
そして彼女は、まるで夢でも語るように言い放つ。
「人を好きになった」
聞いただけで、よほど惚れ込んでいるのだろう――そう伝わってくるような声で。
両親はまず驚いた。
だが次の瞬間には微笑んでいた。
娘の恋を祝福するように。
「名前を、聞いてもいいか」
「倉金真恋。私が一生を賭けて幸せにすると決めた女性さ」
「そうか……おめでとう、麗花」
「待って麗花ちゃん、その子は確か――」
「そうだよ、私と父親が同じ姉妹だ。でもそれは彼女に向ける愛に比べれば些細な問題じゃないか」
後ろめたさを感じさせない回答だ。
誰が何を言おうと止めるつもりはない、そんな意思を感じさせる。
「けれど……母様が聞きたかったのは、そういう話ではないよね。要するに、学園の中で何が起きていたのか、それが私にどんな変化をもたらしたのか知りたいわけだ。ならそちらも簡単に説明するよ。人間が腐敗した化物が徘徊する校舎で、大勢が死んだ。瀬田口も、曦儡宮も。そして崩壊していゆく世界で、戒世教という組織の醜さを私は見た」
別に麗花は、それを見たから戒世教を軽蔑した、というわけではない。
彼女の目は常に真恋に向いているのだから。
ここで戒世教の悪辣さを二人に伝えるのは、“確かめる”ためだ。
「それは私だけじゃない。生き残ったほぼ全員が戒世教の醜さを目の当たりにして、そしてそのうちの数人は本気で教団を潰すつもりでいる」
「私たちも殺されると言いたいのか。いや、あるいは爆弾を仕掛けたのは――」
「彼女が殺るつもりなら、とっくに二人とも死んでる。爆弾なんて回りくどい真似をしなくとも、ね。その他にも命を狙ってる人間がいるのは、この部屋に入るときに見た通りだよ」
「麗花はどの勢力によるものだと考えている」
「戒世教の悪事が世にさらされ、今まで事故死で片付けられてきた人間が実は他殺だったと判明しつつある。それは父様も知っているよね」
「ああ、当事者だからな」
「その家族が二人を恨んでいる可能性は高い。あと――戒世教の一部が寝返ったことは知ってるかな」
「そちらは初耳だな。それが、私たちの命を狙う信者ということか」
「悪事を働いた信者を殺せば、魂が浄化されて天国に行ける――そんな感じの思想を植え付けられてるから、たぶんお父様とお母様を殺しに来るよ。素人が爆弾なんてもの手に入れられるとは思えないから、この部屋に仕掛けたのは彼らかもね」
「権力者ほど狙われる可能性が高まるわけか。うまい理屈を考えたな」
「さっき外で起きた爆発もそのせいだと思ってるんだけど」
「あれは違う」
きっぱりと否定する剛誠。
どうやら彼は理由を知っているらしい。
「報告が入っている。門を開く実験を行っていたが、焦りすぎた、と」
「門?」
「我々の世界と、曦儡宮が住まう世界を繋げるための門だ」
曦儡宮が異なる次元に存在していたことは、麗花も知っている。
しかし彼が死んだ今、そこと門を繋げて果たしていかなる意味があるというのか。
「光乃宮学園で行われた儀式は、いわばオカルト的なアプローチで行われた門の解放手順だった。ゆえに生贄や人の憎しみを必要とする」
「爆発を起こした方は違うと?」
「あちらは科学的なアプローチで行われた実験だ。光乃宮学園から取れた異次元との接続データを解析し、人為的に門を開こうとしたというわけだ」
「でもさっき言った通り、曦儡宮は私たちが殺したよ。物理的に叩き潰した」
「曦儡宮はただの記号にすぎない。“あちら”から呼び出された強大な力を持つ存在ならば、別個体でも曦儡宮と呼べてしまう」
麗花は少しむっとした表情を浮かべる。
曦儡宮に思い入れは無いが、剛誠の語るその考えには矜持が無い。
薄っぺらで、浅はかだ。
「それじゃあ瀬田口と同じ思想だよ。力さえあれば何でも神様と呼ぶなんて、節操が無さ過ぎる」
「しかし枢機卿がそれを認めている以上、他の信者もそう動くだろう。いや、寝返った人間についていく者もいるかもしれんな。麗花の話し方からして、それなりに大物なのだろう?」
「大司教だよ」
「驚いたな、瀬田口か。信心深い彼がそうなってしまうとは、どのような“神”を見たのやら」
そう言って、剛誠は麗花の右手に視線を向けた。
すでにそこにギュゲスは無いが、麗花は父が言わんとすることは理解した。
「言っておくけど、私ではないからね」
「そうか、それはそれで面白いと思ったのだが」
「あなた、笑っている場合じゃ……」
「わかっているさ愛美。しかし、大司教と枢機卿が争う日が来るとはな」
「枢機卿ってことは、欧州の本部から来日を?」
「儀式が成功したという話を受けて、つい最近来たばかりらしい。私たちもまだ会ってはいないが」
「そいつが科学的に門を開く方法を見つけてみろ、と急かしているのかな」
「連日ネットやテレビで戒世教のことが報じられている。こうなってしまうと、日本支部に残された時間はそう長くない。焦りもするだろう」
「爆発事故を起こしたってことは死人も出てるだろうし、そんな高度な実験を行える貴重な人材を失ってまで、強引にやるべき実験なのかな」
「一発逆転がほしいんだ。神さえ顕現すれば、全てが解決すると思い込んでいる」
秘密結社らしからぬ低俗なその思考に、麗花もため息を禁じ得ない。
「はぁ……ブラッドシープとやらも見たよ、低俗だったね。ギャンブルに溺れるのもいいけれど、一般市民を無駄に巻き込むのはやめてほしいな。どうせ門の方も配慮なんてしないんだろう?」
「おそらくはな」
「他人事みたいに言わないでほしい。戒世教の施設の大半は日屋見グループが建設しているはずだよ、父様なら詳しい動向もつかめるはずだ」
「私に制御できるものではない。確かに日屋見グループは戒世教にとって重要な存在だが、それは資金源としての重要性に過ぎないのだよ」
しかし、だからといって無関係ではないと、剛誠もわかっているはずなのだ。
そう、彼は紛れもなく当事者だ。
言い逃れできないほど、加害者側の。
「なあ、麗花」
「改まって何なんだい、父様」
「謝らなくてはならないことがある」
「父様が私に?」
「おそらく私は、お前に会社を残すことができないだろう」
当然、日屋見グループなど存続できようはずもない。
良くても、部門ごとに分割して他社に吸収されるだろう。
大量に死人が出ているだけに、それすらもままならない可能性もある。
無論、麗花も少なからず後ろ指をさされるだろう。
「これは、父親としての謝罪だ。不甲斐ない父ですまない、麗花」
「待って剛誠さん、まだ諦めるには――」
「もう手遅れだとわかっているはずだ。往生際が悪すぎると品を無くすぞ」
まだ諦めようとしない愛美を、剛誠は諫める。
そんな二人を安心させようと、麗花は胸を張って答えた。
「構わないよ。自力でどうにかできるだけの力を、父様と母様は私に与えてくれたから」
「それを聞けて安心した」
彼は安堵の笑みを浮かべた、
だがその笑顔は、どこか寂しげである。
「さて、麗花。思い残すことは無い――というと嘘になるが、お前と話すうちにある程度は割り切ることができたよ」
わかっているかい。
ああ、わかっているよ、と――ここまでのやり取りは、素直な会話ならたったその二言で済むだけの話。
ただ、少しでも親子の会話を続けたい、だとか。
まだ認めきれない心が残っている、だとか。
そんな人間じみた、弱っちい感情が、まるで引き止めるように会話を長引かせた。
だが、それももう終わりだ。
結局のところ、戒世教にとっての重要な資金源であり、自身も上位の幹部である剛誠と愛美が逃げられるはずなどないのだ。
連城のような殺し屋に、指示を出す側の人間。
直接手を下すことはなくとも、数人――いや、数十人を殺してきた。
それ以外の方法でも、会社の権力を使って大勢の人を不幸にしてきた。
そんな人間が、逃げて終わりなんて、生ぬるい結末を迎えられる状況ではない。
「私たちは、これからどうするべきだ」
なら、最後にできることは何だろう。
そう考えた末に、剛誠は娘に問うことにした。
情けなさを自覚しながらも、娘の望む形で幕を下ろすのが、親としてできる最期のことだと思ったから。
麗花は目を細め、軽く唇を噛んで、わずかに苦しげな表情を見せた。
できることなら、彼女だって言いたくはない。
両親が無事で、生きてくれることがベストなのだから。
しかしその道は、彼らが戒世教の幹部になった時点で――つまり麗花が生まれるより前に閉ざされている。
「まずは自分の権限を会社の他の人に渡して、できるだけ路頭に迷う人がでないよう、会社を畳む指示を出してほしい」
「ああ、それは当然のことだ」
「そして――父様と母様が知る戒世教の悪事の全てを、大勢の前で明かしてほしい。彼らの悪あがきの犠牲者が少しでも減らすために、できるだけ早く息の根を止めなければならない」
それは、“死ね”と命じているに等しい。
戒世教について調べただけの連城の家族が殺されたのだ、幹部が、大勢の人間が見る場所で、堂々とそのような情報を公開すれば――剛誠と愛美はいかなる手段を使ってでも間違いなく消される。
だが、どのみち二人は死ぬ。
恨みを抱く誰かか、裏切った戒世教の人間か。
その両者が殺し損ねたとしても、日屋見グループが現存する限り戒世教の影響力が消えないのなら、依里花が殺すことだってあるかもしれない。
どのみち、生きて逃げ延びて、再び家族で感動の再会――なんてことは、ありえないのだ。
わかっている。
娘も、父も、母も、この場にいる全員が。
「家族としてできることは何か無いか?」
「あるよ」
叶えられる範囲で叶えたい、と願う父。
だが、できれば、麗花はそんなこと聞いてほしくなかった。
「いくらでもある」
“してほしいこと”なんて、“するはずだったこと”だって、それこそいくつもあって。
望めばキリがない。
なにせ、麗花は両親を尊敬していて、両親が好きだから。
親孝行だって、したいと思っていた。
「でも、それを叶えられないから、私たちは最後だっていうのに、こんな味気のない会話しかできなかったんだろう?」
麗花の目は、わずかに潤んでいるように見えた。
思えば、剛誠も愛美も、彼女が泣いているところを見たことがない。
美しく、冷静で、理知的で――そして強い娘だった。
そんな彼女に、涙を流させている。
「みんなが生きていてくれるのが一番だよ。でも、それが不可能だって二人は知っているはずだろう」
震える声を聞いて、二人は思った。
「だからせめて、私が堂々と、『両親のことが大好きだった』と言える死に方をしてほしい」
自分たちはなんて情けない親なのだろう、と。
剛誠は「ああ、わかった」と深く頷く。
そして妻と共に、娘を優しく抱きしめた。
◆◆◆
麗花を応接室に残し、日屋見夫妻は部屋を出る。
そのまま外に出ることもできたが、あえて遠回りをして、診察室の前の廊下を通ることにした。
郁成一家がいなくなって時間が経ったからか、その場の雰囲気はずいぶんと落ち着いている。
依里花は令愛の父親と話しており――真恋は、近くにいる両親とは言葉を交わさず、依里花たちの様子をじっと眺めていた。
しかし、近づいてくる足音に気づき、そちらに目を向ける。
目が合うと、剛誠は穏やかな微笑みを浮かべた。
「倉金真恋さんだね」
「麗花のご両親……」
彼は真恋の肩にぽんと手を置くと、一言――
「娘と幸せに生きてくれ」
そう告げて、妻と共に去っていった。
事情を知らない真恋は――二人が麗花との話を終えた直後だと気づき、離れゆく背中に向かって宣言する。
「必ずそうなります! 麗花と二人なら、絶対に!」
予定とか想像じゃない。
確信だ。
その頼もしい言葉に、剛誠は満足げな表情を浮かべた。
「あの様子なら、麗花のことを安心して任せられそうだ」
階段を降り、人気のない場所を二人きりで歩く。
あえてエレベーターも使わない。
残り少ない時間を惜しむように。
「もう、他に道はないのですね」
「逃げ道を探すには、戒世教はあまりに多くの人を殺しすぎたんだ」
「あのまま隠れていれば――」
「それも時間の問題だった。それに、怯えて逃げているだけでは、落ち着いて君と話すこともできない」
剛誠自身、隠れている自分を卑劣だとは思っていた。
しかし愛美はそれでも望み続けた。
命の安全を何より優先すべきだと主張して、このまま逃げ続けたいと主張した。
だがそう語る本人の表情が、すでに疲れと恐怖に壊れ始めている。
心にも体にも、そう遠くない未来、限界が来る。
そうなったとき、彼女はおそらく自らの死を選ぶだろう。
誰かに殺されるぐらいなら、と。
長年付き合ってきたからこそ、剛誠にはそれがわかった。
娘とも会えずに、心中なんて悲しい終わり方はしたくないし、してほしくもない。
そう思った剛誠は、強引に愛美の手を引いて隠れ家を出て、表に出ることを決心した。
「今夜、食事でもしながらゆっくり話さないか。これまでのことを」
「そうですね。思えば、忙しい日々の中で、過去を振り返ることなどほとんどありませんでしたから」
麗花が『なぜ表に出てきたのか』と問うたのは、そのせいだ。
逃げたのなら、いっそ最後まで逃げ続けてしまえばよかったのに。
どうせ死ぬってわかっているんだから、と。
遺される娘からしてみれば、当然の怒りである。
だが剛誠は、これでよかったと思っている。
犯した罪の大きさの割には、まともな終わり方をできたんじゃないか、と自画自賛できる程度には。
二人が病院から出た途端に、報道陣が取り囲む。
「戒世教に資金提供をしていたというのは事実ですか!」
「先ほど発生した爆発事件が日屋見グループの関連施設で起きたと言われていますが、何かコメントを!」
さすがの剛誠も、ここで全てを語るつもりはない。
病院のスタッフに道を開けてもらいながら、前へ進む。
なおも記者たちの攻勢は激しく続いた。
「光乃宮市での連続殺人にも関与しているとの話がありますが!」
「答えてください、逃げるんですか!」
「去年発生した飛び降り自殺が殺人事件の可能性が高いと判明しましたが――」
今日中に会社との話を終えて、明日、会見を開く。
それが剛誠の計画だった。
かなり強引なスケジュールだが、これ以上引き伸ばせば、二人が戒世教に消される可能性がぐっと引き上がる。
麗花の望みを叶えるためにも、最低限、それだけはやり遂げなければ――
「なぜ彼女は殺されなければならなかったのですか」
ふいに、剛誠は記者の中に交じる、強い恨みの音を聞いた。
視線を向ける。
彼は知っていた。
戒世教という正義を成すための、何十人もの死。
そして、何百人、何千人もの周囲の人々の悲しみを見てきたから。
そう、知っていたのだ。
その男の目が、誰よりも大切な物を奪われた人間のものであると。
「なぜ妻は、死ななければならなかったのですか!」
男が向けたのはボイスレコーダーではなく、銃だった。
おそらくその形式から、戒世教関係者から奪ったものだと考えられる。
組織が崩壊しつつある今、流出してしまったのかもしれない。
そして――銃口が向けられた先は、剛誠ではなかった。
その隣。
愛美を狙っている。
気づいた時には、すでに銃弾は放たれており、彼女は男の存在にすら気づかないうちに、頭を撃ち抜かれていた。
響く銃声。
しなだれかかるように倒れる妻。
気づいた誰かの叫び声が響き、それを皮切りに、周囲の人々はパニック状態に陥った。
一目散に逃げる人もいたが、勇敢にも犯人を取り押さえる人もいた。
だが、男はもう発砲するつもりは無かったようだ。
うるさすぎて声は聞こえなかったが、彼の口の動きでわかった。
『これで、お前も』
妻を亡くす痛みを知れ、と。
強い、強い恨みを直に浴びせられ、剛誠は『まだ自覚が足りなかった』と自戒する。
愛美を抱きかかえ、もう動かない彼女に語りかける。
「ゆっくり話そうなどと、甘すぎたんだな。麗花にも怒られるわけだ」
彼らに命を奪われた大勢の人々には、そんな猶予は与えられなかったはずだ。
同じように、剛誠にも満足できる死など与えられない。
◆◆◆
剛誠は妻の弔いを部下に任せ、その日のうちに会社のあらゆる役職を辞任した。
もちろん麗花に言われたとおり、できるだけ路頭に迷う社員が出ない形で会社を畳めるよう、後任とも話し合った。
さらに翌日、自分が持ちうる戒世教の全ての情報をまとめ、会見を開く。
自分の犯した罪も、光乃宮市の闇も、なにもかもをぶちまける――
そんな会見の最中、乱入してきた男に何発もの銃弾を浴びせられ、剛誠は命を落とした。
犯人は戒世教の信者だったという。
しかし、資料は事前にあらゆるメディアに送られていたため、口封じという目的は達せなかった。
むしろ銃撃事件により大きな話題となり、戒世教の危険性はさらに多くの人々に広まることとなる。
皮肉にも、剛誠の死によって、麗花の願いは果たされたのだ。
◆◆◆
だが――それは“明日”のことだ。
一人、応接室に残された麗花が知るよしもない。
それどころか、今まさに、外で母が殺されたことも、彼女はまだ知らない。
だが、背もたれに身を預け、目を閉じる彼女が幻視するのは、ロクでもない死を迎える両親の姿だった。
頭脳明晰で、冷静な判断ができる彼女だからこそ、両親の未来が詰んでいることを知っていたから。
いや、あるいは麗花が全てをなげうって彼らを逃し、守るという決断をすれば生き延びられるのかもしれない。
しかしそうして生き残った二人は、麗花が尊敬できる両親ではないし、何より真恋を手放すつもりは無かったから。
「さようなら……父様、母様」
麗花の頬を、涙が伝って落ちた。
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