059 無常
リブリオと呼ばれた男――もとい本は、机の上から浮き上がると、ネムシアの周りを飛び回る。
別に蝶みたいにページをばたつかせるわけでもなく、不思議な力で浮遊してるみたいだ。
ネムシアもスキルとは異なる魔法を使ってたし、そういう力が存在する世界なんだろう。
「不思議なものです。どこからどう見ても女王陛下の外見ではないのに、喋り方はそのものだ」
「これには事情があってな」
「いえ、別に陛下であることを疑っているわけでありませんよ。王子殿下もそのようなことをおっしゃっておりましたから」
「兄上がっ!?」
彼女は思わずリブリオに掴みかかった。
そして今にも破れそうなほど強く握りしめている。
「陛下、痛いのですが」
「あ、ご、ごめんなさい……」
「ふふ、女王陛下なのですから、そこまで縮こまらなくてもよいものを」
「仕方なかろう、癖なのだ。お主の厳しい訓練のおかげでこの口調は使いこなせておるが、染み付いた性分まではそう簡単には変わらぬ」
「それ訓練で身につけたやつだったんだ」
てっきり、小さい頃からこんな尊大な口調で喋ってるのかと思ったけど――そういえば、最初は王位継承するのはお兄さんのはずだったんだっけ。
「最初に陛下が戴冠なさったのは齢10歳のころ。いささか威厳に欠けるお方でしたから、せめて言葉遣いや立ち振舞いだけでも、と思いまして」
「10歳って……ネムシア、今は何歳なの?」
「12だ」
思ってたより幼かった……。
どうしても外見が16歳だからそのイメージで接してたけど、12歳でこれならかなり立派だよ。
「郁成夢実は16歳だからな、我も肉体に違和感は覚えておったよ。とはいえ、年齢以上に他人の肉体に宿ったという違和感の方が遥かに大きかったかのう」
「他人の肉体に宿る……ですか。どうも、お互いに話さなければならないことが多くあるようです。ひとまず腰を据えて情報交換といきませんか」
「私も同じことを思ってた」
「うむ、座って話すとするかのう」
私とネムシアは、並んで椅子に腰掛ける。
一方で机の上でページを開いたリブリオは、そこから謎の光を放つ。
すると向かいの席に、20代後半ぐらいの、髪の長い男性の姿が映し出された。
「キモい、と心無い言葉を向けられてしまいましたから、この姿で話すことにしましょう」
「そうしてくれると助かるかも」
「反省や謝罪の言葉は無しですか」
「キモいもんはキモいから」
「はは、容赦のない人ですね。えっと――」
「倉金依里花」
「依里花さん、陛下にも失礼な物言いをしているのではないですか」
「うむ、何度不敬罪で裁こうと思ったかわからぬ」
「仕方ないじゃん。私たちの世界にアドラシア王国なんて無いんだから、女王なんて名乗られたって困るって。っていうかさ、アドラシア王国でも日本語使ってたの?」
リブリオの顔は、完全に日本人離れしている。
ネムシアは元が夢実ちゃんだから違和感は無いけど、髪の色が地毛だとするならやっぱり日本人ではない。
「ここにいる人間たちから学習したのです。情報を集めるにも、言語を理解しなければ始まりませんから」
「そんなに時間なかったと思うけど……」
「リブリオはアドラシア王国で最高の頭脳を持つと言われておる天才だ。それぐらいはお茶の子さいさいであるぞ」
「そういう陛下も日本語とやらを使いこなしておられるようですが」
「これは私の肉体に元から宿っておったものだ。学習したものではない」
「ネムシアの体、私の親友のものだしね」
「親友、ですか。詳しく聞かせていただけますか」
私はまず、ネムシアが今の肉体に宿ることになった経緯について話した。
といっても、あくまで私がわかる範囲の話。
夢実ちゃんは曦儡宮の儀式に使われ、魂だけがどこかに消えた。
その後、抜け殻になった肉体に、ネムシアの魂が宿った――と。
ゆえにネムシアはネムシアでありながらも、わずかに夢実ちゃんの影響を受けている。
「郁成夢実に、曦儡宮ですか……曦儡宮に関しては、ここにいる人間たちが、たびたびその言葉を発していましたね」
「あいつら何やってるの? 子供みたいにボールで遊んでたけど」
「何が目的でどこから来たのか、こちらが聞きたいぐらいです。まあ、彼らが来たおかげで城の腐敗は一時的に止まったようですが」
「それはたぶん、私たちの学校と混ざった結果だと思う」
「腐らなくなったのは助かるのですが、城を土足で踏み荒らされるのは正直不愉快ですね。しかも、まるでここを天国か楽園だと勘違いしている」
「もしかして、真の世界とか言ってるの?」
「ええ、まさにその通りですよ。何かご存知なんですか?」
「曦儡宮ってやつは、私たちの世界を破壊して、その裏にある真の世界に信者を導く、って言われてる神様なの。アドラシア王国の見た目って、私たちの世界とは結構かけ離れた見た目をしてるし、もしかしてそれを見て、ここが“真の世界”だと勘違いしてるのかも」
「それで、あんなにいい年をした大人たちが、子供のようにはしゃぎまわって遊んでいるわけですか」
巻き込まれた生徒たちがどうなったのかはまだわからない。
でも少なくとも、戒世教の信者だった教師たちは、ここに来て浮かれ狂ってるわけだ。
ここは真の世界。
自分たちは正しい行いをした結果、あらゆる責務から解放されてこの楽園にたどり着いた。
だからあとは幸せを享受するだけ――そんな風に勘違いして。
大木もかなりイカれてたけど、あれと同じようなやつが何人もはしゃぎまわってるかと思うと心が重くなる。
私は大きくため息をついたあと、思わず本音をこぼした。
「キモいなあ……」
「ええ、キモいですね」
リブリオさんも乗っかってくれた。
彼の場合、実際にその姿を見せられているのだから、さぞ気持ち悪く感じているだろう。
「本来救うべき教え子たちを犠牲にして、狂信の愉楽に浸っているのもまた気味が悪い。なんと愚かなことか」
「まあ、そのうち私が殺すよ」
「速やかに害虫駆除して頂けると助かります。私には戦う力がありませんからね」
「最強の魔法使いと呼ばれておったお主も、その肉体では戦えぬか」
「魔導書に記せる記録の量などたかがしれています。最低限の機能を移すだけで精一杯でした。それでもこの城を腐らせずに維持していたのですから、褒めていただきたいぐらいですよ」
「うむ、このような芸当はリブリオにしかできぬであろう。腐敗から守っておったということは、蔵書も無事なのか?」
「ええ――人命を守ることは叶いませんでしたが、王国が存在したという記録だけは」
そっか、ネムシアの魂が夢実ちゃんに宿ったってことは、元々あったネムシアの肉体は空っぽになったってことだよね。
つまり守るべき女王陛下は、先に死んでしまった。
「どうやらカイギョの腐食は、“生命”を優先的に蝕むようでした。そこで私は肉体を捨て、この本に魂を封じ込めることで生き延び、結界で城を守っていたというわけです」
「ご苦労であったな、リブリオよ」
「こうして陛下から直に労ってもらえるのですから、無茶をした甲斐がありました」
「ネムシアの国だと、魂を取り出すとか、封じ込めるとか、そういうのは普通にやってることなの?」
そう問うと、ネムシアは首を振って否定した。
「研究しておった魔法使いはいても、そこまでは進んでおらんかったはずだ」
「じゃあリブリオさんがやったのは――」
「ニックス殿下から手ほどきを受けまして」
「先ほども兄上と会ったと言っておったな。しかも……我が去った後に」
「あの時、何があったのか陛下は覚えていないのですか?」
「ネムシアは夢実ちゃんの肉体に宿った時に記憶喪失になっちゃったみたいでさ。少しずつ思い出してはいるんだけど」
「なるほど……本来、人の記憶を保存するのは脳の役目。魂にもバックアップが取られるとはいえ、強引に他者の肉体に宿った以上、それを再生させるのには時間が必要なのは道理ですね」
確かに、夢実ちゃんの脳みそにネムシアの記憶が入ってるわけないもんね。
肉体に宿った後、魂に保管されてたデータを夢実ちゃんの脳にコピーしたわけだ。
「ではあの日に起きた出来事を、私から話しましょう」
「聞いているうちに思い出すかもしれぬ。話してくれるか」
リブリオさんは机に肘を乗せると、目を細めて“あの日”のことを話しはじめた。
「最初に言っておきますが、腐敗により“時”も死んでいますので、正確な経過時間がわからないのはご容赦ください。それは私の感覚の中だと、およそ3週間前の出来事でした――」
◇◇◇
勇者、そしてカイギョの壊疽がアドラシア王国で発見されてから、1年ほどが経った。
その頃には、壊疽は手がつけられないほどに強力な化物へと変わっており、勇者たちの成長も間に合わず、人類はじわじわと追い詰められつつあった。
比較的戦力の多い王城周辺のエリアでは、エリアの主を倒し、結界を解放して人類の領域を広げようとしていたが、その頃には周辺のエリアはすでに陥落しており、むしろ逆に大量の壊疽の流入を許す結果となった。
当然、あまり兵士たちの配備されていない遠い場所はとうの昔の滅びていた。
もはや人類に打つ手無し。
いつの間にか王城すらも壊疽に囲まれ、生き残った勇者と使徒たちがなんとか攻撃を食い止めている状況だった。
『なぜだ……なぜ兄上はこのようなことを……』
玉座の間で悩むネムシアは、たびたびそう口にしていたという。
そう、アドラシア王国を襲ったカイギョ――その核となっていたのは、彼女の兄であるニックス・アドラークだったのだ。
以前、彼は警備兵を皆殺しにしてネムシアの前に現れた時、“世界への宣戦布告”とも呼べる言葉を残していた。
『俺はこの救いようのない世界を壊す。全てを殺して、なかったことにする。誰も俺を止められない。なぜなら誰も俺の苦しみを理解していないからだ! だがカイギョは違う。カイギョは俺の憎しみを認めてくれた。この憎しみを形にする術を教えてくれた!』
その言葉通り、彼はカイギョの力を振るい、世界を滅ぼしたというわけだ。
ネムシアは、常に彼を止める方法を考えていた。
国のため、世界のため、そしてニックスのために。
実際、この絶望的な戦力差をひっくり返すには、直に兄を説得する以外無いという理由もある。
しかし、一度顔を見せてからは二度と彼が姿を現すことはなかったし、その姿を目撃したものもいなかった。
ただ滅びを待つだけ――そんな時間が続く中、城内に叫び声が響き渡った。
血が噴き出す。
命が散る。
それは以前、ニックスが現れたときと同じ感覚。
大事な兵の命が奪われているというのに、ネムシアはそのとき、まるで救われたような表情をしていたという。
そして血だらけのニックスが、玉座の間に現れる――
『兄上……!』
『ネムシア』
彼はかつてそうしていたように、妹に優しく笑いかけた。
そんな兄に対し、ネムシアは懇願する。
『もう、もう十分だよ……きっと、みんな喜んでる。復讐を望んでた人たちも、十分に、もうっ!』
彼女は女王としてではなく、妹としてニックスに呼びかける。
しかし、兄の全てを投げ捨てたような、無気力な笑顔は変わらなかった。
『手遅れだよ。何もかも、全ては終わってしまったんだ』
『兄上――?』
そしてニックスは、ネムシアを強く抱きしめた。
同時に、その腕が彼女の腹を貫く。
『せめてお前だけでも生き延びてくれ。すまない……身勝手なお兄ちゃんを、許してくれ……』
『兄……う、え……』
そこで、ネムシアは絶命した。
そのとき、リブリオは玉座の間にいた。
ニックスの持つあまりに大きな存在感に怯え、一歩も動けずにいた。
『リブリオ』
『っ……殿下……』
『俺は王の器ではなかった。お前の期待に応えられなかった。こんな醜いものに身を委ねて、全てを壊すことしかできない。すまないな』
ニックスはネムシアの亡骸から腕を引き抜く。
すると、半透明の塊がずるりと引き抜かれた。
彼はそれを天にかざすと、空間に開いた穴の向こうに送り出す。
『今のは、何をしたのですか』
『この世界は終わる、界魚と俺の望み通りに。だからここではない他の場所で、せめて、少しでもネムシアに生き延びてほしいと願った』
『何をしたのですかと聞いているのです!』
『別の世界に魂を送り出したんだ。とはいえ、同じ界魚に蝕まれた世界。そこもじきに滅びる運命にあるがな』
◇◇◇
そこまで聞いて、ネムシアは「ああ……」となにかに気づいたような声をあげた。
「思い出した?」
「うむ……そうだ、我は兄上に殺され、そのあと……とても冷たくて、暗い場所に導かれたのだ」
「魂だけで行動していたときのことも覚えているのですね」
「少し気を抜いただけで、冷たさに飲み込まれて消えてしまいそうな、恐ろしい場所であった。我はそのとき、とにかく温かい場所に行きたくて――すぐ近くの、別の世界に手を伸ばした」
「そこが私たちの世界だったんだ」
魂だけっていうのは、幽霊みたいな状態だと思えばいいのかな。
夢実ちゃんの体がなかったら、誰にも触れられずにさまようしかないと思うけど、どうするつもりだったんだろう。
そんな状態ですら、アドラシア王国で死ぬよりはマシだとニックスさんは考えたのかな。
「カイギョはあなたたちの国の言葉で現すのなら、世界を食らう魚、と書きます」
「界魚……ねぇ」
「ずらりと牙の並んだ凶暴な魚、というイメージですね。そう考えると、界魚に捕食される際、アドラシア王国とあなたがたの世界は、非常に近い位置にあったと考えられます」
「隣の牙で噛まれてたから、その牙を経由して、ネムシアは私たちの世界に来た、ってことかな」
「おそらくはそれで合っているはずだ」
牙から牙へ――そう移動したと考えると、ネムシアが夢実ちゃんの肉体に宿った理由もよくわかる。
夢実ちゃんも今、界魚の核になっているはずだから。
牙を伝って向かった先にあるのは、当然核の肉体だ。
「幸い、そのときのニックス殿下は比較的理性を保っていたようですから、私はついでに聞いてみたんです。界魚とは何か。魂とは何なのか。魔法で操ることは可能なのか、と」
「えー……肝が据わりすぎてるって。目の前でネムシアが死んだあとだよね?」
「終末が来ることはわかっていましたから」
諦めて開き直った、って言いたいんだろうけど。
世界を滅ぼす張本人に聞くなんてなかなかできることじゃない。
「そこからは説明するまでもありませんね。殿下が去ったあと、女王陛下の死で心がぽっきりと折れてしまった勇者たちは次々に敗北し、心を、そして肉体を腐らせていきました。その頃になると、カイギョの壊疽たちも進化の限界を迎えたのか、肉体が崩壊を始め、世界とともに腐り始めていったのです」
「進化しすぎると壊れるんだ」
「全身が癌化した、と言えるような状態です。化物とはいえ、元は王国の民だったのですから、最終的には死に絶え、界魚に捕食される定めだったのでしょう」
そして何もかもが死に絶えたあと、リブリオさんだけが本になって一人残った、ってことか。
「生命も死もなく、ただただ静寂に満ちた世界――集中しやすくて私は嫌いではなかったのですが、そんな状態もずっとは続きませんでした。それから少し後に、正体不明の人間たちがぞろぞろと現れたのです」
「私たちの世界と融合したんだね」
「我が、王国から光乃宮学園に移動したことで繋がりが生まれてしまったのだろうな。この肉体は郁成夢実とつながっておる。つまり我の魂は、間接的とはいえ界魚の核と繋がっておるのだ」
他に考えられる可能性としては、必要以上に光乃宮市を巻き込むのを避けたかった――ってとこかな。
中心地である学園はまだしも、私と夢実ちゃんの思い出があったせいで、光乃宮ファンタジーランドは巻き込まれてしまった。
光乃宮市はクソみたいな場所だけど、それでも二人で作った綺麗な記憶はいくつも残ってる。
そんな場所をこれ以上巻き込みたくない。
だから、ある意味で“無関係”であるアドラシア王国が生贄にされたのだ。
「陛下も思い出したようですね。私も本らしく、記録を伝承する役目を果たせて何よりです」
「いくつか気になったこと聞いていい?」
「構いませんよ」
「ネムシアのお兄さんが界魚の核になったのはわかった。でもそもそも、界魚の核って何なの? ただ世界を食べるだけなら、そんなことしなくてよくない?」
「それを説明するには、界魚の生態を話す必要がありますね」
生態――まあ、魚って言うからには生き物なのか。
それも、途方もなく大きい、世界を食らいつくしてしまうような。
「そもそも世界とは何か、依里花さんはご存知でしょうか」
「世界って、星のこと?」
「いえ、“世界”ですよ。あなた方に合わせた説明をするのなら、例えば星は宇宙に浮かんでいます。その星は銀河の一部であり、その銀河は超銀河団の一部であり、また超銀河団も宇宙の一部でしかなく――はたまた、宇宙も何かの一部でしかないのかもしれない」
「ごめん、そういう話はあんまり詳しくないんだ」
「流してよいぞ。リブリオは知識をひけらかして話をややこしくする悪癖があるからな」
「そういう陛下は昔から私の授業でよく居眠りされていましたね」
「お主の話は難しすぎるのだ!」
「まあまあ二人とも。長い付き合いなのはわかったから、続きを聞かせてよ」
「ええ、気を取り直して。とにかくそういったものの一塊を“世界”と仮に呼ぶとしましょう。しかし、依里花さんがその世界をどれだけ探し続けても、私たちのアドラシア王国は見つかることがありません」
「異世界だからね」
「その通りです。私たちの世界は、いわば海に浮かぶ泡のようなもの。広大な空間に、数え切れない数の世界が存在している」
そう語るリブリオさんは、やけに楽しそうだった。
一人だと集中できるとか言ってたけど、ネムシアが言うには知識をひけらかすのが好きと言っていたし、誰かに物事を教えるのが好きな人なのかもしれない。
「さらに、異なる軸にはずらりと“違う可能性の世界”が並んでいます」
「平行世界?」
「依里花さん、理解が早くてグッドです。そう、平行世界。そしてまた別の軸には、時系列順に並んだ世界がずらりと並んでいるのです」
「じゃあその軸を移動できたら、過去に行ったり、未来に行ったりできるってこと?」
「不可能とは言いません。ここで大事なのは、可能性の分だけ世界が増え、時間の分だけ世界が増えるということ。そして海には大量の異世界も浮かんでいるのです」
「それでは、世界は無限に膨張し続けるのではないか?」
「膨張しますよ。それでも問題ないほど海は広いので。それに、増えた世界を掃除してくれる存在もいますからね」
「……それが界魚ってこと?」
私の言葉を聞いて、リブリオさんは微笑んだ。
待ってよ、じゃあそれって――
「誰かが悪さをしてるとかじゃなくて、界魚はただ……食事をしてるだけ?」
「私たちの世界は、界魚から見れば海に浮かぶプランクトンのようなもの」
「そ、そんな簡単に、アドラシアの民は殺されてしまったというのか!?」
「生物は生きているだけで数多の生物を殺します。これは人間に限らず、あらゆる生命がそうです。そんなものなんですよ、世界なんて」
少し投げやりに彼は言う。
彼とて、自分の命を犠牲にしてまでアドラシア王国を守りたいと思う人間だ。
その理不尽さに憤慨したこともあったのだろう。
「依里花さんや陛下が言いたいことも理解していますよ。誰かを倒せば、とか。誰かが悪くて、とか。そんな“終わり”を探しているのでしょう。しかし、そうではないのです。界魚はいわば――」
だが、リブリオさんはそんな時期を過ぎて、とうに諦めている。
どうしようもないと、理解できてしまったから。
「抑止不能の自然災害」
一番怖いのは自然だ、なんて言葉を聞いたことがある。
界魚は、その一種。
生命体ではあるけれど、住んでいる世界が違いすぎて、抗うとか、抗わないとか、そんな領域にすら達していない
「“人の憎悪の匂いが好き”という習性こそあれど、そこに悪意などありません。もちろんニックス殿下も悪くありませんよ。あのお方の境遇を思えば、世界を憎むのも当然です。それが、偶然にも界魚に見つかってしまっただけですから」
「わざわざ核などというものを作り、人間一人を犠牲にするのはなぜなのだ?」
「住む次元が違うのです。界魚は世界が浮かぶ海を泳ぐ魚。私たちの命を捕食するには、一旦私たちの世界の生命体を捕獲して、“ダウンスケール”しなければ矮小すぎて干渉できない」
核は、いわば腐敗を広げるための端末。
そして腐敗させるのは、いわば消化液のようなものなのだろう。
「理不尽に思えるかもしれません。しかし――世界は無限に存在する。世界が界魚に食われる可能性は限りなくゼロに近いのです。仮に強い“憎悪の匂い”が発せられていたとしても、近くを界魚が泳いでいなければ引き寄せられることは無いのです」
「では……結局、アドラシア王国が滅びた原因は……」
リブリオさんは無気力に笑い――おそらく“彼らしくない”表情を浮かべて言った。
「私たちは、運が悪かった」
表情と相まって、その言葉はずしりと、ネムシアのお腹に重く響いたに違いない。
私ですら少し胃が痛くなったから、当事者たる彼女はきっともっと辛い。
目を見開き、呆然とするネムシアの手を、私は机の下で握る。
すると膠着した心が少し溶けてしまったのか、表情がくしゃりと崩れ――
ネムシアは瞳に涙を浮かべると、「そんな馬鹿げた理由で……」とつぶやき、唇を噛んだ。
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