Prologue.
「願いを叶えるためなら人はなんだってする。そう思わないか」
「それは例えば、誰かの犠牲の上で成り立つものだとしても?」
「ああ。むしろこう考えるべきだろう。『願望の成就は、誰かの犠牲の上でのみ成り立つ』と」
「そんなはずはないわ! この世界はそんな自己中心的な考えで満ちていない」
だって私は――。
少なくとも私だけは、他人の幸せを祝福できる人間だと思っている。
「君も十分エゴイスティックだよ。エゴで独善的で、それでいてちょいとばかし偽善的だな」
「そう言うあなたはどうなのよ!」
私だけが一方的に声を荒げていた。
彼女はそんな私の心模様などお見通しといった具合で、唇を曲げる。
「もちろん、私も例外ではない。世界はエゴで満ちている。人はそれを隠すために様々なラベルを貼ってきた。宗教、思想、主義主張……。けれど根っこの部分は何も変わっていない」
「何が言いたいの?」
「この世界を動かすのは欲望だ。君はそれを嫌というほど味わっただろう」
「そうね、確かに。私の雇い主はいつも自分の都合のいいようにしか考えていなかったわ」
「そして君はそこに幸福を見出している」
そうだ。
私は人を殺すことに、そしてまた自分が顔の知らない誰かに殺されるかもしれない恐怖に、快感を覚えていた。
私のエゴのために死んでいった人々。
私の快楽のために殺された人。
私の……。
「私は、いつからこんな人間になっちゃったんだろう……」
これまで数え切れないほど命を奪ってきた両手を見つめる。
10代の乙女の掌とは思えないほど、皮が厚い。
右手の人差し指の関節は、他の指のそれに比べ少し太くなっている。
それが殺しの証明。トリガーを引き過ぎた何よりの証だ。
彼女は私に尋ねた。
「この世界は楽しいかい?」と。
それに私は笑って応える。
「ええ、楽しいわ」
「そうかい。そりゃよかった」
徐に立ち上がった彼女は卓上のレコードに針を落とした。
途端、柔らかなピアノの音が響く。ほんの少し部屋の色が付いた気がした。
彼女は両手に氷が入ったグラスを持ち、元の場所に帰ってきた。その一つが私に差し出される。
受け取るとそこに透明な液体が注がれた。鼻の近くまで持っていき匂いを嗅ぐと、鼻腔を深く刺すような匂いがした。
「ねえ、私まだ仕事中なのだけど」
考えれば、どうしてこんなところにいるのか思い出せない。
たしか私はこの極東の小さな島国で、ある任務を遂行していたはずなのだけど……。
「そうつれないことを言うな。どうせ君の任務は失敗したのだから。いま上司に怒られるのと、明日怒られるのにそう大差はないだろ? それにまだ、夜は長い」
彼女はこちらを伺うように見た。
そうだ、私は任務に失敗したんだ。それもこれも全部……。
唇を深く噛み締める。失敗には慣れている。いや、悔しいからじゃない。
悲しいのだ。自分のおもちゃを取り上げられた子供のように、楽しみを奪われたことが悲しいのだ。
思い出すと今度は腹の底から怒りが湧いてくる。
「ほら、ん!」
彼女がグラスをこちらに掲げている。
私も渋々、彼女のグラスに自分のものを当てた。
ほんの少しグラスに口をつける。
滑らかな液体が喉を伝うと、感情の波が自然と穏やかになっていった。
「そうだな。酒のつまみ代わりと言っちゃなんだが、君の物語を聞きたいな。君と、ユーリヤ・パブロエヴァの物語を」
「なに? 千夜一夜物語ってわけ?」
「まさか、君とは今夜だけだよ」
「そうね……」
私と彼女の物語。
語るべきことが多過ぎて、語ってもいいことが殆ど無い、私と彼女の関係……。
でも、きっとこの人にはその全てが見えている。
私の過去も現在も、そして未来も。
ならば話をしても良いのではないかと、その時は思ってしまった。
それに――。
「――夜を越えるには丁度良い長さだわ」
私は、ユーリャ(ユーリヤの愛称)との出会いから語ることにした。