13 夢うつつ
(十三)
夢うつつというのは、起きているのだろうか。それとも寝ているのだろうか。
寝ている間、意識はどこへ行っているのだろう。
果てしない冒険の旅、あるいは、破天荒な時空の狭間へ。
いつも帰って来られるからといって今日はどうなのか。
うーんと寝返りを打つクロードは、自分の近くの話し声に気づいて薄目を開ける。 一人部屋だったはずが、暗い室内には確かに大人らしい、落ち着いた声が聞こえていた。内容は所々聞こえないし、言っていることも少し不自然なのだが。
「最近我は、山ばかりで待たされて面白くないな。久しぶりに人間の肉でも食いに行きたいもんだ」
「それはいいが、見つかれば叱られるぞ。自分は、山で熊でも食っておくさ」
「ふん、良い子ぶりやがって。おまえ、人の肉なんて食ったことも無いんだろう」
「ばかなっ、あるに決まってる」
明らかに場の雰囲気が殺気だってきて、クロードは止めようと起き上がろうとする。 ところが体は鉛のようにぴくりとも動かなかった。 金縛りというのはこの事だろうかと思いながら目だけは必死に声の方へ向けた。
「じゃあ、おまえは最後にいつ食べたんだ?」
「ベオークから来た、教皇の一族の一人を食った。その時おまえもいたはずだ。あれは不味かったな」
思い出したようにその声の主は、ぐえっという音を立てる。
「おまえはどうなんだ?」
「我か……」
その質問に答えるか否か、しばらく間が空く。
「我は、呼び出された主人には否応なく仕えるが。契約が終わる瞬間に気に入らない主人は食ってやることに決めている。前もその前も食ったがな」
「食わなかったことがあるのか?」
「……無い」
そこまで聞いていたクロードは、この語り合う声が誰なのかが分かって驚愕に目を見張った。
「でも、食いたくなかった奴もいたにはいた」
ここに希望の光を見出したクロードの前で声は淡々と続く。
呼び出される時というのは、いつも体中が引きちぎれるような不快感に襲われる。 実際、魔界から経典の呪文によって引きずり出されるのだが。
天井をぶち破って降りてきた赤い魔獣は、勢いがつきすぎていたのか着地に失敗してしまった。 なんという失態。 初めにがつんと格好いいところを見せて主人に見せ付けてやろうと思っていたのにと、苛つきながら顔を上げるとそこにいたのは子供だった。
「ガアウウウウウン」
思いっきり腹の底から脅かすように吼えてやると、少年は驚いてひっくり返る。 その様子があまりにも面白かったので倒れている少年の頭を前足で小突いてやった。
「やめろっ、アウントゥエン」
子供特有の高い声が悲鳴のように聞こえる。 流石に呼び出した主人にこれ以上乱暴もできず、魔獣は足を引っ込めて伏せの姿勢をさっさととると目を閉じた。
「おい、起きろよ。アウントゥエン。早くおきてよ。早くしなきゃ困るんだよ」
それを見て、慌てた様子の少年が必死に魔獣の背中を起こすように揺する。
「早くしないと、警備の誰かが来ちゃう。宝物殿から逃げなきゃならないのに」
と、いう事はここは、どこかの王宮か何かなのだろう。 魔教典の在り処は、その時期によっていろんな所にある。 前は南の国の王が所有していたが、はて、あれからいくらの時が経ったのか判然としない。 時間の流れがここと魔界では違うのだ。
泣きそうな主人の懇願に仕方なくアウントゥエンは立ち上がる。 食いでの無いこどもだが今は主人だ。
問うように見ると、少年は緊張の面持ちで魔獣の耳元へ口を寄せようと爪先立ちする。
「僕をここから出してよ。このお城から、お願い」
そんな事かと魔獣は、鼻に皺を寄せると伏せをして、少年の方に顔を向けた。
「僕に乗れって言ってんの?」
あちこちの毛を引っ張られて辟易しながらも魔獣は、少年が魔獣の上でしっかりとしがみついたのを確認するまで辛抱強く待っていた。 遠くからたくさんの足音が聞こえてくる。 金属音がするということは、兵士なのだろう。
一つ確認するように小さく吼えると少年がぴたりと体を寄せるのを感じて、アウントゥエンは立ち上がったと同時に目の前の窓に向かって飛び上がった。
ガラスの割れる音。 ばりばりと木製の窓枠が壊れる音。 それに気づいた兵士たちが宝物殿の扉を開けた時には、少年を乗せた魔獣は空に舞い上がっていた。
「セイリンさまっ、矢を放てっ、王子さまごとあの化け物を打ち落と……」
その声の終わらないうちに顔を向けた魔獣が大きな口を開けた。 語尾の代わりに飛び出したのは、炎の中での叫び声だった。
「今のすごいね。おまえ火が出せるの? 格好いいなあ」
背中の少年が感心したように呟くのが、ことのほか気分が良い。 そこでもう一度空に向かって火を噴いてやると凄い凄いとはしゃぐ声が聞こえる。
そのままいくつもの山を越えてある山の麓に下りる。 姿勢を低くして降りるように促すと少年は名残おしそうに魔獣の背中から降りた。
用はそれだけかと聞くように顔を向けると少年は、魔獣の首に腕を回してきた。 その腕があまりにも細くてむげに振り払うこともできず、魔獣は黙ったまま少年の好きにさせていた。
「僕さ、男子のいない王に養子に来たんだ。元は王の一番下の弟の子供でさ。父上に懇願されて一昨年王宮に来たのに」
泣き笑いの顔を魔獣の顔に擦り付けながら少年は先を続ける。 王の娘と結婚して王位を継ぐことになっていたんだと寂しそうに。
「今年になって、二番目の后が男児を産んでさ。なんか途端に父上がよそよそしくなったと思ったら、一歳を迎えたら僕を排嫡するって相談していたんだ。 きっと僕は殺される。 だけど、家にも帰れないよ。僕を匿ったりしたら本当のお父様もお母様も殺されてしまう。僕は、どこへ行けばいいんだろう?」
その後は、涙で言葉にならない。 わんわんと泣く少年の頬をぺろりと舐め上げてやるといっそう大きな声で泣く。
「お母様に会いたいよぉ。お父様にお会いしたい」
どこにも行けないと言いながら本心は自分の両親の元に帰りたいのだった。 魔獣であるアウントゥエンにはそこら辺の事はあいにく分からなかったが、彼の要求は分かった。
頭を振って、縋りつく少年を引き剥がすと姿勢を低く取る。
「え? どこに行くの?」
「おかあさまというところだ」
魔獣の言葉にびっくりした少年は、慌てて首を振る。
「だめだよ、僕が帰ったりしたら」
「おまえは行きたいのだろう? おかあさまに? 一度行ったらまた帰ってくればいい。気が済んだらどうする」
「お母様とお父様に逢えたら、僕は死んでもいいや。お礼に僕を食べてもいいよ」
「いいのか?」
「うん、一口で食べてね」
「分かった」
ふっきったように少年はそう言うと魔獣に跨った。
少年のうろ覚えの道案内のおかげで随分と遠回りしながら、しかし確実に彼らは少年の生家に向かっていた。 大きな峠の向こうに見える街並みに見覚えがあるのか、少年の声が弾む。
「ここだ、やっと着いたね、アウン」
正式な名称を言われないと普段は、無視しているものだ。 魔獣を縛っているのは、魔獣の名前で契約した呪文なのだから。 だが、今回はなんとなく少年が勝手に縮めて言う名前が結構気に入っていたりするのだ。 何と言ってもこの子供ときたら、何もできない。 兎も捕まえてやって目の前に親切で放ってやっているのに叫び声を上げて逃げ出したりする奴なのだ。 仕方なく犬歯を使って皮をはぎ、肉の塊にして炎で炙ってやると旨そうに食べる。
悪いことにそれを眺めるのも悪くないと思っている自分がいる。
「アウンがいないと怖くて寝られない」
そう言うもんだから、夜に狩にも行けない。 大きな魔獣の首に手を回して眠る少年の体が冷えないように長い尻尾をふわりと体に掛けてやると、少年は小さく身じろいだ。
宝物殿に忍び込むことは前からやっていたらしいが、そこで埋もれるようにあった魔経典に目をつけて読み込むなど、並大抵の頭ではないはずだ。 腕力にはかなり難がありそうだが、おうさまという生き物は自分ではあまり戦わない生き物だったはずだ。 なら、この少年のような頭がいい奴のほうが向いているのではないかとも思う。
「おまえはおうさまにはならないのか?」
「前はなるんだと思ってたけど。今は僕は生きていたらいけない人間なんだ。アウン、死んだ証に僕の頭の骨と指に嵌めてる指輪を王様に届けて欲しいんだけど。そうしたら、お母様もお父様にも変な嫌疑はかからないと思うんだ」
「おまえ、変わってるな」
「そうかな」
「人はふつう、死ぬのを怖がったり、嫌がったりするもんだ」
魔獣の言葉に少年は泣きそうな顔で小さく笑った。
「僕だって、怖いし嫌だけど。……仕方ないよ。こんな時代のこんな境遇に生まれてきたんだから。でも、最後に伝説の生き物と話せるなんてすごい経験もできたしね」
強がる少年の言葉を神妙に聴きながら魔獣はなぜかざわざわと心が落ち着かなかった。 明日になれば、契約が終わってまた魔界に帰ってのんびり過ごすことができるというのに。 胸がずっしりと重くなるのはなぜなんだろう?
「ここしばらくなにも食ってないはずなのに」
何ヶ月も食べなくたって腹はすくが体調にそれほど響くわけはない。 それが、おおきな魔獣を食べた後のように胃がもたれたように重い。 それは、どんな理由なのかが分からない。 分からないが、今の主人との関わりに関係あるのではとは思う。 食べたいのかと聞かれれば、食べたくない。
「小さすぎて食いでが無いからだ」
口に出してみても自分ながら嘘くさい。 そうは思ってもこんな感情になったことの無い魔獣はそれを解消する術を知らなかった。
あっと言う間に、それこそ逃げるように夜は駆け足で去っていく。 一睡も出来ずに少年の傍らにいたアウントゥエンが体で庇おうとしても朝日は容赦なく少年の体を晒す。
「ううん、朝になったの?」
「まだ寝ててもいいぞ」
「だめだ、朝のうちに人が動き出す前に城に入ろう。行こうアウン」
主人に言われて逆らうこともできず、それでもノロノロと羽の毛繕いをしていると、再び少年に行こうと言われて仕方なく少年を背中に乗せる。
城の尖塔に音もなく降り立つと、アウントゥエンは大きな体に似合わない繊細さでそっと戸を押し開いた。
「ここから、朝お母様がお祈りにいく場所に直接行けるんだ。ここで待っていて」
「我も行こう。心配だ」
「大丈夫」
いきなり少年は大人になったかのような顔でアウントゥエンにうなずくと確かめるように階段を降りて行った。
たいした時間では無かった。 それなのにじりじりと胸を焼くこの気持ちはなんだろう。 少年の安否を気遣うだけなのか。 会いたいのか、会いたくないのかも判然としない。
会えば嬉しいのだと思う。 だが――主人を食わねばならない。 知らない振りをして帰ってしまうか。 このまま逃げてしまおうか。 魔界から離れてこの世界で生きていく。 それもありなのかとも思う。
「食べたくない」
「だめだよ、最後の命令はきかなくちゃ」
アウントゥエンの言葉を聞きつけたように戻って来た少年が小さく、でもきっぱりと言った。
「おまえが戻す呪文を言えば、即座に食って帰ることができるが、頭と指輪は持って行けないぞ」
「大丈夫、言葉じゃなくて魔方陣にしたから。ここに持っているから」
ね? と少年は笑って見せた。
「これに僕の血をつければおまえの縛りは消える。ありがとう。僕のお願いを聞いてくれて。君は僕の最後の友達だよ。君の体の中で僕は生きていくんだ。いろんな時代に、いろんなところへ。君の血になって肉となって。ありがとうアウン」
抱きついてくる少年の涙を残らず舐め取るように頬に舌を伸ばす。 塩の味とともに感じる締め付けられるような思い。
「友達という名前もくれるのか。そういえば、おまえの名前を聞いて無かった」
「そうだね。僕、セイリンっていうんだ」
「セイリン」
「そいつは食べたくなかったな」
「ふーん」
話が終わると同時にクロードは強烈な眠気に襲われて目を閉じた。 聞きたいことが山ほどあるのに。
*
「起きてください、クロードさま」
「え? 朝?」
昨日の晩のことが思い出されてクロードは急いで体を起こす。
「アウントゥエンとサウンティトゥーダは?」
「何言ってるんです? 人に見られるとやっかいなのでもう山へ行かせておりますよ」
じゃあ、やっぱりあれは魔獣たちなのかとクロードは差し出された着替えに袖を通しながら考える。
「あいつら、喋れるんじゃないか。なんでおれには喋らないんだ?」
「そうなんですか?」
気の無いようすでおざなりに返すラドビアスを一睨みしてクロードは、もっとすごい事に気づく。
「あいつ、食べたくないって結局食ったんだよな。今までの主人で生きてた奴っていないって……うっそ、やっぱり、夢だ、夢にしとこう」
クロードは、窓に向かって宣言する。
「おれは不味いぞぉっ」
夢うつつの時、意識はどこへ旅しているのか。
誰にも分からない。
分からないから夢うつつなのだ。
うつつの間、過去へと記憶は帰ることがある。 懐かしい人に会いに。