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第九話 難しい宿題


 山田との付き合いは短い。だが、香流水流との交流も合わせれば、一年には満たないものの、濃い時間を過ごしている。そこへきて、山田の告白だ。聞いてしまったことで少し安心してしまった自分。憧れはいつの間にか憧れを通り越していた。


 はぁ。と溜息をつく。そして、異動になってよかった。と思った。離れていれば、考えなくて済む。こそこそと隠れて行動することもない。あと半月、半月の辛抱だ。ただ、自分の気持ちに気付いてしまった今、それは寂しくもあった。


 物語の主人公なら、もっと上手くやれるのに、恋も、仕事もそつなくこなすというのに、書いている本人はまるでダメだ。どんな顔で会ったらいいのだろう、今の自分は情けない。


「難しいなぁ……」


 誰に言うでもなく、呟いた言葉は電車の騒音に消された。意識をしてしまったらその後はどうしたらいいのだろう。過去に遡ってみても解決策を考えられるだけの恋愛経験はない。流れて行く夜景を見ながら、また溜息をついた。


 時間というのは誰にでも平等に流れる。随分と考え込んでしまっていたようで、気が付けばもうすぐ最寄り駅であることを知らせるように、車両が減速を始めた。降りたいような、降りたくないような、そんな気持ちに揺さぶられながら、かといって逃げるわけにもいかず、萌は停車した電車から降り、改札へ向かった。


 改札を出た所に、萌一人くらいなら立っていても邪魔にならない場所を見つけ、そこから改札を通る人の波を見つめる。同じ電車だったのか、次の電車なのか。人の波が途絶えるところで、山田の姿を見つけた。


「お待たせ」

「いえ、私も同じ電車でした」

「じゃあ、行こうか」


 山田に案内され、やってきたのは駅からほど近い場所にある少し古い外観の喫茶店のようなところだった。自動ドアではなく、重たそうな扉を開けば、アンティーク調のインテリアが目に入った。照明は少し暗めだ。店内にはしっとりとしたジャズが流れ、ここだけ日常から切り離されたような、ゆっくりとした時間が流れている印象を受けた。若い子向けの店というよりも、大人の隠れ家。そう表現した方がしっくりくる。

 ドアに取り付けられたベルの音で、カウンターの奥から初老の男性が顔を出した。白髪のオールバック、真っ白なワイシャツに黒の蝶ネクタイをした清潔感のある紳士であった。


「マスター、奥開いてる?」


 山田はここを『行きつけの店』と言っていたが、その口調からして本当なのだろう。こういう店を選ぶあたりにも山田のセンスがうかがえる。


「あぁ、どうぞ。二人分でいいかい?」

「よろしく頼むよ。あ、小日向さん、苦手な食べ物ある?」


 突然、話をふられ、びくりとした。


「あ、ないです。何でも食べます」

「ということだから、よろしく」


 多くを語らなくても会話が成立しているところを見ると、二人は旧知の仲なのだろう。山田もまるで自分の家のように、アンテーク調のテーブルとイスが並ぶホールを抜けて、奥へと入っていった。そして、化粧室の隣、『プライベート』と書かれたドアを開け、その中へ。そこは店内とは少し印象が違うが、高級そうなソファが置いてある応接間のような部屋だった。


「あ、どうぞどうぞ、座って」

「ありがとうございます。私、こんなお店があるなんて知りませんでした」

「まぁ、ここは隠れ家みたいな場所だからね」


 そう言うと、山田はソファに腰を下ろし、ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めた。普段、かっちりとした恰好をしているだけに、目の前でネクタイを緩める姿は新鮮だった。


「さて、食事が来るまでの間、見せてもらおうかな」


 その言葉に就職活動の面接試験のような緊張感が走った。そして不安になった。見せて大丈夫だろうかと。特に勉強をしたわけではない。思うままに書いているだけの、自己満足な作品だ。だが、山田はその気になっている。意見が欲しいのも事実。ここで見せないという選択肢はない。


「この部分なんですが……」


 恐る恐るではあったが、萌はタブレットを取り出し、気になっている箇所を見せた。


 ホールに流れるジャズはこの部屋には聞こえない。無音だ。目の前には真剣な顔で画面に映し出される文章を読む山田。ほんの数分のことなのに、それがやけに長く感じる。せっかく読んでもらっているのに、話しかけるのは間違っている。別のことをしようにも、タブレットは山田の手にある。萌はただじっと、その長いような短い時間が過ぎるのをじっと待った。


「ふーん、なるほどね」


 山田がタブレットをテーブルに置き、ソファの背もたれに凭れ腕を組む。


「あの……この部分の男性の気持ちが難しくて……というか、下手くそな文章見せてしまってすみません……」


『どうですか?』と聞くのがこの場では正解なのだろうが、そこまで自信がない。ついには謝りだす始末だ。


「え、どうして謝るの? 小日向さんの文章、やっぱり読みやすいね。それに、素直だ。僕は好きだなぁ」


 萌は弾けるように顔を上げた。褒められた。山田は、香流水流は自分の作品を褒めた。それが嬉しくて、素直に礼を言うところではあるが、なかなか声にならなかった。


「で、君が気にしている部分だけどね……」


 山田からのアドバイスは的を得ていて、萌もすんなりとそれを取り入れた。心なしか、文章に奥行きができたような、そんな気がした。そして、やはり意見を求めてよかったと、先ほどまではあんなに緊張していたにも関わらず、そう思った。

 それから二人はまた萌の書いた文章にあれこれ手を加え、話をし、マスターが持ってきた夕食を食べて、時間も忘れるほど話し込み、それは日付が変わるまで続いた。


「あぁ、もうこんな時間か。女の子を遅くまで連れ歩いたらいけないから、この辺にしようか」


 山田に言われて時計を見れば、午前零時を回っていた。本当は時間なんて気にせず、もっと創作について話をしていたい気分だが、タイムオーバーだ。


「あの、何かお礼をさせてください」


 結局この日は山田にいろいろと面倒を見てもらった。仕事のことも、創作のことも。だから萌は自分のできる範囲で何かお礼がしたかった。

 山田は腕を組んで、「うーん」と何か考えているようだった。そして、意を決したように口を開いた。


「じゃあさ、お言葉に甘えて……」


 山田は鞄の中から一冊のスケッチブックを取り出した。そしてぺらぺらとページをめくり、あるページに来たところで捲るのを止め、そのページを破った。


「これ見て?」


 スケッチブックから切り離されたページには、四コマ漫画が描かれていた。それぞれ傘をさした男女が向き合っている。女性が背を向ける。男性が女性の腕を掴む。そしてまた向き合う。そんな四コマ漫画だ。だが、おかしなことに、その四コマ漫画にはセリフが一切入っていない。それどころか、この男女には表情がない。これがどんなお礼になるのだろうかと萌は首を傾げた。


「セリフを考えて欲しいんだ。この二人がどんな関係なのか、それも考えた上でセリフを入れて欲しい」


 そう言う山田の表情は、先ほどまでとは打って変わって真剣だった。


「それが、お礼になるのですか?」

「なる。でも、僕はあまり気が長い方じゃないから、期限を設けたい。八月の第一週の金曜、君の業務面談を行う。場所は君の出向先だ。その日に貰おうか」


 疑問は残るが、山田がそう言うのであれば、萌はそれに従うだけ。


「私の考えたものでいいのですか?」

「いいよ。楽しみにしてる」


 + + +


 あの日以来、萌は山田と会っていない。山田も秘書部長という職務上、忙しいのだろう。萌も引っ越しをしたり、部署への挨拶をしたりと忙しく過ごし、結局その間一度も行き会うことなく、萌は名古屋へ移り住んだ。そして、七月になり、萌は新しい職場で働き始めた。

 仕事は、言われていたとおり、そこまで大変なものではない。ただ、始業時間が八時なのは少し辛いが、五時には終わる。本社にいた時よりも、自分の自由に使える時間は多かった。

 自宅に戻り、家事をして、夕食を済ませて、自身の創作に打ち込む。山田のアドバイスもあったため、思いのほか執筆は順調だった。


「はぁ、今日はここまでにしようかな」


 ぐーっと伸びをして首を左右に傾ければポキポキと音がした。集中していたこともあって、肩がこっている。明日は仕事帰りにマッサージに行こう。そんなことを思いながら、テーブルに目をやると、あの日、山田から預かった一枚の紙が目に入った。まだセリフは入れていない。

 萌は山田の意図を図りかねていた。誰にでもできる作業だ。よくある恋愛ドラマのセリフを入れても完成する。山田であっても、香流水流であってもそれは可能だ。それなのに、どうして自分に依頼をしたのか。それが分からない。けれど、自分にしかできないことだと彼が思っているのならば、彼が納得するセリフを入れなければならない。


「これもやらなきゃな……」


 それを手に取り、まじまじと見る。絵の中の女性が半袖なことから、季節は夏。そして雨。萌は気づいた。


「え、これって……」


 ゆっくり見る暇もなかったから気づかなかった。この作品のテーマはきっと……


「八月の雨……」


 それは、去年の夏のイベントで萌が香流水流に渡した本。雨をテーマにした短編集だ。

 萌の創作の通りならば、この絵の中の二人は幸せになる。それとなくセリフを入れれば完成する。


「覚えていてくれたんだ……」


 そう呟けば、自然と目から涙が零れた。新しい場所で、新しく生活を始めて、考える余裕などなかった。けれど……


「私、やっぱり好きだ……」


 仕事中の顔、少し照れた顔、焦った顔、笑った顔、あの日、セリフを入れてと言った時の真面目な顔、いろんな表情の山田が浮かぶ。そして、それら全てを恋しく思う気持ち。

 体育座りの膝に顔を押し当てて、萌は泣いた。だが、きっとこの恋は叶わない。だって、年齢が離れすぎている。

「もっといい人がいる」とか言われるだろう。きっと、この気持ちは気の迷いだと、そう言われる。自分よりもずっと前を歩く人……隣に並ぶことなんて、できないだろう。それに、こんな短期間で好きになったなんて信じてもらえないだろう。それでも、好きなんだ。

 ただセリフを入れれば済む仕事なのに、その絵の中の人物に自分と山田を重ねてしまう。重ねてしまうが故に、書けない。創作の中の男女は幸せになっても、自分が同じとは限らない。


「どうしよう……もうちょっと寝かせておこうかな」


 カレンダーを見ればまだ七月が始まったばかり。時間はある。時間が解決するとは思えないし、先送りするのもよくないとは思うが、今は自分の創作を優先させよう。今自分がやらなければならないのはそれだ。そう決めて、その紙をテーブルの上に戻した。その日から萌は以前にも増して、自創作の執筆作業に取り組んだ。その間もやはり山田からの依頼の件が気にはなったが、完成にはいたらなかった。書いて、それを見せるのが怖かったのかも知れない。



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