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第一話 同人誌との出会いは一期一会だ。

 早朝であるにも関わらず、ねっとりと身体に纏わりつくような熱風が不快感を煽る8月のある日、小日向萌(こひなたもえ)は会社へ行くよりもずっと早い時間に家を出た。少し大きめのバッグには買った物を入れて持ち帰る用のわりと頑丈な折り畳み式ショッピングバッグとペットボトルの飲料2本、自分の書いた本を数冊、あと忘れてはいけない通行証と500円玉を多めに入れておいたお財布。それからスマートフォンとその他諸々。肩が痛くなるような重さではあるが、足取りは軽い。今日も暑い一日になりそうだ。


 残念な話と嬉しい話が同時にやって来たのは、ちょうど2ヶ月ほど前のことだった。

 その日は、夏の同人誌即売会という大きなイベントの当落発表日、サークル参加の申し込みをした萌にとっては朝からそわそわと心ここにあらずな状態で、仕事もろくに手につかない一日であった。

 会社の同僚や上司は知らない、それ以前に誰にも言ってもいないが、萌は小説を書いている。趣味で始めたものをインターネットの投稿サイトに載せるようになったことをきっかけに、今では少部数ではあるが、納得のいく作品が書けた時、書けそうな時は、印刷会社に原稿を送り本にしている。今執筆しているのは、短編集『8月の雨』、雨をテーマに男女の恋物語をオムニバス形式で書いたものだ。萌自身、気に入った作品であったため、これを夏のイベントに出そうと用意していたのだ。


 午後5時半、終業を告げるチャイムが社内に鳴り響く頃、萌は立ち上がった。

「も、もう無理……トイレで待機」

 当落通知メールがもうすぐ届くはずだ。そう思うとじっと座ってパソコンに向かってなんていられない。今日一日、ここまで耐えたことを褒めたいくらいだ。だが、終業のチャイムが鳴ると同時に我慢の限界と、バッグからスマートフォンを取り出し、一人、トイレに向かった。


 金曜の夕方、そこには、この後合コンを控えているのであろう女子社員がそれは楽しそうに、こぞって化粧直しの真っ最中であった。今日のお相手は旧帝大卒の銀行員だとか、商社マンだとか、一体どういった伝手で合コンを開催するのだろうかと少し疑問に思う。萌も声をかけられたことはあるが、特に興味もなく、ごくたまに人数合わせで付き合う程度のものだった。萌は合コンに意気込む女子社員の背後を通過し、個室に籠もり当落通知メールを待った。



「……んなっ!?」


 思わず漏れた声は意外と大きく、一瞬、外の女子社員たちのおしゃべりが止まり、水を打ったような静寂が訪れる。

 待ちに待って、やっと届いたメールは落選を知らせるもの。何の感情もなく、落選を告げるメール。あのイベント独特の雰囲気を味わえないことと、より多くの人の目に留まるかもしれない機会を逃してしまったこと、自分の作品を手にしてくれる方とやりとりができないこと、そんな残念な気持ちがごちゃ混ぜになって、萌は無言で虚空を見つめた。他のイベントではなく、このイベントだからこそ。そう思うと余計に悲しかった。

 籠っていたのは短い時間ではあったが、トイレの個室にいつまでもいるわけにもいかず、我に返り、トイレの水を流した。何を流すでもなく勢いよく流れる水流に、この負の感情も流れてくれればいいのに……そう思いながら、しばらくその流れを見つめて、トイレを出た。


 足取りは重く、がっくりと肩を落としたまま廊下をとぼとぼと歩く姿は、傍から見れば恋人か片思いの相手にフラれた残念な女に映っただろう。実際はそんなものではないのだが、事情を知っている者のいないこの場では、それでいいのかも知れない。特に周りの目が気になるということでもない上に、今はそれどころではない。

 萌は所属する総務部のフロアに戻る途中、壮年の男性社員とぶつかりそうになった。ろくに前を見ていなかったから、ぶつかって怒られても仕方のないことだが、男性社員は咄嗟に「すみません」と言った、本来であれば、明らかに自分が悪いのだから先に謝るべきだが、それに反応もできず、ただ申し訳程度に会釈をして、立ち去った。その後ろ姿を首を傾げながら男性社員が見ていたことは知る由もない。


「はぁ」とため息をついて、自席に戻ったところで、スーツのポケットに入れてあったスマートフォンが震えた。メールかメッセージか、何かの通知か、どうせそんなところだろう。別に急いで確認する必要もない、後で見ればいい。たった一通のメールでここまで落ち込むか。と思われるかも知れないが、きっと落選した人はこういう気分になるのだろう。こういう日は早く帰って寝るに限る。そう、不貞寝だ。そう決めて、椅子に座った。だが、その振動はなかなかおさまらなかった。メールでもメッセージでもなく、電話であることに気づき、ポケットに手を入れて、スマートフォンを取り出して着信相手を確認すると、表示された名前は、萌と同じく仕事をしながら小説を書いている魚矢渚(うおやなぎさ)だった。


「小春ちゃん! どうだった?」


 小春というのは、萌のペンネームだ。正式には、小森小春(こもりこはる)である。さすがに本名で活動するのは憚られて付けた名前だ。もちろん、魚矢渚も同じで、粕谷由子(かすやゆきこ)という本名がある。

 小説投稿サイトを通して知り合った二人は、書くものが同じジャンルなこと、お互いの作風や作品が素直に好きだと思えたことから交流を始めた。その付き合いも今年で3年になる。年齢も近く、話しも合う、それに何より、お互いが切磋琢磨し合える存在なのだ。

 インターネットは必ずしも安全なものではないと思ってはいるが、東京と香川、住む場所は離れていても、こういう関係が築けるのはいいことだと萌は思う。


「ダメだったよ~、もう辛くて明日が見えないよ~」


 会社では出すまいと、心に止めてあった思いが、渚の声を聞いて零れ出す。


「おうおう、よしよし……ところで小春ちゃんよ、折り入って頼みがあるのです」

「うーん、直近でなかったら協力するけど、今日は勘弁してね、ショックでたぶん何もできないと思うから……」

「それなんだけどさ……お手伝い、お願いできる?」

「うん。いいけど、いつ?」

「私、抽選通ったんだ」


 渚の申し出に対し、断る理由などなく萌はすぐにその申し出を受けた。そして、当日のことはまた連絡を取り合うことにして、電話を終えた。

 


 電車はもうすぐ待ち合わせのイベント会場の最寄り駅に到着する。予想通りの大混雑である。

 あの日から、今日をどれだけ楽しみにしてきたことか。渚のスペースに自分の本を置いてもらえるのだ。売れる売れないは別にして、というより無名な萌とその作品が売れるなんて思ってもいないけれど、置いてもらえるだけで十分だ。それに、渚のスペースの近くには、萌が5年前から追いかけてきた絵師さんのスペースがあることが分かったのだ。一年に一度、一冊だけ作品を出す絵師さん。それを手にできるのは、この日だけだ。

 


「合コンなんぞいつでも行けるが、同人誌との出会いは一期一会だ」

 

 いつか誰かがそんなことを言った。その時は「ふーん」と軽く流す程度だったが、今なら頷ける。首がもげるほどに頷ける。5年前、偶然手にした一冊のイラスト本、それを毎年追いかけて来たのだ。



「小春ちゃん!」


 参加者でごった返す改札付近で、懐かしい声を聞いた。渚だ。その姿を確認し、駆け寄り、久々の再会を喜び合う。前に渚に会ったのは別のイベントだったから、約半年ぶりの再会だ。


 この日、萌は『小日向萌』ではなく『小森小春』になる。


「いこっか」

「うん!」


 二人並んで歩きながら、近況報告をしたり、とりとめもない話をしながら目的地へ向かう。他の参加者もきっと、この日を楽しみにしてきたのだろう。みんな、楽しそうな顔をしている。やはり、この雰囲気がすきなんだと、改めて思う。

 

 そして、慌ただしくも充実した小森小春の一日が始まった。


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