撤退
野営地にたどり着くと、安堵のせいで馬からずり落ちた。地面に落ち、硬い衝撃で内臓が痛む。骨にひびがいったかと思い、手をあばらにあてようとすると、傷だらけの腕が見えた。
辺りを見回すと、子爵家の兵士らもボロボロ様相を呈している。体に矢傷や投石のあざができていて、馬も疲弊し切って力なさげに項垂れている。
何日、何週間、どれくらい戦い続けたのだろう。忘れてしまうくらいに奇襲をかけ続けたのだから、瀕死の状態になるのも当然かもしれない。
毎度毎度、敵の反撃あってきた。弩の鋭い矢を何度かすったか、頭を潰そうとしてくる投石を何度躱したか。
運の悪く当たってしまったものも多く、そいつらは怪我人として泥の中をひきずられて離脱した。
150人もいた子爵家軍はいまやその半分にも満ち足りていない。人だけじゃない、急行軍だったため、物資だってほとんど費やしてしまっている。
野営地にはけが人の呻き声と豪雨の音だけが聞こえる。辺りは暗く、夜か昼かの区別もつかない。雨を少しでも避けるために森の中を選んだのだが、これも失敗のように思える。落ち葉や草木が滑りやすく、転げて小さな傷を負うものも多かった。
「クリス様、矢をまだ作りますか?」
物資の中でもとりわけ矢が足りておらず、即席で木の先を尖らせた矢を作らせていた。だがもう、これ以上は無意味だろう。
「いや、いい。十分に行軍の妨害は出来た。俺たちはこれから撤退する。そしてユリス達が作ってくれているであろう防御陣地で決戦を行う」
傷だらけで満身創痍な状況での号令。木に寄りかかっていたものや、泥の中に蹲っていたものらは、顔をしかめて立ち上がる。
へとへとの行軍。
豪雨で呼吸もままならない。馬だってろくに進みやしない。目の前が暗く足元だって不安だ。けれど、オラール軍に先んじて、ドレスコード軍に合流しなければならず、足を早める必要があった。
疲弊した馬を激励し、目に光のない仲間を鼓舞し、行軍を続ける。
「俺は十数人はやったぜ」
「俺もただの木弓で兜を弾き飛ばしてやった」
「そんなこと言うなら、俺だって……」
兵士らは、泥だらけの渋い顔で、功名話を語って進む。そうでもしないと、気が飛んでしまうのだろう。苦しみを紛らわせるのに、皆が皆必死だった。
倒木、樹皮を水が滴り落ちる黒い幹の木々、泥だらけの土の中で身悶えるみみず、木に張り付いて休む蛙。陰気臭い空気で息が詰まる中、一生懸命前へ前へと進む。
装備は捨てた。重みに耐えきれなかった。苦しくて苦しくて仕方ない。
それでも、前へ前へ進む。俺たちの泥だらけの戦いが、勝利だったのか、敗北だったのか、どちらかを知るために進む。
森から街道に出る。遥か後方にオラール軍が野営している姿が見えた。天幕がいくつも立ち、改めて大軍であると嫌でも理解させられる。すると、本当に俺たちの戦いに意味があったのだろうか、そんなふうに思えてくる。
だって、どうして、相手は未だ大軍なのだ。悠々たる姿でいて、元々そんな状態でいたのではないか、そう錯覚させるほどなのだ。
奇襲し、何人ものけが人を出し、こちらは半分以上も減っている。相手の数はわからないが、今の様子を見る限り損害は軽微だったに違いない。
泥のついた頬を拭い、重くなる頭を精一杯に上げ、決戦地まで行軍する。
しばらく進むと、伸びていた街道が壊され、泥の海と化していた。いや、泥の海、と言うよりは川だ。傾斜の上から水流ができている。
そして、その上には……完璧な防御陣地ができていた。
片方の側面を森、もう片方を川と自然の要害に守られている。そして、八の字に弓兵が布陣できるよう、馬から身を守れる防護柵が、広範囲に築かれていた。柵は、幾つもの先の尖らせた杭で出来ていて、騎馬の突撃を防ぐには十分なものだった。中央にも杭がうち込まれていて、中央からの騎馬による突破も困難にしている。
呆気にとられていたが、声を聞いて現実に引き戻される。
「敵軍はもうすぐ!! 皆、がんばって!!」
よく見ると、多くの労働者や兵士たちが最後の仕上げにかかっていて、アリスが鼓舞していた。
「クリス様。よくお帰りになられました」
ぼうっとそんな姿を見ていると、声をかけられた。ふと、声の方を向くと、ユリスが坂を降りてくる姿を捉えた。
ユリスが近づくと、俺は尋ねた。
「ユリス……間に合ったのか?」
「ええ」
「本当に?」
「はい。本当です」
防御陣地を完成させられた。ということは、今までの妨害は無駄じゃなかった。
急にパッと視界が開ける感覚を覚える。雲間にのぞく小さな光は、無理をして俺たちを照らしている気もする。雨の音は祝福するファンファーレのように聞こえた。
勝った、勝ったんだ!
「ユリスっ!」
喜びのあまり声をかけるも首を振られる。
「まだ喜ぶのには早いです。防御陣地が整って万に一つです」
ユリスは、ですが、と続ける。
「よく頑張ってくださいました。クリス様達のおかげで勝つ可能性が生まれました」
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