第23話 聖人シュレディンガーの執務室(下)
『ようこそ、君』
突然、横合いから声がした。
声? 声と認識するには何か違和感があった。声は声だが、声に限りなく似せた何か。違いは確かに感じられるが、その違いが何かを言語化はできない感じというか。
声が聞こえてきた方角に目を向ける。
確かそこには大きな執務机があったはずだが――
!?
誰かが座っていた。
さっきまでは確かに無人だったはずなのに。
そこには若い女が座っていた。年のころは15歳くらいだろうか。肖像画の人物と同じデザインの服を着た、真っ白な髪の――肌も白い女性がそこに座っている。
だが妙なことに、声をかけてきたわりに女は俺たちのほうを見ていなかった。
『わたしの名前はアルファ。初めまして』
初めまして、という言葉とは裏腹に、女――アルファは相変わらず横にいる俺たちのほうを見ない。じっと執務机の真正面に顔を向けていた。
「おい、俺たちに声をかけているのか?」
俺は話しかけてみたが、アルファは反応しなかった。口をつぐんだまま、前を向いている。
……なんなんだ?
そんな俺の肩をミーシャがちょいちょいとつついた。
「あのさ、あれ、たぶん普通の人間じゃなくて、幻術の類じゃないかな?」
「幻術?」
「蜃気楼みたいな感じかな……ほら、ちょっと少し透けて見えない?」
じっと観察してみるとミーシャの言うとおりだ。
つまり、あれは設定されたセリフだけを喋るように作られたリアルな映像というわけか。
『歓迎するよ――この執務室の主にして我が師、聖人シュレディンガーに代わってね』
……ということは、この妙な部屋こそが『聖人シュレディンガーの執務室』なのだろうか。あの教師ヘイルが探していると言っていた――
俺たちはアルファの眼前に回り込む。
初めてアルファの顔を真正面から見て――思わず息を呑んだ。その左目は蒼く、右目は黄金色に輝いている。
アルファが口を開いた。
『少し話をしようか。君に聞いて欲しい話があるんだ。『シュレディンガーの猫』を継ぐ君に』
……相槌を打っても意味がないので、なかなか会話がしにくいな……。
『実はね、わたしたちは少しばかり世界を壊してしまったのさ』
そのときのアルファの表情は――
とても申し訳なさそうで、悲しそうな様子だった。
……世界を壊した?
『それは小さな疑問から始まった。とても小さな単位――君たちが想像するよりもはるかに小さな世界では『存在』がとても曖昧なんだよ』
曖昧。
俺のスキル『シュレディンガーの猫』で使われている言葉だ。
『そう、曖昧だ。驚くべきことに観測すると属性が変わる。『存在』は見られたと気づいた瞬間に振る舞いを変える。観測しなければ世界はこうあり、観測すれば世界はそうある。いい加減もいい加減、世界は本当に救いようがない!』
なんて言いつつ、本当に楽しそうにアルファは笑ってみせた。
『その発見はすべての価値観を揺るがした。『存在』とは何か。取りうるはずの未来、その経路と確率すべてを内包した――他者に観測されるまでは己を決めることすらできない不完全で不確定なものなんじゃないか、とね』
む……難しい……。
俺は意識が遠のくを感じた。
『つまりね、起こりえる全事象は重なって存在し、観測されることで正しい状態に収束する――それが『存在』なのだよ』
う、うううん……。
あらゆるものは無限の未来を持っていて、何かの拍子でひとつに決まるってことか……?
『世界にあまねく万物は確率に紐づいて存在する曖昧なもの――それが答えならば、次は? その確率に介入できないか? 確率による用意された事象を、己の意志によって選び取ることはできないか? わたしたちはそんなことを考えた』
……確率に対する介入か……。
なるほど、だから俺の『シュレディンガーの猫レベル2』はドロップアイテムを選ぶことができるのか。俺がたどり着き得た未来のひとつを選択する――
『とても楽しい時間だった』
それを懐かしむかのようにアルファの表情が和らぐ。
だが、それは一瞬だけだった。
『使い古された表現で恐縮だが、結局のところ、こう言うしかない』
はは、とアルファが力なく笑う。
『わたしたちは禁断の扉を開いてしまったのだよ』
俺とミーシャの視線が交差する。
アルファが話を続けた。
『君が持つスキル『シュレディンガーの猫』は、わたしたちが作り出したものだ。その力を使って、わたしたちは世界の在りようを操作し、分析し、調査し、吟味した。何度も何度も繰り返し繰り返しね』
遠くを見るような目をしてアルファが言葉を吐き出す。
『――だけど、そこは人が手を伸ばしてはいけない領域だった。人の手には余る領域だった。その愚かな行為を神は許さなかった』
やがて、アルファがぽつりとつぶやいた。
『世界は壊れてしまったんだ』
その言葉に、俺はぞくりと背筋が凍りつくのを感じた。
……シュレディンガーの猫のスキルって、そんなにやばいのか? むっちゃ使ってるけど?
アルファが思い出したかのように付け加える。
『ああ、君のスキルは心配しなくていい。それは機能を制限した代物だから。どんなに使っても世界に影響はないよ』
……ほっとする。
だけど、今の性能でも充分にチートだと思うんだが、元祖『シュレディンガーの猫』はこれ以上のぶっ壊れ性能だったのか……。
『並行する世界の境目が崩れ始めてしまったのだ。曖昧なりに分たれていた薄い膜が破れた、とでも言うべきかな……。無限の世界が混ざり合い、巨大な単一へと収束し始めた』
アルファが続ける。
『己の場所を見失った世界を繋ぎ止めるため、わたしたちは『原点』を作る必要があった。時間を含めた4つの次元、そのすべてに己の居場所を理解させるために』
アルファが悲しげな表情でこう言った。
『わたしたちの考えたとおり、世界は元に戻った。代償は……猫一匹』
猫……?
そこの絵に描かれていた猫は――
『わたしたちは『原点』として飼い猫のオメガを捧げた。仕方がなかった。適性があったのは実験をともにした我が師とわたし、あとは猫のオメガだけ。そして、わたしたちには実験を遂行する必要があったから』
かくして猫は世界の原点となり、世界は救われた。
『スキル『シュレディンガーの猫』は封印しておいた。世界の平衡が完全に戻るまで。スキルが君に受け継がれたということは、もうオメガを縛る理由はない』
じっとアルファが眼前の空間を見た。
その目は、本当に心からのお願いをするときのものだった。
『オメガを――世界を救うために犠牲になった哀れな猫を拾ってやってくれないか? わたしたちの代わりによくやったと労ってやってくれないか?』
息が詰まるような感じだった。
その猫は、その猫は……。
『今の世界がどうなっているかわからないけど、この周辺にいるはずだ。そう設定しておいたから。スキル『シュレディンガーの猫』を持つ君なら、たどり着ける。それが『シュレディンガーの猫』を完全に封印しなかった理由だ。後世の誰かに――助け出して欲しかった。誰もいない永遠の牢獄に閉じ込められるなんて、かわいそうすぎるじゃないか?』
よかった、と俺は思った。
それはもう、成し遂げられている。順序は逆だったけど、俺たちはもう哀れな猫オメガ――ニャンコロモチを救い出している。
俺はミーシャに目を向けた。
ミーシャがにこりと笑みを返してくれる。
俺は口を開いた。
「オメガは俺が引き取りますから」
たぶん、その言葉はアルファには届いていないだろうけど――
俺はそう言わずにはいられなかった。
『じゃ、よろしく頼 め め』
め め?
突然、アルファが固まった。め、という感じで口を少し開けた状態でアルファが止まっていた。
……なん、だ?
ぱくぱくと口を動かした後、アルファが再び話を始める。
『こぉせえええええのだ、だ、誰かあああにいいいいいぃ? たす、助け出して、ほしほしほしかったああああああ。どぅあれれれれもいな、いないえいえい永遠ノォろおおおおおごくぅに閉じ込められれれれれれれれれれれれれれるな、なななな』
何が起こっている!?
びくりびくりとアルファの身体が震える。アルファの右目、金色の目が急に真っ黒になった。そこからどろりと黒い泥のようなものが流れる。赤い口からも黒い泥があふれ出す。
それだけではない。身体中のあちこちに黒い斑点が浮かび上がっている。
これは――
「イオスッ!」
ミーシャの鋭い声。はっとして顔を上げると、アルファどころか、部屋中のあちこちに黒い染みが浮かび上がっている。
何が、起こっている?
突然、部屋中に大きな警告音が響き渡る。その音を背景に、無機質な女性の声が聞こえた。
『警告。エントロピーの急速な増大を検知しました。本空間に外部からの強制侵食がおこなわれております。繰り返します。エントロピーの急速な増大を検知しました。本空間への外部からの強制侵食がおこなわれております。データロスト3%……4%……。至急、本空間より撤退してください』
俺とミーシャは思わず顔を見合わせる。
そのとき、部屋の隅に広がった黒い溜まりが不意に盛り上がった。
ぼこりと浮き上がったのは――
真っ黒な山羊の頭蓋骨だった。