9 願望―後編
これは、9の願望のつづきです。
朝、目を覚ましたエレンは、自分がラドビアスの寝台の中にいるのに気づく。 部屋の主はどこなのかと、そう広くも無い部屋を見回す。 すると、彼は部屋の隅で毛布を体に巻きつけるようにして転がっていた。
頭を打ったのか、ラドビアスは記憶をなくしているらしい。 しかも、少し性格も違う。 小さい時から知っている彼はもっと頼りないし、もっと砕けた性格だった。
いくら小さな子爵の屋敷といえど、もっと主従関係をはっきりするようにと父親に言われていたのを――エレンは思い出す。 その父親も二年前に起こった馬車の横転事故がきっかけで寝込んでしまい、同乗していたラドビアスの父親もその時亡くなった。 気丈に後を継いで子爵家を維持しようと頑張っていた母親も、今年父親が亡くなった心痛でとうとう倒れてしまう。 自分がしっかりしなくてはとエレンは、自分なりに仕事をする。
だが、今まで家の運営などやった事も無い彼女に何もできるわけでもなく、家計はどんどん悪化していく。 使用人も僅かになり、そうすると屋敷はあっと言う間に痛む。 城がどんなに維持にお金がかかるのか、生きていくのにはお金がかかるのか――そういう事を彼女は初めて知ったのだった。
「エレン、お早うございます。あなたの寝室が分らなかったもので、すみませんがここにお連れしました」
「お早う。だったらそんな所で寝なくても一緒に寝台で寝れば良かったのに」
「え?」
エレンの身じろぐ気配に目を覚ましたラドビアスは、彼女の言葉に固まる。
「小さい頃はよくそうやって寝ていたじゃない。まあ、あとでおまえの父親にしっかり怒られたけど」
にっこりと笑う彼女の笑顔に、またもや胸が痛くなる。 わたしは、こんな彼女の無邪気な仕草や言葉にいちいち胸を苦しくしていたのだろうか。 たぶんわたしは、彼女が思ってる以上の関係を望んでいたに違いないのだ。 それを隠して寝台に一緒に入るなんて、拷問に近い。
「あなたは、もう立派な女性なんですから、使用人、それも男性と同じ寝台で休むなどと言ってはだめです」
「ラドビアス」
お小言を言う彼の頬にエレンの平手が飛ぶ。 乾いた音に驚いてラドビアスが彼女を見ると、エレンの目にみる間に涙があふれてきた。
「ばかやろう。何もかも忘れるなんて。じゃあ、あの約束も忘れたのか」
「約束……ですか。何を約束していたんでしょう?」
「知らないっ」
大声を出して駆け出そうとする彼女を止めようと思わず腰に手を回してしまい、ラドビアスはまずいと思ったが、今更手を離すのもおかしい。
「大事な約束だったんでしょう? だけど頭を打ったせいで思い出せないんです。エレン、わたしとあなたでどういう約束をしていたのか、教えてください」
抱き込むような形になった後、しばらく逃げようとジタバタしていたエレンも諦めたのか大人しくなった。
「おまえは、わたしを……やっぱり、いい」
「わたしがあなたを、何です? 言ってください」
「覚えてないからって笑うなよ、ラドビアス」
「笑いませんから、何です?」
エレンは下を向いてぼそぼそと応える。
「わたしが十八になったら、一緒になると言った」
その言葉にラドビアスは、今度こそ本当に絶句した。
「笑われるのも嫌だけど、何も言われないなんてもっと酷い」
目を丸くして立ち尽くすラドビアスを睨み上げる彼女に、何と言ったらいいのか、答えが出ない。
その彼の首がいきなり引き寄せられる。 暖かいものが自分の唇に触れて。 それがエレンの唇だと気づくと、ラドビアスの中で何かが動き出す。 一旦離れた彼女の肩に手を回して顔を近づけると、エレンはそっと目を閉じる。
――ああ、わたしは、やはりこの人を愛している。
愛している。 それで満たされた感情に彼は我を忘れて、エレンに深く口づけた。 思い出したのではない。 だが、自分の存在すべてが彼女を求めていた。 こうなる運命だったのだと確信する思い。 いや、願望か――。
願望。 その言葉にラドビアスは背中を冷たいもので撫でられたようにぞくりとした。
何度も交わす口付けに酔っていたエレンは、急にぴたりとラドビアスが口付けを止めたのを不満顔に見あげる。
「なんだ、急に」
気まずい雰囲気が立ち込めて、エレンが突き飛ばすようにラドビアスから離れる。
「なんで、みんな忘れてしまうんだ。ラドビアスのばか」
八つ当たりのように音を立てて閉まる扉を見つめてラドビアスは、呆然としていた。
願望という言葉が、なぜか頭から離れないのだ。 何か、その言葉に記憶の鍵があるのは間違いない。 でも、それを暴いて、もしその記憶が思い出さないほうがいいと思うものだったらどうする。 このまま、エレンと共に生きて行くほうがいいのではないのか。
彼女を愛している――その事だけは真実なのだと分っているのに。
だが、一旦浮かんだ思いは無くならない。 亡くした記憶。 その真実はどうだったのかということ。 思い出せば全て終わってしまう……そんな予感がするのに突き止めずにはいられない。
エレンとの気まずい空気の中で、ラドビアスは恐るべき速さで仕事を片付けていく。 仕事に没頭していると安心していられた。 昼食時になって意を決したようにラドビアスは立ち上がると、ある場所を目指す。
始まりの場所へ。
そんなに広くない屋敷の庭の片隅にそれはあった。 だいたい、どこに比べて広くないと思ったのか定かじゃない。 それなりに大きい庭だとは思う。 庭師も通いの年寄りだけになって、最低限の仕事しかしていないので、秋を迎えた庭は、落ち葉でうめつくされていた。
その鮮やかとはいえない黄ばんだ落ち葉を踏みしめた時、ラドビアスの頭の隅で何かチリリとよぎる。
噴水のある水場につくと、心を急かされるような感情に支配された。 自分は何か、他に重要な事をしていたのではないか。 どうすれば思い出せるのか分らないままにその水の中に手を差し入れた。
途端に、雷に打たれたような痺れが手から全身に回ってラドビアスの記憶は、蘇る。 彼が危惧したとおり、それは、今の彼にとって嬉しいことでは――無かった。
「ラドビアス」
そこにかかる、高い可愛らしい声。 振り向くとそこに妹のシャロンが立っていた。
「また、ここにいたの? お姉さまが探していたわよ。ここは、わたしだけのお気に入りの場所かと思っていたのに、あなたもそうだったの?」
「ええまあ。それより、エレンが探していたとは?」
姉の名前だけに反応する彼を拗ねた顔で見ながらシャロンが渋々用件を伝える。
「ラドビアスったら、わたしだってあなたの事好きなの知っているくせに。幼馴染なのはわたしだって一緒なのに。さっき、叔父様の息子のカイル様がお見えになったのよ」
「わかりました。戻りましょう。それはそうと、わたしもシャロンのことは好きですよ」
「その好き、じゃないのにぃ。もういいわ」
シャロンは不貞腐れたように横を向いてしまった。
*
談話室に向かうと、エレンと楽しそうに話す、若者が目に入る。 眩しいくらいの艶のあるシルバーブロンドの髪、澄んだ黒に近い青い瞳。 何か言葉にならない感情に支配されて、ラドビアスは胸を押さえた。 自分は、彼を知っている。 それは、この世界の彼ではないが。 なぜなら、初めて会ったという相手に、まだすがたを見ただけの相手に感じているこの感情は、嫉妬だからだ。 お馴染みの感情。 彼はこの世界のヴァイロンなのだ。
「戻ったか、ラドビアス。カイル、話すのは初めてかな? 今家のことを任せているラドビアスだ」
「ああ、執事のルシチアンの息子だね。君がここを取り仕切っているの? わたしも気になって久しぶりに来てみたんだが、すごい有様だな。大丈夫なのか」
「わたしが至りませんで。申し訳ありません」
ラドビアスの謝罪に、エレンがカイルに慌てて釈明する。
「こいつが事務をし始めたのは、今年からだよ。今は立て直そうと二人で頑張っている途中なんだ」
「そうか、でもいつでもわたしが相談にのるよ。父上はあんまりあてにはしないほうがいいけど。わたしは、君のことも、シャロンの事も大事に思ってるんだから。大変なら、遠慮なく言ってくれよ。援助も含めて出来るだけのことはするから」
エレンの手を取って語りかけるカイルの様子はとても誠実さに溢れていて、ラドビアスは苦しくなって顔を背けた。
――分るのだ。 理由なんてない。 カイルが人間的に優れている事を。 エレンに好意を抱いている事を。 そして、彼女を幸せに出来るだろう事も。 彼がヴァイロンの写し身ならば。
その後から、ラドビアスはそれこそ寝る間を惜しんで執務室に篭って溜まった書類と格闘した。 一週間後、書類は綺麗に片付き、これからの展望も開ける状態に持っていけたと彼は、ほっとペンを置く。
あくびを一つもらして、背伸びをすると自分の部屋に疲れた体をひきずりながら戻る。 あれ以来、エレンとも事務的に話すだけになったが、自分からは話しかけることは出来なかった。 記憶が蘇ってしまった今となっては、これ以上踏み込むことは出来ない。
ところが、ゆっくり戸を開けると、今まで考えていたその本人が部屋に――いた。
「エレン」
「遅いじゃないか、もう少しで寝込むところだった」
「寝ても良かったのに。どうしたんです?」
答える代わりにエレンは抱きついてきた。
「エレン?」
「なんでおまえは、あれきり何も言ってこないんだ」
「それは――」
それは、今の自分はここにいてはいけないから。 あなたと愛し合うのは、違う自分なのだと分ってしまったから。
言葉に出せないせつない気持ちでエレンを見つめると、するりと彼女の指がラドビアスの唇に触れる。
「口付けて、ラドビアス。いつものように」
思い出してしまうと、彼女の言葉は魔法のようにラドビアスの思考を奪う。 彼の愛した人の顔で、声でそんな事を言われてしまうと……。
この人は、カルラではないと。 分っていても手が止まらない。 他の人の事を想いながら抱くなんて不実なことだと分っている。
それでも、ただ嬉しくてたまらない。
折れるほど抱きしめると、痛いと言いながらも彼女の手にも力が入る。 そのままもつれるように二人は寝台に倒れこんだ。
「愛してる、ねえラドビアス。名前を呼んで」
何度も交わす口付けの後、首筋に顔をうずめていた、ラドビアスにかかる言葉。 それは、魔法が一瞬に解ける呪文になった。
「エレン、すまない。わたしは何て事を」
「ラドビアス?」
そのまま、ラドビスは避けるように立ち上がると、外に飛び出して行った。
背中に、すまないってなんだよという言葉が小さく聞こえた。
乾いた落ち葉が踏みしめるうちに湿った音になる。 目の前には、噴水が水を静かに垂らしている。 ラドビアスは、この後に及んで斜め後ろを振り返った。 そこは、屋敷のある方向。 願望が叶ったと喜ぶべきだったのか。
自分を呼ぶ声に応えれば良かったのか。
でも、自分が愛しているのはカルラなのだ。 似た人では我慢できない。 なんて自分は強欲なのか。 あの口付けも何もカルラに捧げたいもの。 それでなければ満足できない。
「わたしは、幸せになれない性格なのかも」
苦笑いをしながら、ためらいもなく彼は水の中に身を沈めた。
*
「ラドビアス、寝てんの?」
体を揺すられてラドビアスが目を開けると、クロードの顔が間近にあった。
「待ちきれなくて探しに来たら、ラドビアス寝てるんだもん」
「クロードさま、すみません。どのくらい経ったんでしょう?」
うーんとクロードは、どのくらいだっけ? と横の魔獣に話しかけながら首を捻る。
「半刻くらいか、それより少し短いくらいかな。それより水場なんてないよな」
クロードの言葉にラドビアスも辺りを見回すが、周りは同じような広葉樹ばかり。
「わたしとした事が聞き違いだったんでしょうか。夢を見ていたんですよ」
「夢?」
ええ、とラドビアスが笑う。
「どんな夢?」
「嬉しく、悲しい夢でした。――でもクロードさまも出てきましたよ」
「どんなだった?」
聞かなければ良かったとクロードは思うことになるが、全ては後の祭り。
「クロードさまが可愛いドレスすがたで、わたしのことが好きだと仰ってました」
ラドビアスの言葉に、げぇと大声を上げてクロードは彼から飛びのく。
「お、おれが? ラドビアスに? す、好きってぇ?」
はいとニヤリと笑うラドビアスに、クロードは恐る恐る聞く。
「で、おまえは何と言ったの?」
「はい、わたしも好きですと応えましたよ」
ケロリと言うラドビアスにクロードは、青くなった。
「夢の話だよな」
「勿論」
横で笑い転げている魔獣に、こらっと雷を落としてクロードは、ぶつぶつ言いながらも元の道へと帰る。
「クロードさま」
「何?」
「とてもお可愛かったですよ」
「うるさいっ。勝手におれのドレスすがたなんて見るなよ」
「仕方ありません、夢なんですから」
ラドビアスは、そう言ってクロードの後に続く。
彼の懐にある、小さい水筒がぽちゃりと水音を立てた。