058 亡骸の国
「見よ依里花、ここが我が故郷! 偉大なるアドラシア王国であるぞ! 美しい風景であろう!?」
両手を広げながら、誇らしげにネムシアは言った。
確かに景色そのものは美しい。
ただ正直言って、私はそれどころじゃない。
「外に出られたわけじゃないのね」
井上さんが言った。
ちなみに彼女の両側では、緋芦さんと牛沢さんが抱きつくように腕を絡めている。
彼女たちはまだ、何となく外に出られないことに気づいていたからか、そこまで動揺はしていない。
だけど二階から連れてきた生存者たちは、一様に不安そうな表情を浮かべている。
「ネムシアがああ言ってるってことはそうだろうね。たぶん、光乃宮学園の三階にあたる空間なんだと思う」
私がそう言うと、真恋が右の方を指さしながら言った。
「あそこに教室らしき建物があるな」
視線を向けると、確かに真四角の建造物が草むらのど真ん中に置かれている。
建築様式もまるで違うから、世界観ぶち壊しもいいところだ。
「他の階層同様に、ここも学校の三階と融合したようだね」
顎に手を当てながら、冷静に考察する日屋見さん。
そんな私たちの反応を見て、ネムシアは不満げに頬を膨らます。
「おぬしら、もっと盛り上がっても良いのではないか。我がアドラシア王国が、滅びずに美しい姿を保ったままここに存在しておるのだぞ?」
彼女が喜ぶ気持ちはわかる。
ただ――それがぬか喜びにならないか、私も不安で仕方ない。
なにせ空を見上げれば、そこには明らかな異変があるのだから。
ネムシアは故郷に帰れたことが嬉しくて、まだ気づいて無いんだろうか。
とっくに気づいているであろう令愛は、空を見上げながら、恐怖に表情を曇らせ私の指を握っている。
「あの“穴”……何だろう」
令愛が見ていたのは、青い空にぽっかりと開いた真っ黒な穴だ。
その先に星の浮かぶ宇宙があるわけでもなく、ただただ黒い。
「あっちには白い物体も浮かんでるし」
「王国の空にそのようなものが浮かんでおるはずが――な、なんじゃあれは」
お手本のような反応を見せるネムシア。
穴の方はともかく、白い物体の方は私には心当たりがあった。
「カイギョの牙」
「え? ああ、1階にいたときに一年生の子が言ってたやつ!」
この学園がカイギョに呑み込まれたとき、体育の授業で運動場にいた一年生たち。
そのうちの一人が、空から白くて巨大な牙が落ちてくるのを見たと話していた。
おそらく、それと同じものなんだろう。
「なぜそのようなものが、王国に……」
ネムシアの声が震え、瞳が揺れる。
私はぽん、と彼女の頭に手を置いて軽く撫でた。
するとその目から涙が一滴こぼれ落ちる。
「エリカ、泣かせた?」
ギィは茶化すわけでもなく、素の表情でそう言ってきた。
いや、流れを見てたらなんで泣いたかわかるでしょ――ギィらしいといえばそうなんだけど。
「そういうんじゃないから。はぁ……ネムシア、しんどかったら私の胸とか使っていいよ」
「その必要は――」
無い、と言おうとした途端に次の涙が溢れて落ちる。
それで誤魔化すのは無理だと判断したのか、彼女はくるりと私の方を向くと、両手でぎゅーっと抱きついてきた。
「……すまぬ。思ったより、胸が苦しい」
胸に顔を埋め、嗚咽を漏らす彼女の背中をゆっくりと撫でる。
カイギョの牙が突き刺さっている――それは他でもない、この王国が滅びた証拠だ。
そしてネムシアも気づいているはずだ。
ここには、風すら吹いていないことに。
確かに草原は美しいけれど、まるで絵画のように景色が止まっている。
ふいに日屋見さんがしゃがみ込み、草に触れる。
すると指先が当たった途端に草は粉々に砕け落ちた。
それを見たギィが、近くにあった木を蹴りつける。
するとその軽い衝撃だけで、幹は倒れた。
「見た目ではわからないけど、ぜんぶ腐ってる」
ギィが言った。
ネムシアの体がぴくりと震える。
そして彼女は、私にしか聞こえない小さな声で話しはじめた。
「本当のことを言うと……少しだけ、記憶は戻っておったのだ……」
「2階にいる間に?」
「うむ。最後の滅びまでは思い出せんかったが……壊疽が、怪物が王国各地を襲っていたことは覚えておる。それでも、その頃はまだ、街道には人の往来が……活気だってあったはずなのだ……」
見た限り、この街道に私たち以外の人の姿は無い。
その時点で、おそらくネムシアはここに起きた異変に気づいていたんだろう。
「ねえ依里花、とりあえず落ち着ける場所に移動しない? こんな場所じゃ、いつ化物に襲われるかもわからないし」
「そうだね……ネムシア、それでいい?」
「そちらの方が、我も落ち着くか……」
こうして抱きしめてやれば、一時的な応急処置ぐらいはできるかもしれない。
けれど本格的に傷を癒やすには、体を休めることも必要だ。
もっとも、そんな場所が残っているかはわからないけれど。
ネムシアが顔をあげる。
赤く腫らした瞳で彼女はこう提案した。
「そう遠くない場所に教会があるはずだ。ここにいる人数が寝泊まりできる広さはある」
「ありがと。じゃあそこに移動しよう」
皆を引き連れて、私はネムシアの知る教会を目指す。
その間も辺りは異様なほどに静かで、人間どころか、ゾンビの姿すら見当たらなかった。
◇◇◇
教会は、城から少し離れた外にあった。
建物はかなり立派で、壁にはステンドグラスまで使われている。
一方で外の草木同様に腐敗自体は進んでいるらしく、軽く壁に触っただけでレンガがぼろぼろに砕けた。
内装も同様だ。
「これじゃあ使い物にならないね」
「うん……いつ崩落するかわかんないよ」
私と令愛の会話を聞いて、ネムシアがうつむく。
「この教会も残らぬか……」
「ネムシア……ここ、何か思い出とかあったの?」
「うむ、幼少期に父上に連れてきてもらってな。立場が立場ゆえに、自由に遊べなかった我と兄上はよく司教に遊んでもらったものだ」
過去を思い出しながら、長椅子に触れるネムシア。
すると椅子は粉々に砕け、バランスを崩した彼女を私は慌てて抱きとめた。
「すまぬ」
「見た目は腐ってるように見えないから仕方ないよ。でも気をつけて、たぶん……全部ダメっぽいから」
「だな」
この教会はとっくに死んでいる。
拠点にするには厳しいし、近くに落ちている教室に移動したほうがよさそうだ。
「石造りの建物まで腐らせるとはな」
「不思議なものだよね。見た目の上ではそんな風には見えないのに、中身は完全に破壊され尽くしている」
「グゥ……じきに世界そのものが腐って、崩れるのカモしれない」
「アドラシア王国も、1階で見たあれらの世界と同じ……なのだろうな」
それを聞いて、井上さんが首を傾げた。
「1階で見た世界、って何なの?」
「井上さんは2階にいたから知らないよね。1階では教室のドアを開くとさ、その先が学校とはまったく関係ない異世界に繋がってたの。たぶんあれは、今までカイギョに滅ぼされてきた世界なんだと思う」
「そんなものがあったのね……でも、だとするとカイギョっていうのは、曦儡宮よりも遥かに強い存在ってことになるわよね。曦儡宮はあくまで、私たちの暮らすこの世界の神様だもの」
「どれだけアドラシア王国が優れていようとも、世界を丸ごと食らい、神すらも腐らせる存在などに抗えるはずがなかったのだ」
そのために私たちのように“力”を与えられた人間だっていたはずだ。
けど現状、その力ですら死を先延ばしにする程度の影響しか与えられない。
……どうも私たちは事情が違いそうだけど。
「改めて冷静に見てみると、この世界は不気味極まりないな。窓から外を見ただけで寒気がする」
「何か見えるの?」
令愛の言葉に、ネムシアは首を横に振った。
「逆だ。あるべきものが見えぬのだ」
私は窓の外に目を向ける。
そこには、青い空と歪な形をした山が見えていた。
「北には賢者たちが住まう、それはそれは高い塔があった。東には遠くに山が見えたはずなのだ。だが、そのどちらも跡形もなく消えておる。さらには西にあった山も、かなり小さくなっておった」
東西南北で言われてもここじゃよくわかんないけど、要するに世界そのものが崩れたことで、地形も変わっているらしい。
このあたりはまだ“生きていた”頃の姿を保っているけれど、遠く離れた場所はとうに原型も留めていないのだろう。
「……ああ、ちょうどよい。見よ、今まさに崩れようとしておるぞ」
窓の向こうで、不安定な形をしていた山が倒れていく。
「山が落ちて地面に呑まれていく――そうそう見れる光景じゃないね」
「見て嬉しいものでもないだろう、麗花。あれはさっきの遊園地と同じ現象が起きていると見ていいのか?」
「我にもはっきりとしたことはわからぬよ。山が崩れるということは、それを支える大地が消え失せておるのであろう。そこに住まう命と共に――いや、命はとっくの昔に消えておるのかもしれん」
賑わっていたはずの王城の近くにも人の気配は無い。
人間は大地よりずっと脆い存在だ。
どこにも姿が見えないということは――そういうことなんだろう。
◇◇◇
私たちは教会を出て、近くの教室へと移動する。
どうも三年生の教室らしく、中には人間もゾンビもいなかった。
誰かが住んでいた形跡も無いので、異変に巻き込まれてからは放置されているんだろう。
アドラシア王国と異なり、腐敗の影響を受けていないのか、ここは椅子や机も普通に使うことができた。
馴染みのある内装ということもあってか、生存者たちは外に居たときよりもリラックスした様子で、各々体を休めている。
ネムシアもぐったりした様子で、床に座る私にもたれかかっていた。
「あの学舎の状況を見た時点で、頭では理解しておったのだ。ただ、見てみぬふりをせねば、心が折れてしまいそうな気がしていただけでのう」
「だろうとは思ってたよ。ネムシアは頭いいもん」
「しかし、さすがにこうして現実を突きつけられると逃避を続けることはできぬな」
「周りから崩れてってることを考えると、一番影響を受けてないのはあのお城だと思う。ひょっとするとあそこなら生き残りとかいるかもよ?」
「下手な慰めはせんでよい。旗もあがっておらぬし、兵士の姿も見えぬ。仮に生き残っておったとしても、それが人である保障は無かろう」
可能性の話をするのなら、ここに存在する可能性が最も高い生物はカイギョの壊疽――化物だ。
その姿すら見えない以上、人間の生き残りに期待するのは無理がある、か。
「お主が肩を貸してくれるだけで十分だ。心は安らぐ」
「うん……」
「無論、そう感じるのは郁成夢実の影響も大きい。しかし最近は、自分と自分以外の境界線がわかるようになってきた。ネムシア・アドラークとしても、共に戦ったお主のことをそれなりに信頼しておる」
「お兄さんに似てるって言ってたもんね」
「うむ。お主のあの笑い顔、我は好きだぞ」
相変わらず元気は無いけど、冗談を言って笑い顔を作る余裕は出てきたみたいだ。
本当に肩を貸すだけで力になれたんなら、まあまあ嬉しい。
令愛とギィは気を遣ってか、こちらには近づいてこない。
生き残った女子だけで集まり、何やらとりとめのない会話を交わしているようだ。
そういえば、牛沢さんや巳剣さん、あと赤羽さんも、戦闘前にパーティメンバーに入れてたからレベル上がってるはずだよね。
あとでポイント割り振っておかないと。
人数も増えて、食料にも期待できないから、農業系のスキルあたりがいいかもしれない。
「兄上……兄上、か……」
「どうかした?」
「記憶はまだ完璧に戻ったわけではないのだが……懐かしい景色を見ていると、少しずつ蘇ってくるのだ。ああ、これは最後の記憶なのか? 我は兄上と……会っていた……?」
すでに国は滅びた。
思い出したところで、何か有益な情報が得られるというわけではなく、辛い現実を突きつけられるだけだろうけど。
でもネムシアが思い出したいって思ってるんなら、何か手伝いたいとは思ってる。
そう思っていると、ふいに扉が開く音が聞こえた。
真恋と日屋見さんが外に出ようとしている。
「どこに行くの?」
「確かめなければならないことがある」
「時間がかかるかもしれないから、しばらく戻ってこなくても気にしないでね」
そんな不穏な言葉を残し、日屋見さんだけが手を振りながら二人は部屋を出ていった。
「よかったのか?」
「真恋のやつ、まだ何か隠してるみたいなんだよね」
三年の担任、瀬田口先生――龍岡先輩や島川優也、七瀬朝魅の担任って時点でろくでなしなのは確定してるけど、その男と私も何か関係があるって言うんだよね。
気になる……けどこの感じ、あっさり真恋が教えてくれそうって雰囲気でもない。
無駄に感覚が優れてるから、後をつけたりしたらすぐにバレちゃいそうだし。
「まあ、今は放っておくしかないんだけど」
「お主らもなかなか訳ありの姉妹だのう」
「訳ありっていうか、私が一方的に家族に嫌われてただけ。あ、そうだ、私たちも散歩にでも行く?」
「散歩か。見知った景色を見れば、さらに記憶が蘇るかもしれぬな」
そう言って、ネムシアは少し考え込むような仕草を見せた。
「……そうだな、立ち止まっておっても何も変わらぬ。付き合おう」
「名所とか案内してくれると嬉しい」
「観光か?」
「重要施設に敵が潜んでるかもしれないでしょ」
「ははっ、なるほどそれは一理あるのう」
残ってるうちに、綺麗な景色とか見れたら嬉しいとは思うけどね。
そして私たちは他の面々に一言告げて、外に出ることにした。
令愛やギィ、井上さんだっているし、仮に何かに襲われても大丈夫だろう。
◇◇◇
「我がいなくなってから、どれぐらい時間が経っておるのだろうな」
草を踏み砕き、教室と街道を繋ぐ道を広げながら私たちは歩く。
「あんまり経ってないんじゃない? まだお城が崩れるまで時間はありそうだし」
「その割には、死体の一つも見えぬのだ」
「死体は……ほら、学校にゾンビとして飛ばされてきてたから」
「ああ、そうであったな。しかし全員が化物になったとは……肉体が腐った時点でカイギョに食われてしまったのかのう」
ゆっくりと思い出したことを話してもらえたら――と思ってたけど、いきなり物騒な話になっちゃったな。
まあ、状況が状況だし仕方ないか。
「そういや、アドラシア王国には戒世教とか、それに似た宗教はなかったんだっけ」
「うむ、人の憎しみを好んで食らう神など聞いたことがないのう。仮におったとしても、それは悪魔として扱われるべきではないか?」
「それは私も思ってた。まあ井上さんも言ってたことだけど、やっぱ曦儡宮は私たちの世界限定の神様だよね」
「しかし召喚の儀式とカイギョは無関係では無いかもしれぬ」
「お、さっそく何か思い出したの?」
街道に戻ったところで、ネムシアは足を止めると、前方にある王城に目を向けた。
「『カイギョは俺の憎しみを認めてくれた』」
「俺ってことは……それ、お兄さんが言ってたの?」
「兄上は父上と婚約者が殺されたあと、行方不明になり……我とは長らく会っておらんかった」
「前もそんなこと言ってたね。そのあと再会したけど、会話の内容を覚えてないって」
「うむ、だが少しずつだが……ああ、記憶が蘇ってきた。それはかなり、カイギョの壊疽による攻勢が強まった頃のことだった」
頭に手を当て、記憶の扉を開くネムシア。
「ある日突然、兄上は玉座の間に現れた。警備の騎士を皆殺しにして、わざわざ我に顔を見せにきたのだ。形こそ人間のままであったが、別の……何か、とても恐ろしい存在に変わってしまったことを、我は本能で察知した」
「化物になってたってこと?」
「そう、だな。そうだったのだろう。しかし会話は成立した。兄上は、先ほど言っておった言葉を我に告げ……そして、必ずやこの汚れた世界を壊してみせると、我に言った。そして、我にも協力してほしいと、手を差し伸べたのだ。お前もこの世界が憎いはずだ、と」
「仲間を増やそうとしてたの? っていうか、ネムシアも世界が憎いって……」
「アドラシア王国は、確かに大陸を統一し覇権を握った。おかげで国同士の争いは消えたが、その後にあったものは身内同士での醜い権力の奪い合いだったのだ」
人間はどこまで行っても争いをやめられない。
別に私はそれを愚かだとか言って、かっこつけるつもりはない。
誰だって自分が得をしたいと思うだろうし、そのために命を賭けることだってあるだろう。
でも、行き過ぎてしまえば、いつかどこかでしっぺ返しを食らう。
「我がまだ幼かった頃、最初に母上が殺された。犯人はわからぬままだったが、父上はそのことに激怒し、親族が何人も処刑された。そしてまた憎しみが生まれ、最終的に父上が殺されてしまった。確かに、我もこの国が憎かった。親も、親しかった同い年の親族も、みな死んでしまったのだからな」
「しかもそんな中で、ネムシアが国王に担ぎ上げられちゃったわけだ」
「権力を削ぐべく婚約者が殺された後、兄上は心が壊れてしまった。失踪し、王位を継げる人間が我だけになった以上、我が生贄になるしかなかったのだ」
生贄――それがネムシアの本音なのだろう。
十代ちょっと少女が女王になったとて、大した決定権など与えられるはずがない。
実際のところは、側近による傀儡政権だったはずだ。
「しかし我は、ある意味で幸運であった。とある出来事がきっかけで、醜い権力争いが沈静化したからのう」
ネムシアは城に向かって街道をまっすぐ歩く。
私はその隣を歩幅を合わせて歩いた。
「もしかして、カイギョの壊疽?」
「そのとおりだ、依里花よ。勇者の力を持った人間の誕生は、一時的に我が国に混乱をもたらした。その力はまさに一騎当千。貴族間の武力のバランスを崩すには十分すぎる存在であった――だが」
「壊疽が出てきて、身内で戦うどころじゃなくなったわけだ」
「勇者の誕生から少しして、人を化物に変える化物が発見された。そこで我は、勇者に化物を倒すという義務と、相応の対価を与えたわけだ。人々は悪を屠り、正義を成す勇者の存在に夢中になり、うまくその波に乗って民の支持を得ることに成功した」
「うまくやってるね」
「おかげで嫌味ったらしい大臣の言うことを聞く必要も無くなり、自由に動けるようになったからのう。我ながら妙案だったと思うぞ。しかし、それも最初の頃だけだ。その頃の我は、まだ気づいておらんかったのだ。滅びゆく世界で、民の支持や権力を集めたところで意味など無い、と」
人類が最初に遭遇した壊疽は、おそらくゾンビやゾンビウルフだ。
それぐらいなら問題なく倒せる。
しかしあの校舎と違って、そこから二週間、あるいは一ヶ月と時が流れていけば――私がまだ遭遇したこともない、強力な壊疽がそこらを徘徊するようになるはずだ。
「カイギョの壊疽は瞬く間に力を増し、数を増やしていった。加えて、我々の世界は分断され、人間同士で協力することも難しくなってしまったのだ」
「この大陸って地続きで繋がってるんだし、普通に協力したらよくない?」
「人間が通れない“結界”が各地に発生し、人類を分断したのだ」
「学園でいうところの、フロアの出口が塞がれてるあれみたいな?」
「そうなるのであろうな。我が思うに、聖域展開なるスキルは、カイギョの使うこの結界を元に作られたものなのだろう」
私たちが得た力は、カイギョの腐敗を人間でも扱えるように浄化したもの。
つまり言ってしまえば、カイギョのコピーとも言える。
今では、カイギョ側が私たちのコピーを作って、大木たちに力を与える逆転現象が起きてるけど。
「結界を消すには、各地域に根付いたひときわ強力な壊疽を倒す必要があった。勇者たちは果敢にその“主”に挑んだが、その間にも人類は数の暴力に押され、壊疽に蝕まれ、そして……」
「滅びた?」
ネムシアは大きく息を吐き出す。
「それが、肝心要の滅びたときの出来事が思い出せぬのだ。最後の頃は、城に引きこもって籠城戦をするしかなかったからのう、おそらく中に入れば思い出せると思うのだが」
「そっか……そういえばさ、あの空にあるおっきな穴。あれは前からあったものなの?」
「いや、見覚えがない。だがあれが牙だと言うのなら予想はつく。同じ世界に二本もの牙を突き立てる必要は無いからのう」
「あー、私たちの世界と融合したときにカイギョが引っこ抜いたから、その痕ってことか」
「そしてあちらに見えるもう一本の牙が、今まさに依里花たちの世界を蝕んでいるカイギョの牙であろう」
牙は空高く、まだまだ手の届かない場所にある。
だけど1階や2階からは見えなかったことを考えると、かなり近づいてきてはいるみたいだ。
「私たちの世界がカイギョに噛みつかれた結果、こうなってるんだとしたら……あれを壊せば元に戻るのかな」
「戻りはせんだろう。失われた命は戻らぬ――井上芦乃は例外だな」
「だよね。でもまあ、脱出の糸口にはなるってことで、とりあえずあれに攻撃できる場所にたどり着くのが当面の目標かな」
「依里花はここが学園の最上階だと言っておったな」
「うん、3階建てだからね。でも一応、上には屋上があるんだよね」
「ほう、つまりここにも“出口”があるかもしれぬということか」
どこに階段があるのか皆目見当も付かないけれど、主を倒していない今、階段の前にはわかりやすい“目印"――つまり道を塞ぐ壁があるはずだ。
それを見つければ、どこから出られるのかはわかる。
「ネムシアは夢実ちゃんの場所がわかったりしない?」
「すまぬが、そういった繋がりは感じられぬ」
「そっかぁ、地道に足で探すしかないかぁ」
そんなことを話しながら歩いているうちに、城の前にたどり着く。
「ここまで真恋たちの姿を見かけなかったけど、どこに行っちゃったんだろ」
「向かうような場所は城か教会ぐらいしか残ってないと思うがのう」
「そもそも土地勘無いはずだしね。瀬田口先生がどこにいるのか知ってんのかな」
「その瀬田口という教師が、倉金真恋が隠している何かを握っておるわけだな。ふん、光乃宮学園の教師という時点で信用ならぬな」
「まあ、こんな場所で生きてる時点で曦儡宮召喚の儀式に関わってたのは間違いないよね」
「仇の一人か」
「うん、だから殺したいの」
そう言って私が笑うと、ネムシアはちょっと嬉しそうな顔をした。
兄上顔……アドラシア王国でそれやると、本人の前でものまねしてるみたいな気恥ずかしさがある。
少し顔の熱さを感じながら、私たちは城門をくぐった。
「跳ね橋は降ろしてあるのか」
「普通は上がってるの?」
「籠城している間はな。つまりは我らが敗北したあとに、何者かがここに入ったということだ」
異変発生当時、教師の他にも三年生たちがこの三階にいたはずだ。
他の腐りきった建物の状態を見るに、彼らが身を寄せるなら、この城ぐらいしかない。
跳ね橋も無事に通れるし、壁に触れても教会みたいに崩れないからね。
そして城に足を踏み入れると、ふいにネムシアが立ち止まった。
入り口から全体を見上げて、「ああ……」と寂しげに声を漏らす。
「誰も女王を出迎えないとは、しつけのなっておらぬ兵たちだ」
力なく笑うネムシア。
はぁ……見てらんないよ。
私は反射的に彼女の体を抱き寄せて、強引に胸に顔を埋めさせ、頭をわしゃわしゃと撫でた。
「女王の髪を乱すとは、無礼であるぞ」
「あとで綺麗にしてあげるから」
「……うむ」
実際のところ、女王になった当時のネムシアって何歳だったんだろう。
ひょっとすると、夢実ちゃんの体よりもずっと幼かったのかもしれない。
それでも誰かに寄りかかったり、頼ったりできる立場じゃなくて。
支えてくれる“全て”が消え失せた今、彼女はとても小さく、か弱く見えた。
しっかり捕まえておかなければ、腐敗してこの世界ごと崩れ落ちてしまいそうなほどに。
私みたいな人間にこう思わせるなんて、かなりのことだよ。
そうやってネムシアのことを励ましていると、遠くで足音が聞こえた。
「誰かいる」
二人でとっさに柱の影に隠れる。
すると建物の中からコロコロとボールが転がってきた。
それを追って、ボロ布を纏った男性が走ってくる。
「おっとっと。もう、遠くまで投げ過ぎだぞ! えいっ!」
中年男性はボールを取ると、建物の中めがけてそれを投げた。
「ははは、ごめんごめん。つい楽しくなっちゃってさ!」
向こうでは誰かが投げられたものを受け取ったみたいだ。
「誰だ? こんなところで何をしておる」
「……学校の先生」
「何だと?」
私は少しだけ柱から顔を出して、奥の様子を観察した。
そこでは大の大人たち数名が、まるで子供のようにボールを投げ合っていた。
「子供みたいにはしゃぎながらドッヂボールしてる……」
「ドッヂ……む、郁成夢実の記憶にあるな。球を使った遊戯か」
「めちゃくちゃ楽しそう」
「馬鹿な、ふざけておるのか? こんな滅びかけの世界で大の大人が遊ぶなどッ!」
「しっ、声が大きい」
「す、すまぬ……」
感情的になったネムシアの声が、わずかに建物内に響く。
さすがにそれには彼らも気づいたらしく、一斉に視線がこちらに向いた。
「誰かがあそこにいるぞ」
「曦儡宮様か?」
「いいや天使様かもしれないぞ!」
「なんとめでたい、お目にかかろう。お目にかかろう!」
ギラギラとした目つきで、大人たちが走ってくる。
「ヤバい、バレた」
「かたじけないっ!」
「どっか隠れられそうな場所ある?」
「こっちに来るのだ!」
私はネムシアに手を引かれながら、城内に足を踏み入れる。
幸いにも、追ってくる大人たちの速度はそう早くなく、すぐに撒くことができた。
しかし城には思ったよりたくさんの人間がいるようで、その気配をかいくぐって、ひとまず身をひそめるために、私たちはある部屋に滑り込む。
「本だらけじゃん……ねえネムシア、ここ図書館か何か?」
「資料室だ。アドラシア王国の歴史書などが収められておる」
「立派な部屋だね。でもこの埃っぽさ、日常的に誰かが使ってそうな感じではないかな」
つまり、たまたま誰かに遭遇する可能性は低いということ。
ひとまずここで気持ちを落ち着けて、これからの動き方を考えないと。
私は近くにあった椅子に腰掛けた。
すると、机に置かれた本が急に開く。
「依里花、何をしたのだっ!?」
「いや、勝手に開いたんだけど」
そしてその本のページが盛り上がったかと思うと、ぬっと男性の顔が現れた。
「うわキモ……」
思わず反射的にそう言ってしまった。
すると男性の眉がへの字に曲がる。
「失礼な人ですね。陛下の名前が聞こえたので、危険を承知で顔を出したというのに」
「しかも喋ったし」
「お、お主はまさか……リブリオか!?」
「そういうあなたさまは、もしかするとネムシア様でございましょうか。随分とイメージチェンジされたようですが」
どうやらネムシアとこの本は知り合いらしい。
「誰?」
「我を補佐しておった宰相の男だ」
「つまり、アドラシア王国の生き残りってこと?」
「このような有様で“生きている”と言えるのなら、そう呼んでも差し支えはありませんよ」
ちょっと鼻につく口調でリブリオと呼ばれた男は言う。
正直、カイギョの壊疽って言われても反論できないような見た目をしてるけど――生き残りって言うんなら、ネムシアがどうして私たちの世界に現れたのかも、知ってるかもしれない。
面白いと思っていただけたら、↓の☆マークから評価を入れていただけると嬉しいです。
ブックマーク登録も励みになります!





