第24話 イオスの血路(上)
【あらすじ】死闘の末、謎の箱型モンスターを倒したイオスとミーシャは異空間――『シュレディンガーの執務室』に転移する。そこで謎の少女アルファに出会い、スキル『シュレディンガーの猫』の秘密を教わることに。話がひと段落したところで、突然アルファの様子がおかしくなる。空間に敵が侵入してきたのだ。
『――至急、本空間より撤退してください』
いつの間にやら、謎の部屋は謎の黒い染みによって汚染されていた。まるで白い布の裏側から黒い染料を垂らしているかのように、次から次へと黒い染みが浮き上がっていく。
『め め め め め――』
アルファは身体の半ばを黒く染めて、同じ音だけを小さな口から吐き出している。やや心が痛む情景ではあるが、幻影らしいので気にしないでおこう……。
「イオス、あれ!」
近寄ってきたミーシャが杖を向ける。その先には大きな黒い染みがある。その染みが盛り上がり、何かが形作られていく。
それは山羊の頭蓋骨だった。
「――!?」
俺にとってそれは言葉以上の意味を持つ。ピプタットで激闘を繰り広げた難敵――漆黒の山羊頭。まさか、あれと同じものか……?
ずるり、とそれが染みから這い出してきた。
頭は山羊の頭蓋骨だが、首から下の肉体は筋肉質で下半身はびっしりと獣毛に覆われている。全身は黒いインクで染め上げたかのような漆黒――眼窩に浮かび上がる赤い光を除けば。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
山羊頭は絶叫すると俺めがけて飛びかかり、拳を打ち下ろした。
俺は反射的に氷衛士のラージシールドを突き出すが――
「ぐぅお!?」
一撃で俺の盾は弾かれた。貫通するかのような衝撃がダメージとなって俺の身体に襲いかかる。
……ピプタットでの戦いを超える威力だ。
理由はわかっている。単純に、今の俺の防御力が低すぎるからだ。
俺は箱型モンスターを倒すために剣魂無双を発動した。あれは俺個人の防御力をゼロにしてしまう技。今の俺の合計防御力は鎧と盾のぶん、535しかない。
減っている防御力に――
前の戦いで消耗した体力。
「……これはなかなかキツイな……!」
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
再び山羊頭が俺に拳を打ちつける。
「イオス!」
ミーシャの声。
大丈夫、それでも問題はない。なぜなら――
俺には剣聖としての攻撃力があるから!
俺の刃が山羊頭の振り下ろしたこぶし、その右腕を切断した。さらに次の一撃で漆黒の腹を真っ二つに切り裂く。
「――!?」
俺は違和感を覚えた。
柔らかいのだ。まるで泥でも切ったかのような微妙な手応え。ピプタットも剣聖への転職後は攻撃力で圧倒したが、これほどの柔らかさはなかったと思うが。
宙を待っていた山羊頭の右腕が地面に落ちる。床に落ちた瞬間、まるで液体になったかのように、べしゃりと黒い染みとなって散乱した。
俺に斬り付けられた山羊頭も、身体が保てなくなった――と表現するべきだろうか、身体がどろどろと流動化している。
俺は踏み込み、さらに斬撃を食らわせた。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
絶叫とともに山羊頭が倒れ、大きな染みとなった。
……どうやら、防御力はそれほどでもないのだろう。これなら、今の俺でも――!
『通告、退去用の入り口を開放します。繰り返します。退去用の入り口を開放します。エントロピーの許容限界の70%まで到達しています。まもなく本空間は破棄されますので、急ぎ退去してください』
無機質な女の声がそう言うと同時、閉ざされたままだった部屋のドアが開いた。ドアの向こう側は真っ白に輝いている――あの先がなんなのか不明だが、とにかくあの先へと逃げろという話だろう。
だが、そう状況はそう簡単ではない。
ぞろぞろ、ぞろり――と。
部屋に広がった染みから次々と山羊頭たちが這い出てくる。
「なかなか大変だな――」
俺は、ははっと笑うと剣を持つ手に力を込めた。
「うおおおおおおおおおおおお!」
俺は襲いかかってくる山羊頭の群れを次々と切り捨てた。
だが、染みから次々と山羊頭が湧き出す速度は俺の殲滅速度を超えていた。俺とミーシャはアルファの座っていた執務机が一歩も動けないでいる。
わりと大きな部屋なので10メートルくらいの距離があるが――
その10メートルが果てしなく遠い。
俺だけならば一瞬の隙をついて縮地で前進することも可能だが、そうなるとミーシャが脱出できない。もちろん、そんな選択肢など存在しない。
だから、
「イオス、あのさ。イオスだけでも――」
「いや、二人で帰ろう。俺に任せてくれ」
俺はミーシャの言葉をきっぱりと遮った。ピプタットで山羊頭と戦ったとき、俺はこう誓ったのだ。ミーシャが死ぬのは、俺より後だと。
だから、俺は絶対にミーシャを守らなければならない。俺が助かるときはミーシャも助かるときなのだ。
なのに――
「くそ! いい加減にしろ!」
俺に切り捨てられた山羊頭が崩れ落ち、黒い染みへと戻る。
そして、息をつく間もなく次のやつが襲いかかってくる。俺が迎撃している間に部屋のどこかで新しい山羊頭が湧き出ている。おまけに、その湧き出てくる速度はどうもだんだん速くなっている。部屋の汚染が進んでいるためだろう。
がきん!
かわしきれなかった一撃を盾で受け止める。身体に響くようなダメージを奥歯を噛んでこらえる。
「なめるな!」
俺はひるむことなく踏み込み、一撃を叩き込む。
……ミーシャとともに助かる! と勇ましく決意したものの、状況はとてもまずい。このままだとじりじりと消耗して押しつぶされるだけだ。
どうにか挽回しないと……。
そのときだった。
『み み み み み――リブート完了』
!?
俺とミーシャは思わず振り返る。イスに呆然とした様子でもたれかかっていたアルファが身を起こしていた。黄金の右目を含めた身体中を覆う黒い染みは消えていなかったが。
ただ、青色の左目には知性の輝きが戻っていた。
『これより個体識別H496ETKGと個体識別U2Y367ARの強制ログアウト処理をおこなう』
アルファがそんなことを言うなり、俺たちの足元に青色の光り輝くフィールドが出現した。
「これは――!?」
だが、アルファは何も答えない。まるで最後の力を振り絞ったかのように動かない。
代わりに、無機質な女性の声がこんなことを言い出した。
『プロセスが実行されました。カウントダウン、180、179、178――ゼロになり次第、指定された範囲内のユーザを強制ログアウトいたします』
そして、女の声がカウントダウンを続けていく。
これは……。
「なんだかよくわからないけど――」
ミーシャが杖で、俺たちの足元にこんこんと叩いた。
「ここを3分死守したらいいってことじゃないかな?」
「わかりやすくていいな」
俺は口元を緩めた。身体にのしかかっていた重い疲労が少し軽くなる。よかった、まだ戦える。ここを守るだけ――俺のような単純な男には、それくらいシンプルなほうが助かる。
「やるか……!」
俺の胸に炎のような気力が再び燃え上がった。
「「「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」」」
山羊頭たちが襲いかかってくる!
更新再開します。1日おきに更新していきますので、次は3月27日です。