川
黒々となってしまいました。すみません。
破裂するような着水音が耳元で鳴って、水中へと沈み込む。
水底に引きずりこまれるような感覚から解放され、浮力を受けると、閉じていた目を開けた。ミストの腕から放たれる翠色の光が霧のように広がり、水中は濃紺の階調が出来上がっていた。目の前では、細かい緑のガラス玉のような水泡と共に、返り血が灰色になって煙のように水面へと立ち上っている。
身を任せるがままに上昇し、水面から顔を出した。溜まった息を吹き出すと、徹して冷たい空気が肺を突き通ってくる。外気に触れた皮膚は強張り、寒さに張り裂けそうなほど痛む。
波が波を後ろから喰らうような水流に揉まれながら、背負うミストの重さに沈まぬように、必死に脚を巻いて辺りの様子を伺う。
流されたのか、暫く先で、川べりから伸びた木の枝に片手で掴まるクレアの小さな姿を捉えた。クレアは、もう片方の手で、なんとかアリスを抱き寄せて、流れに抗っていた。大きな負荷が掛かっていることは明白で、耐えられる時間も僅かに違いない。
息苦しさに拍車がかかる事を躊躇せず、手に持っていた剣を咥えた。そして、下流へと集う川の流れに逆らうように、斜め上へと必死で泳ぎ、クレア達の元へと急ぐ。
手足で重く激しい水を掻く。寒さに身体が怠くなる。酸素は薄く、頭の中が白に塗りつぶされていく。
唸る水流は、弱まった獲物を襲う蛇のようで、気を抜けば呑み込まれそうになった。それでも、凍てつく寒さと水流に負けず、全身全霊で体を動かして、ようやくクレアが掴まる枝の手前まできた。
俺は、クレアの元に行くのではなく、そのまま泳ぎ続け、近くの岸まで上がった。必死に目を凝らし、泳ぐ最中、僅かに水面から浮いた瞳で捉えた、背が低く痛んだ樹へと走る。辿り着くと、ミストを地面に下ろし、咥えていた剣を両手で持ち直す。
「クレア、少しだけ待ってくれ!」
叫んで声をかけ、思いっきり幹に向けて剣を振り抜く。剣は幹の真ん中で止まり、手に衝撃が伝わってきて、響くような痛みに手を離した。
水の中から出た体は急激に熱を奪われ、異常に震える。痛みに腕が上手く上がらない。だが、茂みを掻き分けて疾走してくる狼の足音を聞いて、直ぐに柄へと手を伸ばす。
狼に並走されれば、川に飛び込んだ意味がない。距離が取れなくとも、せめて、対岸までは移動しないといけない。
俺は剣を引き抜き、再び同じ箇所に向けて振り抜く。木屑が舞い、さっきより深く刺さる。それでも、木は倒れない。
足音が近づいてくる。クレアの限界も近い。
歯が砕けそうな程噛み締め、再び剣を振り抜いた。木が砕ける音がなり、手に伝わった重い感触が抜け、前につんのめって転がる。地面に接触した部位が摩擦で熱を持ち、焼けるような痛みが走った。
力が抜け、猛烈な疲労感に見舞われる。剣を握った手が開けないほどに、力が入らない。体の所有権を失ったような感覚。痛みに上がるはずの声も出ない。
ミストの腕から放たれる緑色の光が萎むように弱まり、暗闇が押し寄せてきている。視界の端には、倒れる木が映った。
切り倒すことは出来た。火事場の馬鹿力、常人離れした力が、俺にはあったんだ。なら、体を動かすことくらい、なんてこと無いはず。余計追い詰められている今、更に力が増していくはず、そうに決まっている。
動け、一秒でも早く。
終わってない。終わらせない。
まだ終わらせるわけにはいかない。
俺は、顎でしゃくるように体を動かし、地に手をついて、なんとか立ち上がった。そして直ぐに、丸太にする為、切り倒した木に向けて再び刃を振り下ろした。無我夢中で何度も叩きつけ、ついに不恰好な丸太が出来上がった。
抱え込むようにして持ち上げる。そのまま腰を落とし、ざらざらと川へ向かって、満身の力で引きずる。
その間も緑の光は萎み、暗闇と共に、足音は押し寄せてくる。
抱えていた幹を放り投げ、川へと落とした。水飛沫が舞い、水面を叩く大きな音がなる。木は岸辺に寄りかかるように凭れた。流れくる水を弾き、飛沫を舞わせている。
「クレア、アリス、これに掴まってくれ!」
俺は砂浜から船を押し出すように、木を川へと落としきる。
急ぎ、ミストに駆け寄る。ミストの腕輪から放たれていた光はもう既に消えていた。
その時、背に物音が届く。気づいて振り返った時には、飛び掛かってきた狼の開いた口が目に入った。
頭を下げつつ肘を上げて、首元を守った。だが、肩に爪を突き立てられ、勢いが全て身体に掛かり、前のめりに倒れていく。倒れゆく最中、俺は手首を返し、剣先を自らの肩と首の間に向けた。
地に組み伏せられた衝撃が肺へと貫通し、同時に、手には肉を突き刺さす感触が走った。血が降り注ぐ中、転がるようにして狼の下から抜け出し、その勢いのまま倒れ伏すミストに近づく。そして、巻き込むように転がり、川へと飛び込んだ。
再び沈み込み、水面から顔を出した。川の流れに揉まれながら、ミストの脇に手を差し込み、仰向けにして水面に浮かせる。辺りの様子を伺うと、近くに、丸太を浮き輪代わりに、挟むようにして掴まるアリスとクレアを見つけた。
良かった。離れていない。
ままならない呼吸に耐えながら、丸太まで泳ぎきり、俺もクレアとアリス同様浮き輪代りにした。
流され続ける。何かを口にする気力すら湧かず、ただただ身を委ねていた。だが眠って熱を奪われぬように、必死で起き続け、精神は摩耗していった。
長らく流されたのち、岸に引っ掛かり、ようやく止まった。
俺は、全員を岸へと引き上げると、大きく息をついて下流を眺める。
朝焼けだ。
紺と白と紫、そして茜色。遠く低い位置の茜色の眩しい光が、紫色の薄く伸びて引いていく雲に移っている。夜が朝へと切り替わる瞬間の空。
まだ黒に塗られた木々や草、対照的に朝焼けを写して輝く川。山裾へと伸びている川の先には、小さく見える街並み。
朝焼けが目に染み、視界がぼやけた。





