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第六章 第三節  さようならシンガポール

犯人を取り押さえ、シンガポール警察に引き渡した健たちは、矢崎組の松本達と祝杯をあげた。

  健は再びシンガポール警察本部の応接室にマイケルと一緒に座っていた。

 「先日は本当にありがとう御座います。それに今日もまたこちらの、お願い事の為に、わざわざ御足労戴きまして恐縮です。以前に警視が堀内さんに、お尋ね致した時は、事情も知らずに大変失礼を致しました。幸い今は大切な方も回復に向かって居られると聞きまして安心しております。それで改めて、お願い致した訳です」

 その頃ジョイ・ハミルトン警視が尋ねて来た時には、小夜子が生死の境に居た頃で、健は冷静さを失っており、何も考える余裕さえなかった時だった。


 「いいえ、せっかく来てくれたのに警視には、こちらこそ失礼致しました。お陰様で彼女も大分快復して来ましたので、早速駆けつけました。」

 「ありがとう御座います。今回のお話は警視が率先して進められており。堀内さんの武道に惚れ込みまして、我がシンガポール警察も新たに取り入れて見ようと言う事になりました。是非とも堀内さんに御指導願えればと思った次第です」

 それは、あのハイジャック事件の時に見た合気道と空手を合わせた技だった。

 機内に居合わせた乗務員や乗客の話しを聞いて警視は、あの凄い活躍の二人を見て、我が警察署でも、その武術を取り入れたいと思ったそうだ。


 あの時の活躍は誰もが驚きを隠せず、まるで映画を観て居るような凄い技だった。

 それとも手品なのかと思ったらしい。手品と云われたものは要山和尚が編み出した波動拳である。

 あれは誰でも出来る者ではない。まさか波動拳を教えてとは?

娘の小夜子でさえ無理な技だ。強固な体力を持って居なければ不可能な技である。

 「僕みたいな若造が、警察の方々に教えると言っても・・・」

 健は合気道など、人に教えるなんて考えた事もなかった。健にとって合気道は自分自身の精神と身体を鍛える為のものだ。

 だが、それが社会に役立てるのなら嬉しい事だが。


 「いやいや御謙遜を、なにせハミルトン警視が、しっかりその気になって居られますから、私が良い返事を届けねばなりませんので是非お願いします」

 もはや健には断る理由がなく、今後の詳細についてはハミルトン警視を交えて日を改めて話しを進める事にした。

 ただ念の為に波動拳は無理だと伝えて置いたが。

 健は、まさか自分が人に合気道の指導をするなんて夢にも思わなかった。

 フーと頭の中をよぎるのは在りし日の要山和尚の姿だった。

 心の中で要山和尚に語りかけた。


 〔要山師匠・・・師匠の合気道は今シンガポールの地に、新たに受け継がれて行く事を喜んでくれますか?〕

 健はそっと胸に手を当てて呟くのだった。堀内健。あれから何年になるだろう・・・すでに二十七歳を過ぎていた。

 あれから八年近い歳月が流れた事になる。 

 マイケル・ワンへは一応、分かりましたと言ったが数ヶ月の猶予を貰い、一度日本に帰国したいと伝えた。

 もちろん小夜子の回復を待って最後の後片付けをする為だ。

 最後の後片付けとは、要山和尚夫妻の最後の犯人と戦うことだ。

そしてこの手で警察に突き出してこそ、全てが終るのだ。


 そして小夜子が退院する日が来た。松本と橋本はシンガポールに残って小夜子が退院するまで帰らないと組長に頼み込んでいた。安田は小夜子が退院すると日本に一足先に帰国した。

 矢崎組の組長も大層喜んで、健と小夜子に出来るだけの事をして来いと言われたそうだ。

 なんだか今では、矢崎組の客員扱いみたいな存在だった。 

 二〇〇一年、秋。秋と云ってもシンガポールには四季はない。

 あるとすれば雨季と乾季がある。

 そして小夜子は特に後遺症もなく無事に退院する事が出来た。

 健、小夜子、松本、橋本それに健の同僚のジミーサットンと五人でリゾート地に来ていた。沈み行く夕日を見ながら、小夜子の快気を祝って宴が進んでいた。

 「皆さん本当にありがとう。今夜は最高に嬉しいわ・・・でも健も皆さんも危険な事はしないでね」


 中でも橋本はホットしていた、命の恩人が元気になって。松本が笑いながら云った。

 「小夜子さんもね。橋本や俺達を助けてくれるのは有難いが、何かあったら堀内くんに俺たちは殺されかねないからさ。暴れちゃあ駄目だよ」

 みんなはドッと笑った。健も心から喜んだ。シンガポールに来て最高に嬉しかった。

 本当に最高の宴だった。そして祝福してくれた彼等は帰って行った。


 シンガポールを離れる前に二人の想い出を作りたかった。

 二人だけの・・・リゾートホテルの一室で、健と小夜子は暗くなった浜辺をホテルの一室の窓から眺めながら小夜子の肩をそっと引き寄せる健。

 「小夜ちゃん・・・」

 「なぁに? ケン・・・」


 暮れ行くシンガポールの夜景を見ていた二人が、ほんの少し言葉を互いに交わした。

 健は優しく小夜子の頬を包むように両手で触れた。

 その小夜子の瞳が、キラリと光って雫が頬を滑り落ちて行く。

 健は、その濡れた瞼にそっと唇をあてた。

 小夜子は、健の大きな背中に両手を回した手が震えていた。

 やがて健の唇は、小夜子の引き締まった薄い唇に触れた。

 健は窓辺のカーテン閉め、小夜子を抱きしめたまま静かに体を引き寄せた。

 とても長い時間に感じた。健と小夜子の永く熱いキスが終わり唇から離れた。


 それでも二人の眼は、互いを潤んだ瞳で見つめ合って離さない。

 恥らうように小夜子は、ブラウスのボタンを外して行く・・・。

 それは眩しい程の均整のとれた白く美しい裸身の姿だった。

 「ケン・・・私の我が侭を聞いてくれる? 私が健に必要な女なら、この身をこの心を全て貴方に奉げるわ。そしてケン愛しているわ・・・」


 小夜子の潤んだ瞳が健を捉えて、真剣な愛の告白であった。

 「ありがとう。僕は・・・いやオレは小夜ちゃん君の為に生涯を掛けて君を守り、君を愛で包んで生きて行く、そして幸せを約束するよ」

 健は小夜子を強く抱きしめ、小夜子もそれに従って健に包まれて行く。

 健と小夜子の記念すべき夜は、愛のメロディは心地よく流れていった。

 シンガポールの夜は今日も暑く、そして熱く二人を包み込んでいった。


 それから間もなく健はT.T探偵事務所を退職した。小夜子もまた旅行会社を退職した。

 世話になった人たちとも別れの挨拶を済ませて二人はシンガポールを離れる日がやって来た。

 ラザリナにも悲しい別れを伝えた。その神秘の眼が潤んだ事が切なかった。

 なんと? チャンギ空港に見送りに来たのはジミーサットンの他に、あのマイケル、ワン警部まで来ていたのだった。

 健と小夜子の職場の人達も大勢来てくれていた。

 健は苦笑しながらも、其れ程までに自分を必要としてくれるのが嬉しかった。

 「健、あのマイケルと言う人はどんな人なの?」

 健は小夜子の体調や精神的に負担を掛けたくない為に、浜口の拉致の事やシンガポール警察から合気道の指導の話はして居ない。

 浜口が逮捕された事だけは知らせてあった。


 「話そうと思って居たのだが、小夜ちゃんの体調が回復してからと思い、小夜ちゃんが入院している間に何度も頼もまれてね、警察で合気道を教えてくれと頼まれているんだ。最終的には小夜ちゃんと一緒に相談して決めようと思っていたんだよ」

 「えっ! どうしてそんな事になった訳?」

 「ホラ、あのハイジャック事件の時に、誰かが見て居たんじゃないのかな? それより師匠の技を広く伝えたいんだ。それが弟子の務めじゃないと思って?」


 「そう・・・もしかして将来ケンがシンガポールの警官になったりして?」

 「うん。それも悪くないね。でも・・・」

 「健が気にしているのは分るわ。でも日本じゃないから大丈夫よ」

 健は高校時代から警官に憧れていた。それもあの事故で全てが夢となっていたのだ。

 あれから八年。遠い記憶が蘇る。

 原田の分まで強く生きなくてはと、健は飛行機の窓から外を見ると、もう日本の上空を飛んでいた。 


 やがて翼の下に富士山が見えてきた。久し振りの祖国、日本の景色、日本の象徴とも云うべき富士山はやはり心温まる。

 その富士山は雄大な姿を見せて出迎えてくれた。

 飛行機はいよいよ着陸態勢に入り、成田空港の滑走路に轟音を響かせて逆噴射を開始した。急激にスピードが落ちて滑走路を走ってゆく。久振りの日本だ。気持ちが落く着く。

健の小夜子はシンガポール最後の夜に結ばれた。

二人の恋は絆を深く結び、いよいよ日本に帰国する。

そして最後の戦いの挑む。

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