009 深夜の来訪者
「うぷッ……フェレにつられて、意味も無く水飲みすぎたか……」
明かりといえば、家の戸の隙間から微かに射す月明かりのみで部屋の中は真っ暗で、正確な時間も分からないが午前3時を回ったぐらいだろうか。
もともと目は良い方なのだが、この島に来てというもの夜の暗さに順応したのか、はたまた儀式を行い力が高まったせいなのか、幸いな事にこの暗さでもはっきりと見えるのは助かる。おかげで、直ぐ隣で布団を蹴り飛ばし、体をくの字に捻ってお腹と御尻を露わに寝ているあられもない姿のフェレリアス様に服を直し、布団をそっとかけてやり、踏みつけないようにまたぐ事もできる。
「ふみゅにーーュ もう、飲めないわーーぁ みひゃるーー」
夢の中でも海晴神社の湧き水がお酒となって、酔いつぶれているのだろうか? 酔うのは勝ってだけれど、肝心な時に、しっかり化け物から守ってもらわないと困るのだが――寝ているフェレを起こさないように『しっかりして下さい』と、念を込めておでこを小突いておく。
「っと、それより早くトイレに……漏れる」
立て付けの悪い玄関の木の扉を、なるべく音を立てないように引いて屋外へと出る。なぜなら、残念な事に、この物件には室内にトイレがついていないのだ……もし一人暮らしをするのだったら、選びたくない物件だ。ついでに言えばお風呂も室内には無いが、災いにして福を成すではないが、どこまでも青く続く海が一望できる家の裏手に、露天風呂として焚き火式の五右衛門風呂のようなものはある。そこに入るのが、島での楽しみでの一つである。
ガラガラ……目隠しの扉を開ける。
「しかし、トイレは本当にどうにかならないものか」
目隠しの低木が茂り、家の西側にある簡単な木造の小屋のような建物が島で唯一、ちゃんとしたトイレといえる施設である。屋外にあるので靴に履き替えないといけなし、何より夜間は風で軋む音で薄気味悪いのが難点である。
「よし…………ふぅ」
少々びくびくしながら、無事用を足し終える。この島の外では何をするにも、化け物のせいで、周囲に気を配る癖が染みつき始めている。最終的には、自分の身は自分で守るしかないのだ、フェレに頼ってばかりもいられない……少なくともあの姿では。本当は……頼りたいんだけれど。
「ふぁーー眠い、明日も朝早いし、早く布団に――」
雲ひとつ無い満天の星空が広がる上空をふと見上げては見たが、それを楽しむ間もなく、儀式の疲れからか強烈な眠気が寄せてくるので、いそいそと部屋の中へ戻ろうとする――
『君が新しく島に来た巫女 だね』
「えッ?」
眠く空ろな意識の状態から、後頭部を殴打されたかのような衝撃という様な気配と澄んだ通る声がはっきりと耳に入ってきて、思わず肩がビクンと跳ねるように驚く。
ギリリッ……ずッん!!
声が聞こえた直後、硬い物と鋭いものが擦れあう不快な音。そしてずっしりと大きく重さがある物体が空を切る風切音が迫まってくる。
『へぇ 力も本物みたいだね、その蒼い瞳も伊達じゃないわけだ……』
俺は無意識に、首から提げているお守りを胸から出し構える。お守り袋の中には海晴神社に代々伝わる宝物の中で、特別な術が封じてあるという札が折り畳んで入れてある。そんな非常時の品を、右肩のすぐ上に突き出していた。
自分でも状況を掴めていないまま、お守りを突き出した辺りを見ると――。
「えッ……な、何の冗談ですか。当たったらどうするつもりですかッ!」
『うーん? 僕は当てるつもりだったんだけど なーんて』
そこにはぼんやりとした月明かりで照らされる鈍い銀色で光沢を放ち、空気を通して冷やりと伝わる刃先が二股に分かれ弧の字を描く、人が持つには重すぎて馬鹿でかい大鎌が当てられていた。余りの大きさと威圧感に、数十秒ほどその大鎌に視線が張り付いた様になり、ようやく視線がそらせた瞬間に大鎌とそれを棒切れのように肩に背負う少年から、3歩歩ほど距離を精一杯取った。
『今夜はただ様子でも見ようかとね でも、君が用足しに起きて来るもんだから挨拶でもと思ったのさ』
「首筋にそんな大きい鎌を当てるのを挨拶だなんて、一度も聞いた事ないですが」
嫌味をめいっぱい込めた返答に、含みのある嘲笑を浮かべる対峙する少年。所々ほつれたマントのような布を体に巻き頭には四角い帽子の様なものを深く被っており、大鎌とその独特な風貌のせいで、声から辛うじて男である事と同年か僅かに年上であることぐらいしか分からない。
『君も疑り深いね 本当に今日はこれで帰るよ、フェレリアスによろしく』
あれが金属で出来ているならばとても持てる重さでは無いと思うのだが、名を名乗りもしない少年は大鎌を肩に乗せたまま、ひょいと数メートルほど前に鎮座している大岩に一度飛び乗り、更にその上から大きくジャンプしてトイレ横の木の茂みを飛び越えて姿と気配を消した。
「何なんだ一体……化け物なら結界でともかく、あんな人間がいるなんて聞いてないって」
フェレが寝ている敷地内と言う事で警戒しつつも、正直油断していたところがある。ひとまず、今夜の事をきっちり明日フェレに問い詰めなければ。ゆっくり眠るのもままならない。化け物には対化け物用の人には人用の術式・儀式があるのだ、あんな物騒な人間がいるなら対処しなければならない。
「くッぁ……疲れた、眠い」
それでも、完全に周囲から化け物やさっきの少年のような尋常ならざる気配が消えたのを今一度確認すると安心したのか、再度強烈な眠気が襲ってきた。
「ふぁぁーあ、無事朝が迎えられるといいなぁ……ふぅあ」
祈りを込めるように独り言を呟いて、家の中へと入る。人の気持ちも知らずに、フェレが無邪気に気持ちよさげに寝ている直ぐ隣の布団に滑り込み、数秒も経たずに眠りについた。