告白
涼しい空気が窓の隙間から抜けてきてひんやりと冷たい。開かれたカーテンから白い光が入り込み、床に置かれた盥の水が煌めいている。扉の向こうでは、朝の慌ただしい物音が響いているが、人の声は届かない。ベッドの上では毛布が上下し、微かな寝息が聞こえる。多数の音が夾雑しているが、室内は心地の良い静寂がもたらされていた。
ベッドの側に置かれた椅子から立ち上がり、盥に沈められた白い布を掴む。水から外に上げ、雫を落とす。水気を落としきらないように絞ったが、ぽとぽとと水が叩かれたような音が響いた。
「……ん」
「ごめん、起こした?」
ベッド寝ていたミストは眠たげな目をこっちに向けてくる。首を傾け、俺の方を見ようとしたが、額に乗っている濡れた布がずれ落ちて、視界が遮られていた。
俺は落ちた布を手に取り、さっき絞った濡れた布を取り替える。額に布を置かれたミストは、「ああ」と納得したように声をあげた。
「何から言っていいかわかんないけど、どれも『ありがとう』かな」
ミストは笑った。俺も冗談めかして「いえいえ」と笑う。
それを切りに口をつぐみ、静かになった。俺は痛む頬を摩りながら、窓の外を眺める。
セルジャンを倒してから、俺たちは無事ドレスコード領に帰還した。領主館へと移動し、3日目となるが、その間ミストは目を覚まさなかった。けれど、脈も呼吸もあり、生きていた。だから俺は看病をし続け、ようやくさっき目が覚めたところである。
変わることのない青い空が、なんとなく染み入ってくる。
ベッドから音がして目を向けると、ミストが起き上がろうとしていた。
「起きて辛くない?」
「ああ、もう元気だよ。それに、なんだか落ちつかなくてね」
見透かしたような目を向けてきた。俺は小さく深呼吸してから話す。
「まあ、なんというか。あれだよなぁ」
「あはは。歯切れが悪くてクリス君らしい」
「う、うん、ごめん。でさ、言っていい? ちょっと遠回りになるけど」
ミストは「ほんとカッコつかないねえ」とからから笑い、「いいよ」と静かに言った。
俺はもう一度深呼吸して、声を出す。
「クレアにアリスにミスト、3人ともさ、すごい素敵な女性で人としての魅力に溢れてる。けれど、俺には何もない。ただの偶然、不意の出来事で好きになってもらえた」
「うん」
「そこにさ、自尊心やら皆んなに対する憧憬の気持ちがあって、自分なんかが皆んなに好かれるなんて、って罪悪感を感じてた。だからこそ、こんな自分を慕ってくれる皆んなの想いに答えなければ、って俺は考えてた」
「考えてたってことは、今は違うんだね?」
「ああ、違った。いや、勿論そういう感情はあるけど、それだけじゃなかったんだよ。俺は川へと行く時、そこで責任を取ろうと考えた。これ以上過酷なことを強い続けて、何もあげられないまま死なせるくらいなら、ってね」
「あの時声をかけて良かったよ」
ミストがからからと笑い、俺は「助かったよ」と苦笑する。
「でもさ、ミストに声をかけられなくても、俺はしなかったと思う。というよりは、出来なかった」
「そうだね。罪悪感と責任感だけなら、私がどうしようと、確実に両方を取れたあの時に終わっていた筈だもんね」
「うん。でも、そうじゃないから今がある」
秘めていた感情が、引いた自分が考えることすら許してくれなかった感情が、言葉となって口から出て行く。
「ただ単純に、3人ともっと一緒にいたい。誰一人として欠けることなく、自分を選んで欲しかった」
だから俺は諦めずにやってこれた。そしてその感情があったからこそ、セルジャンに勝つ事ができた。疑念や迷いなんて何もないからこそ、一瞬の勝負だけに集中できた。
「自分で言っておいてなんだけどさ、皆には俺と恋人になる、って夢があるから辛い道中でも頑張れる、って言ったけど、あれは俺のことなんだと後になって気づいたよ」
ベタで使い古された、なんの趣もない言葉だけれど、大切なものは失ってから気づく。
らしさを感じる度に俺は胸を焦がしていた。くだらないやり取りが尊く思えたのも、自己嫌悪に囚われるまでの生活を、皆んなとの生活を楽しんでいたからだ。
自尊心の低さや罪悪感から、自らを騙し、自分にすらひた隠しにしていた所為で、後になってから気づかされた。
そして何より、
「ミストが、皆んなの中から自分を選んで欲しい、そう思う気持ちが恋心だと言うのなら、俺は誰一人として欠ける事なく自分を選んで欲しかった」
アリス、クレア、ミスト、全員とのやり取りは楽しいし、皆んなが皆んな可愛い。一緒にいて楽しかったり、好きだったり、性欲だったりが恋の正体なら、俺はとっくに恋に落ちてる。でも、恋ってそんな寂しいものであって欲しくないし、俺が抱いているのはそんな気持ちじゃない。
じゃあ、どんな感情を抱いているんだって問われれば、答える事ができない。敢えて言うなら、どうしても皆んなから選んで欲しい、という、激しく熱を帯びたもの。結局、よくわからない感情。
どこまでいっても説明がつかなくて、よくわからない。でもだからこそ、それに恋という固有の名詞が与えられているのだろう。
だから俺は、今抱えている気持ちは粉う事なき恋だ、とはっきり言える。
「考え直した上での結論で、俺は、皆んなの事が好きなんだ」
「……そう」
ミストは考え込むように俯いた。少しして顔をあげ、悲しげな冷たい瞳を向けてくる。
「悪い人だね。君のことがどうしようもなく好きな私に、振らせようとしてる」
冷静な口調だが、悲哀の籠った声だ。どうしようもない程の辛さを押し殺そうと必死な感情が、痛いくらいに伝わってくる。
「私はさ……思うんだよ。人によって価値観の違う世界で生きている。互いの考えを理解していたとしても、自分の主張は己の価値観では間違っていないし、異なる主張は他人の中では間違っていない」
ミストは遠くに目を向けた。
「結局ものの見方で、真実は嘘で、正義は悪に簡単に変わってしまう。そんな正しさなんてないこの世の中で、二人の主張が異なれば、どちらかが折れるしかない。そうしないと、結局は平行線のままだ」
ミストは「だからさ」と再び俺に目を向けてくる。
「人の世界はさ、いかに他人を折れさせるかで全てが回っている。そんな当たり前のことを君は理解しているし、私が折れないことも知っている」
「ミスト、それは違うって言わせて欲しい。確かに、正しいか間違っているかも、ものの見方で変わると思う。俺がセルジャンと戦おうとした判断は、可能性の薄さで見れば、正しくなかった。でも、今こうして答えを出せて、全員無事でいられるのは、俺がしたい、って思いに動いたからこそだ。そこに、折れるって意志はないと思う」
「結果論で理想論に過ぎないよ、クリスくん。したいことだけじゃあ、この世は回っていかない」
「ミストらしくない言葉だね」
「いや、私らしいよ。だからこそ私は、したい、という感情に価値を見出してる。楽しそうなことは、命をかけてまでしたいと思えるからね」
「ごめん、ミストらしい。でもそうなら、俺は余計にミストにしたいと思わせたくなったよ。折れさせたいわけじゃなくて、本心からそう思わせたい」
「それじゃあ、何も変わっていない、平行線のままだ。私もクリス君に選んで欲しい。選べない気持ちは、恋心なんかじゃない」
「それでも俺は、選べないほどの気持ちを小さいと言うのなら、選べる程度の気持ちを小さいと言うよ。今より良いと思わせるほどの大きな気持ちを持たせてみせる」
無言の時間が流れる。
「はあ……」
長らく続いた静寂の時は、ミストのため息によって破られた。そしてミストはいつもの様子を取り戻して口を開く。
「真面目なことを言っても、両頬が腫れてちゃ、様にならないよ」
「こ、これは……」
「あの二人にも同じことを言ったのかい? そりゃそうなるに決まってるじゃないか」
ミストはカラカラと笑った後に、真面目な顔に戻る。けれど、その頬は柔らかく緩んでいるように見えた。
ミストは、大きく深呼吸をして胸を膨らませ、長く息をはいたのちに言う。
「自分以外にも目が行っても良い気持ちが大きいなんて、自分だけを愛して欲しいという気持ちが小さいだなんて、全く思わない」
強くはっきりと続ける。
「私は私の言ってる事は間違っていないと思う。世界は理解することできない他者を、いかに折れさせるかで回っている。だから私は君を折れさせて、私一人を選んで欲しい」
ミストはベッドから起き上がり、俺の前に立った。そして、真面目な顔を綻ばせ、口を開く。
「でもさ、私も君も折れないで済むような、幸せな未来を期待してるよ」
そう言ってミストは、俺の頬を思いっきり叩いた。
ということで、逃亡編終わりです。
告白前後の話を閑話に挟んで、次の章に行きます。
プロット立てないといけないので、閑話で繋ぎます。閑話について活動報告があります。





