第4話 イオスの苦い記憶
薄暗いダンジョンを歩いていると、隣を歩く五〇前後の男が口を開いた。
「イオスくん。私にはね、ぜひ叶えたい目標があるんだよ」
「目標?」
「このダンジョンのどこかにあると言われている『聖人シュレディンガーの執務室』を見つけ出すことさ」
――これは夢だ。
すぐに俺は気がついた。
なぜなら、同じ言葉を前にも聞いたことがあるから。
なぜなら、隣を歩く男――老教師ヘイルはすでに死んでいるから。この会話をしたダンジョン研修で死ぬことを俺は知っているから。
そう、これは冒険者学校でおこなったダンジョン研修だ。
生徒たちでパーティーを組み、引率の教師とともにダンジョンへと潜る。俺とパーティーを組むグレイルたちの背中が前方にあった。
「本当にあるんですか、それ?」
夢の世界の俺が尋ねる。ちょうど、学生時代の俺が聞き返したのと同じ調子で。
ヘイルは気さくな口調で応じた。
「ある! ……はずだ!」
「はずだ、がついてきちゃうんですね」
「ふっふっふっふっふ、まあ、学説のひとつ――それもかなり異端だからね……。ある気がするような、しないような、いや、少しくらい可能性はあるかも、まあ、なくても気にするなレベルかな」
「それないですよ」
「はっはっはっは! まあ、そうかもしれない。だけど、私は学生時代からそれを調べているんだけど、意外と的外れでもない気がしているんだよね」
そして、前を向いていたヘイルが俺に視線を向けてきた。
「ひょっとすると、君のスキル『シュレディンガーの猫』が鍵になるかもしれないな。そのときは協力をお願いしたいね」
「ははは……このダメスキルが役に立てばいいんですけどね……」
夢の世界の俺が気のない様子で答えた。
当時の俺は自分のスキルが好きではなかった。当たり前だ。猫を出したり消したりするだけのスキルだなんて。なんの役にも立たない。
会話がひと段落すると同時――
不意に景色が歪んだ。
まるで、急に割り込んできた神さまの手がぐいっと空間をねじ曲げたかのように。
夢の世界がバラバラと崩壊していく。
真っ暗になった。
真っ暗になった世界が再び色づいていく。
さっきと同じダンジョンの光景が浮かび上がった。教師ヘイルが立っている。剣と盾を構えて。左肩の衣服が流血で真っ赤に染まっている。
その目にはさっきのような優しさではなく、緊迫感による鋭さだけがあった。
薄暗いダンジョンの奥――俺たちが逃げてきた部屋に大きな影が見える。そいつはうろうろと歩きながら、がちゃん、がちゃんと耳障りな音を響かせていた。
――そう、あの影だ。安全なはずの階層に、いきなり現れた謎のモンスター。レベル25の戦士である教師ヘイルが応戦したが、これっぽっちも相手にならず俺たちはここまで必死に後退したのだ。
影は追ってこないようだが――
階層の地図を見ていたヘイルがため息をついた。
「……逃げた方角が悪かったな。ここからだと、あの部屋を通過しないと階段まで戻れない――」
そう言うと、ヘイルは俺に地図を押し付けた。
「私が部屋に飛び込んで時間を稼ぐ。その間に君たちは部屋を通り過ぎて逃げるといい」
「せ、先生はどうするんですか!?」
俺の言葉に、ヘイルが口元を緩める。
「心配しなくていい。私だって死にたくないからな。隙をうかがって逃げ出すさ」
そのとき、俺はそれがヘイルの強がりだと気づいていた。ヘイル自身が自分の言葉を信じていないことに気づいていた。だが、何も言えなかった。言ったところで、何も変わらない。弱い俺にできることなど、ほとんど何もないのだから。
「行くぞ」
ヘイルが先陣を切って進む。俺たちは無言でその後に続いた。
そして、部屋にヘイルが飛び込んだ。
絶叫をあげてヘイルがモンスターに斬りかかる。
「おおおおおおおおおおおおおおお!」
それは意味のない行動だった。ヘイルの攻撃がそのモンスターに通じないことなど、すでにわかっているのだから。
それは意味のある行動だった。俺たちが逃げ出す時間を稼ぐために――!
俺たちは部屋に飛び込み、一気に駆け抜けた。
ヘイルがくれた時間だ! 一秒でも無駄にはできない! 俺たちは走りに走った。上階層の階段まで突っ走り、駆け上り、新たな階層をさらに走った。
少しでも、少しでも、あのモンスターから逃げなければ!
少しでも、少しでも、早く学校に戻って助けを呼ばなければ!
ただその衝動に駆られて俺たちは必死に走った。胸に宿る苦い感情と背筋に張り付く死の恐怖に突き動かされて、俺たちはただひたすらに出口を求めてダンジョンを走った――
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
目が覚めた。
まだ窓の外は暗く、部屋は闇に沈んでいる。
夢の世界で感じていた不快感が頭の中に残っていて、実に最悪な目覚めだった。すぐ眠れるかと思って目を閉じてみたが、ダメだった。
「……はあ」
俺はため息をついて顔に手を当てた。
嫌な記憶だ――知っている誰かが『死ぬ』と言うのは。
ヘイルは助からなかった。息も絶え絶えな俺たちから事情を聞いた学園は急ぎ救援チームを編成して送ったが、見つかったのはヘイルの遺体だけだった。
せめてモンスターを討って仇だけでも……!
教師たちは付近を捜索したが、まるで煙にでもなったかのように、そのモンスターは消え去っていた。あの事件以降、ヘイルを殺したモンスターの姿を見たものはいない。
そもそも、そのモンスターの存在そのものが不思議だった。俺たちが伝えたモンスターを知る教師は誰もいなかったのだ。
つまり、今まで発見されたことがないモンスターということだ。
誰も知らないモンスター。
安全なはずの階層に現れた強力なモンスター。
確かにいたはずなのに、消えてしまったモンスター。
多くの謎と、教師ヘイルの死だけが残っていた。
「どうして、こんな夢を……」
強烈な体験だったが、もう何年も前の話だ。感覚的には『そんなこともあったな』くらいには遠い感じの出来事なのだが。
久しぶりにここに戻ってきて記憶が刺激されたのか……。
俺は顔を押さえていた手を持ち上げる。自分の手のひらをじっと見つめながら、ひとりつぶやいた。
「今の俺ならば、勝てるだろうか……」
生前のヘイルのレベルを超えて、剣聖となった今ならば――
結局、その晩は眠りにつくことができないまま、朝を迎えた。
隣の居間に移動すると、
「おはよー」
気楽な様子で朝食を食べていたミーシャが挨拶をしてくれる。
「おはよう……」
俺は冷蔵庫から飲み物を出すと、テーブルを挟んでミーシャの反対側に座る。無言で飲み物を飲んでいるとミーシャが話しかけてきた。
「浮かないねー、イオスくん。顔色が悪いよ?」
「ああ、ちょっとね――」
濁して流そうかとも思ったが、どうにも胸がモヤモヤする。話せば楽になるかと思い直した。……まあ、別に隠したい過去でもないしな。
「実は昔の夢を見てね」
「ふむ?」
パンをかじりながら首を傾げているミーシャに、俺は夢のことを話した。
「――なんて夢を見たんだよ」
「ふぅん」
ミーシャが水の入ったコップに口をつける。
「なんだか大変だね、イオスくん!」
「……昔の話さ」
「じゃあ、昔のイオスくんにお疲れさまかな!」
「そうだね、昔の俺にお疲れさま」
話してよかった。話したおかげか、ミーシャの気楽な調子のおかげかずいぶんと気分が軽くなった。
「イオスは後悔しているのかい? 先生を助けられなかったことを」
「……うーん、どうだろう。あのときの俺にそんな力はなかったからね。情けない、とは思うけども、後悔はないんじゃないかな」
「あのときの、俺に、そんな力は、なかった」
俺の言葉をミーシャが繰り返す。
「今の俺なら、その力はあるのかな?」
「……あるかもしれない。確かに強くはなったから。それと――」
言葉を切ってから、俺はこう続けた。
「仇を討てるのなら、そうしたいと思っている」
「にししし! いいねいいね!」
手をぱんぱんと叩きながらミーシャが笑う。
「目標がふたつも増えたね! 頑張ってみようか?」
「ふたつ? 謎のモンスターを倒す以外に何があるんだ?」
「そりゃ『聖人シュレディンガーの執務室』を見つけ出すことですにゃー」
「!?」
突拍子もない発言に俺は驚いた。そんな俺の反応を楽しみながらミーシャが続ける。
「今は亡き教師の果たせなかった夢を追いかける教え子イオス! 熱い! 熱い展開ですよ、これ!」
「い、いやあ……本当にあるのかな、それ……与太話の類だと思うんだけどね」
「にししし! まあ、与太だよね!」
おい。
「だけどさ、イオス。あてのない旅だし、そういうのもあるよって頭の片隅に入れておくのはいいことなんじゃないかな? 見つかったら面白そうだし!」
「それはそうだな」
確かに悪くない考えだ。
うなずく俺にミーシャが問いかける。
「それで、今日のご予定は?」
仇を探すのも、シュレディンガーの部屋を探すのも急ぐものではない。ならば、やるべきことは――
「……やっぱり強くなることかな」
「ほうほう」
「魔術師に転職してスキル『焦点具不要』でも目指してみるか」
スキル『焦点具不要』があれば、杖がなくても魔術が使えるようになるらしい。剣を振るいながら魔術も使える戦士を目指してみようじゃないか。