練習
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よろしくお願いいたします。
「これは、自分や親しい人たちを守る戦いじゃなくて、未来を勝ち取る戦いなの!」
凛と通る声の残響が客室から消えると、アリスは顔を向けてきた。
「どうだったクリス? いい感じ?」
アリスの演説を成功させるために最初に取り組んだことは、発声の練習だった。
当然のことだが、大勢に話を聞いてもらうには、物理的に声が届かなければならない。そのため、ユリスが初日に演説がどういうものかを教えたあと、声の出し方について練習してきたのである。
「良いと思う。これなら、外でもしっかりと聞こえるし、口調もリズムも耳に残ると思う」
あからさまに見えるほどアリスの肩が緩む。表情も弛み今にも溶けてしまいそうだ。
「よかったぁ〜。これで息を止められなくて済む」
「大袈裟すぎない?」
「息を吐き続けさせられたり。お腹の上にぶ厚い本をつみ上げられた状態で深呼吸させられたりしたんだよ。絶対に大げさじゃないし、比喩でもない。というか、何回か止まって意識もなくなったし」
「そ、そう……」
「そうだよぉ〜。メイドだけじゃなくて、クリスにも息を止められかけたんだからぁ。まあ、『最強の肺を手に入れて、一息でぶっ飛ばしてやる』って思えたから耐えられたけどぉ」
ぽわぽわ喋るアリスの言葉を聞いて、よくそれで耐えられたな、という感想を抱く。しかしすぐに、流石に無理、と考えを改め、そんなことを思うくらい壊れてるんだろう、という結論を下した。
王女どころか、人間からもかけ離れていくなあ。
アリスに複雑な感情を持つが、蕩けた安堵の表情を見ている限り大丈夫そうなので、深く考えないことにする。
「じゃあ次の訓練に入ろうか」
そう言うと、ふやけた状態が続いているアリスが首を振った。
「もういいよぉ。本番でも私できるよ。だって王女ですから」
「じゃあ、目の前に千人以上の人がいることを想像してみて」
アリスは目をつむった。ぽわぽわからかけ離れた強張ったものに変わっていき、瞼が上がる。
「無理」
できるかどうかを聞く前に、予想通りの二文字が返ってきた。予想通りすぎて意外まであるかもしれない。
人の前で演説することが難しいのは当然。緊張癖のあるアリスにとっては尚更だ。
演説しなくても良い状況なら、無理強いなんて絶対にしない。けれど、今はしてもらわないと、滅びに限りなく近づいてしまう。
「じゃあ、緊張しなようにする方法なんだけれど……何度も練習を繰り返して自信をつけてもらうしかない」
「あー、それしかない? 本番になったら練習通りいくかどうか不安になりそう……」
「うん、できるだけ本番を意識してね。自信の塊みたいなユリスは、緊張したことないって言うしね」
アリスは「そっか……」と呟き、少し考え込んだのち「わかったやってみる!」と両拳を握った。
「それじゃあ、早速、本番を意識して……」
「あ、ちょっと待って」
俺は練習を始めようとしたアリスを止めた。
「その前にさ、本番を意識しないでやってみてくれない?」
「え、いいけど?」
アリスは少し訝しがったが、気を取り直したように演説を始めた。
「——選べない、決めつけられているような未来なんてない! 未来は自由なの! 誰にだって、神様にだって、もちろん王女の私だって貴方は止められない! 自分や親しい人たちを守るだけじゃなくて、私たちは未来を勝ち取るために戦う!」
再び客室に心地がいい通った声が響き渡る。
口調も、声色も、リズムも完璧。声なんか快感すら覚えるほど良い。
だが、心に響いてこないような気がする。
「クリス、何か変だった?」
アリスは俺の反応が悪いことに気づいたのか、心配そうに尋ねてきた。
「……いや、なんだか借り物の言葉を聞いているような気がして」
「それはそうじゃない? クリスたちが考えた文章だし。何回も聞いてたら冷めもするでしょ」
「……まあ、そうなのかな?」
「だと思うけど。私は文章と同じことを思ってるから、嘘を言っているつもりもないし」
瓶の底に溜まった水滴が出てこないようなもどかしさを覚える。しかし、多少の違和感に固執しても仕方がない。
「ごめん、さっき言ったことは忘れてくれ。とにかく今は緊張しないように練習しよう」
そう言い終えた時、客室の扉が開いてユリスが入ってきた。
「クリス様、少しよろしいでしょうか?」
***
領主館の奥にある一室。窓もなく、昼だというのに薄暗い。最近は出入りが多く、埃っぽさは感じられないが、明かりに持ち込む蝋燭の匂いが充満していて顔を顰めてしまう。
俺は部屋の奥へと足を進め、冷蔵庫ほど大きな金庫の前に立つ。
「ここに貯めてた金も尽きちゃったか」
掛けられた鍵を取り外して金庫の扉を開いたが、ただただ暗闇が広がっているばかりだ。
今開いた金庫の隣には、空が二つと、鍵のかけられた7つの金庫が並んでいる。まだ資金は尽きそうにない。だが、動き始めて数日でこれだけ使ったのだ。なくなってしまうのも時間の問題だろう。
俺は新たな金庫の鍵を開け、後ろを振り返った。
「ユリス、どれくらい必要?」
「その金庫に入っている金貨全てです」
「まじ?」
「ええ。それでも、北方の貴族を懐柔するには少ないくらいですよ」
「そっか……」
戦争の準備はすでに始めている。他国や国内の諸侯に使者を出し、戦争で必要となる物資の注文も出した。村や町の地位が高い人間には、現状、これからについて密談した。他にも様々なことをしていて、どれも、とんとん拍子に進んでいる。
今のところは順調と言ってもいいが、全てにおいて費用が嵩んでいた。商人からの信用を得られない今は、私財で支払うしかなく、このままなら蓄えてきた貯金が尽きてしまう。
「一気に手をつけすぎたかな。もう少し絞って、金銭の消費具合を見極めながらの方が良かった?」
尋ねると、ユリスは「いえ、出来るだけ早く進めなければいけません」と首を振った。
「そうだよなあ」
「はい。オラール家が王女が我が家にいることに気づいたかもしれない、との報告が、サザビー商会から上がっています。遅れを取っては首が締まるだけです」
オラール家も黙っているわけじゃない。王女がいることが確認できたら、拉致した逆賊を討つ、との名目ですぐに宣戦布告してくるだろう。そのあと、攻めてくるまでに少しの時間はあるだろうが、こっちの準備が整うまで待ってくれる保証はない。
だとすれば、早急に戦闘態勢を整える必要があり、金で時間を買う必要がある。ただでさえ、戦費が嵩んでいるというのに、さらに必要になるのだ。商人からの支援は必要不可欠である。
「何としてでも議会を成立させないといけませんね」
ユリスの言葉に頷く。
「そうだな。サザビーとの約束はもうすぐ。届いた手紙によると、演説に町人を集める準備はできているそうだ」
「各村の代表者も既に町の宿で待機しています。それに、演説後、大義名分の言葉を諸侯に伝える使者を送る用意もできています」
人事を尽くして天命を待つのみか。そんな独り言が口から溢れでた。





