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第十話 秘密の山田部長


 結局、何も書けないまま、その日はやってきた。

 午後から雨が降ると天気予報は言っていたが、朝家を出る時は快晴。八月に入っただけあって、気温も高い。念のため通勤バッグには折りたたみ傘を入れた。そして、書類を入れているクリアファイルにはあの紙も挟んだ。空は快晴だと言うのに、萌の心は曇り空。


 何度も書こうと試みた。だが、どれも納得のいくものではなく、書いては消し、また書いては消した。約束の日は今日だというのに、何も書けなかった自分を山田は何と言うだろう。仕方ない。書けなかったことを謝罪しなくては。そんなことを考えながらマンションの外に出れば、この時期にしては珍しく、引越し業者のトラックが停まっていた。誰かが引っ越してくるのだろうが、人事異動は七月だ。このタイミングとなると、誰かが退職でもするのだろう。自分には関係のないことだ。気持ちが晴れないまま、駅まで歩き、電車に乗った。


「小日向さん、今日、山田部長来るんですよね?」


 出勤して早々に女子社員が聞いてきた。


「ええと、午後から来るそうですよ」


 そう返せば、女子社員二人、歓声を上げた。ここでも山田は人気だった。それぞれ家庭がある二人だが、やはり憧れの男性の登場には色めき立つようだ。お互い、男性の好みは違う二人なのだが、意見が合致したのは山田部長だけだと、嬉々として話してくれた。


「んー、やっぱり色男は違うなぁ」


 その会話に金子まで入って来て、金子の山田部長についてのエピソードを語る会が開催された。自分がばらしてしまったあの日以来、金子も気をつけているようで、踏み込んだプライベートな話は一切せず、職場でのエピソードや自分の部下だった頃のエピソードを語って聞かせていた。彼女たちはそれを興味津々といった顔で聞き入っていた。

 仕事をしながら、そんな話を上の空で聞きながら時間は過ぎて行き、昼になった。お弁当を食べながらも二人は山田の話をちょいちょいと出してきては、女子高生のようにキャーキャーとはしゃいでいた。萌はそんな気にはなれず、相槌を打って、愛想笑いをして過ごした。ふと空を見れば雲一つなかった空は厚い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだった。それはまるで、萌の心の中を現しているようでもあった。

 昼休憩を終えて、席に戻る頃、雨が降り出した。そして、その雨と同時に山田もやってきた。今日一番会いたくない相手だが、業務面談という、社員全員が受けなければならないものであり、人事評価や査定に繋がるものだ。いつ呼ばれてもいいように、萌はこの一か月間の業務内容と成果をまとめた資料、そして会社の様式の業務目標シートをプリントアウトした。あの課題は鞄の中だ。これは仕事上の面談であって、あれは違う。面談の場で出すようなものではない。どうか忘れていてくれますように。そんな情けないことまで考え始めてしまうから、始末が悪い。

 山田が到着して一時間ほど経った頃、二階の応接室で山田と話をしていた金子が戻ってきた。


「小日向さん、行ってください」

「はい」


 萌は席を立ち、応接室へ向かった。あの夜、あの依頼を受けた日から山田とは会っていない。だが、その間に萌の気持ちは大きく変わった。

 応接室の前に立ち、深呼吸を一回。そしてドアをノックして「失礼します」と声をかけ中に入った。

 そこには、いつもと変わらない、普段通りの山田部長がいた。


「じゃあ、始めようか」


 そして山田との面談が始まった。萌の提出した資料を見ながら、事務的にそれは行われた。時間にして三十分ほどだった。


「どう? ここには慣れた?」

「はい。皆さん親切にして下さって、いろいろ教えてもらいながらなんとかやってます」

「そう。それはよかった。そうだ。この後、名古屋で手伝ってもらいたいことがあるから、終わったら帰り支度をしておいて。金子さんには言ってあるから」

「はい。あの、何をするのですか?」

「んー、ちょっと僕の仕事を手伝ってもらいたくてね。あ、何か用事あった?」

「い、いえ。特にないです」


 手伝いといっても何をするのか疑問に思ったが、山田が濁したこともあって、それ以上のことは聞かなかった。ただ、この後また山田と二人きりになると思うと、何とも言えない気持ちになった。意識をしてしまったから余計に、だ。

 面談を終え、萌は席に戻り、言われた通り帰り支度をした。そして上長である金子に挨拶をし、山田が待つエントランスへと向かう。雨は小雨になっていた。


「タクシー呼びましょうか?」


 小雨と言っても雨の中、部長を歩かせるわけにはいかず、萌はそう提案をしたが、山田はそれを断った。


「この分だともう止むと思うから歩こうと思うけど、どう?」


 同僚であれば「えー、タクシーで行こうよ」と言えるが、相手は部長だ。部長が歩くというのなら、それに従わなければならない。平社員はそういうものだ。本当はタクシーに乗りたいけれど、仕方ない。萌と山田は二人揃って事業所を後にした。この事業所に挨拶に来た日も二人で歩いた線路沿いの道。ほんの一月と半月前のことだというのに、なぜか懐かしかった。

 空がほんのり明るい。もうすぐ雨が上がるのだろう。


「そう言えば、あれ、今日が期限だったよね?」


 しばらく歩いたところで急に山田が問いかけた。やはり忘れてなどいなかったのだ。


「あの……すみません。できてないです……」


 嘘をついても何の得にもならない。萌は正直に伝えた。


「おかしいなぁ……そんなに難しい内容ではないと思うんだけど……」


 失望させてしまっただろうか、怒られているわけでもないのに、その言葉が胸にズキズキと突き刺さる。


「ごめんなさい……何度も書こうとしたんですが……書けなくて……」


 このまま向かい合ったままではきっと泣いてしまう。あの絵の中の男女に自分と山田を重ねてしまった、だなんて、あの二人は幸せになるのに、自分はきっとそうはなれない。だから書けない、なんて言えない。


「今日、元気がないのはそれのせい?」


 核心を突かれ、萌は山田に背を向けた。押し留めようとしても、気持ちが溢れてしまう。


「ちがっ、そ、そうじゃなくて……ごめんなさい……」


 俯いたら涙が零れてしまうのに、萌は俯くことしかできなかった。絵の中の二人と自分たちは違うのだ。

 と、その時、萌の右腕に暖かいものが触れた。


「……萌、こっちを向いて?」


 電車が通過する音で危うく聞き逃すところだったが、山田は今、なんと言った? いつもの「小日向さん」ではなく、名前で呼ばれた? それは特別であることの証。なんて思ってもいいのだろうか? それに、右腕に触れるものの正体、それは山田の手だ。自惚れてもいいのだろうか。


「萌……」


 萌は観念して山田と向かい合った。ただ、今の顔を見られたくなくて俯いたままであったが。


「ねえ、書けなかった理由はもしかして、あの二人に自分を重ねたから? あの二人は幸せになるよね、でも自分はそうじゃないかも知れない。君の書く話は全部ハッピーエンドだよね。でも、自分はそうなれない。そう思った。だから怖い。僕の自惚れでなければ、そんなところかな?」


 萌の心など山田にはお見通しだった。


「教えて?」


 萌は、ポロポロと涙を零しながら、ただ頷くことしかできなかった。

 山田が、ふぅ、と息を吐く。


「意地悪をしてごめんね。君がどんな反応をしてくれるのか知りたかったんだ。きっと僕のことなんて何とも思っていなかったらすぐに書けると思う。でも君は書けなかった。ってことは、僕もまだ望みあるってことだよね?」


 萌は顔を上げて、山田を見つめた。その表情は今まで見たどんな表情よりも優しかった。


「一度失敗すると臆病になるんだよね。それが僕の悪いところだ。だから、ちゃんと伝えるよ。僕は年甲斐もなく、君のような若いお嬢さんに恋をした。いや違うか。君を好きになってしまった」

「私……?」

「そう。僕みたいなオジサンはダメかな?」

「……ダメじゃない。ダメじゃないです。私、部長が私だけに秘密を打ち明けてくれたこと、すごく嬉しかった……でも、だんだん辛くなって……気づきました。部長のことが好きなんだって……」

「僕が香流水流じゃなくても?」

「はい……」


 カチン――と傘の柄がアスファルトにぶつかる音がしたのと同時に、萌は山田に抱きしめられた。遅れてもう一つの傘が地面に転がる。


「萌……好きだよ。君が好きだ」


 萌は山田の胸に顔をうずめて泣いた。化粧がワイシャツに付いてしまうことに抵抗はあったが、山田はそんなこと気にもとめなかった。


「女の子に触れるなんて何年振りだろう。こんなに小さくて、柔らかいんだな。あぁ、僕は幸せだ」


 一つずつ、知らなかった山田を知っていく。こんなことを呟く人なんだって。どんな小さなことでもそれが萌の幸せに繋がる。


「ほら、もう書けるだろう? ちゃんとハッピーエンドになった」

「はい。書けます。ちゃんと書けます」


 山田はより強く萌を抱きしめた。


「ありがとう。僕を好きになってくれてありがとう」


 表情は見えなかったけれど、山田はほんの少し泣いていたかも知れない。時折、鼻をすする音が聞こえた。そんなありのままの、飾らない姿を見れるのが自分だけだとしたら、これ以上の幸せはない。


「部長……」

「ダメ、ちゃんと名前で呼んで?」

「……そ、宗太郎さん」

「うん。何? 萌」

「好きです……」

「うん。僕も萌が大好きだ」


 雨が上がり、雲の間から太陽が顔を覗かせていた。萌の心の中を覆っていた雲もすっかり消え去り、後には青々とした空が広がっていた。


「帰ろうか」

「え、でもお手伝いって……」

「あぁ、僕の引っ越しの手伝い」

「え……」


 てっきり仕事のことだと思っていたから、拍子抜けだ。だが、山田が引越しとは、どういうことだろう。


「手、繋いでもいい?」

「あっ、私、多分汗かいてて……」

「ふふ、そんなの気にしないよ。ほら」

「あれ?」


 差し出された手には違和感があった。山田の手にあったものがない。指輪だ……


「ああ、指輪か。さっき捨てたよ」

「え!」


 あまりにもさらりと言うものだから、萌は驚いて声を上げた。


「もう偽る必要はないからね。……でも、いつか新しいのをはめれたら僕は嬉しいな」


大きな手が萌の小さな手を包む。ちょっと恥ずかしいけれど、嬉しさの方が勝った。指輪のことは、山田自身が決めてしたことだとしたら、それに意見するつもりはない。それに、いつか新しいのを。と言ったことが自分に対して言っているのなら、その時は自分も喜んで同じものをしたい。

電車に乗り、駅に着いてまた歩く。そう言えば、引越しの手伝いをすることになっているが、場所はどこなのだろう。


「部長、引っ越しって……もしかして」


 まさかとは思ったが、今朝の事を思い出す。単身用のマンションの外に停まっていた引越し業者のトラック。あれはひょっとして……


「こっちの仕事が増えたから、一部屋手配してもらったんだよ。これで萌の近くにいられる時間も増える。何なら一緒に住んでもいいんだけど、それはもっとお互いを知ってからかな。あ、ちょっと強引すぎたかな?」


 確かに、唐突であり、若干強引ではあるが、嫌いではない。それも山田宗太郎という一人の男性だ。


「そうだ」


 隣を歩く山田がふと立ち止まった。


「ね、想いも叶ったことだし、何か僕にしてほしいことないかな? 何でもいい。と言っても君にしてあげられることは限られているかも知れないけど、できる範囲で何かしたいんだけど」


 山田からの提案に萌は戸惑った。山田からは幸せをもらった。これ以上、何かを求めたら罰が当たるかも知れない。だが、答えはすぐに出た。誰にでもできること、けれど他の誰でもなく、山田にしてもらいたいこと。萌は鞄の中からある物を取り出し、それを山田に差し出した。


「スケブ、お願いしてもいいですか?」

「えぇぇ、スケブ?」

「はい。だって憧れなんですもの。香流先生も部長も」


 山田は困ったように笑った。萌が望むなら、いくらでも描く。その笑顔が見たいから。だから山田は言う。


「いいよ。でもそのスケブはダメ」

「どうしてですか?」

「新しいのを買おう。僕専用のやつ。心が狭いって思うかも知れないけど、僕は萌の特別でいたいから。僕だけのものを持っていてもらいたいからね」


 山田からの返答に萌は苦笑する。


「あの……部長って、意外とわがままだったりします?」

「あれ? 今知った? 後は気が長い方じゃないよ。これは前にも言ったよね。だから君の小説の挿絵は全部僕が描くよ。これも譲れない」


 それから……と呟いて、そっと萌に耳打ちをした。その言葉に萌は顔を真っ赤にした。


「嫌って言っても放さないから、覚悟して?」


 そんなこと言うつもりなんてない。だって、大好きだから。

憧れが恋に変わると気づくまで、恋人になるまでの期間なんて関係ない。人それぞれだ。長い人もいれば短い人もいる。

 萌は山田の手をとった。マンションへ向かう途中、同じ会社の人が二人の姿を見るかも知れない。でもそれでもいい。


「放さないで下さい。私、とってもわがままなんです。ハッピーエンドじゃなきゃ嫌なんです」


 萌の書く話はいつでもハッピーエンドだ。悲しい話が書けないわけではないが、必ずハッピーエンドを迎える。それは萌自身の憧れだったのかも知れない。自分もいつかそうなったらいいと。それが叶った。そして、ここからまたスタート。

 始まったばかりの二人の関係も、そう遠くない未来できっと真のハッピーエンドを迎えるだろう。


「あ、言い忘れてた。この先もずっと、僕が香流水流だってことは二人だけの秘密ね」


 山田が人差し指を立てて口元に当てる。それに合わせて萌も同じポーズをとる。


「はい。秘密の山田部長、ですね」


 二人は顔を見合わせて笑った。


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