川を求めて3
狼達は、途中で止まった。立派な尾を水平に伸ばし、姿勢を低くして身構えたまま、こちらの様子を伺ってくる。仲間が二頭やられている。警戒しているのだろう。
もしかすると、アリスが襲われた時、クレアと俺が逃げず、助けに入った事が二の足を踏ませているのかもしれない。不幸中の幸いだとは思うが、怖気付いて逃げてくれない事には、状況は変わらない。
俺はアリスに松明を手渡し、ミストの腕を自らの首へと回して引き起こす。
背を見せれば殺られる。
剣を構えたままゆっくりと後ずさり、背後からの攻撃を警戒して、木を背負うように立つ。
木に登るか? 狼から逃げる方法として、古来から一般的とされる手段だ。しかし、脚を怪我したクレアが登れるとも、疲労に限界を迎えているアリスが登れるとも思えない。むしろ、そんな隙を狼達は待っているのだろう。
かと言って、全員を守りつつ、狼全てを倒せるわけがない。なら、逃げる、という選択を取るしかない。だが、逃げるにしても、追われて仕留められる。狼たちは、俺たちが背を向けてできた死角から襲いかかってくるだろう。
運よくこの場を凌げたとしても、追われればそこでお終いだ。隠れたとしても血の匂いで、いとも容易く居場所を突き止められるに違いない。
考えている間も気は抜けず、獰猛な瞳で一瞬の隙を狙ってくる狼達に剣を向け続ける。
時間がない。いずれ、襲いかかってくる。さらに数が増え、取り囲まれたら、もう逃げ場がなくなってしまう。
湿った冷たい風が、嘆き声を上げながら、幹の間を抜けてくる。
川は近い。川に飛び込むことが出来れば、血の匂いを消せて狼達を巻くことができる。だが、疲労が限界を迎えているアリス、脚を怪我したクレア、病に犯されているミストが泳げるわけがない。全員まとめて溺死、しなくとも、低体温症で死んでゆくのがオチだ。
そもそも、歩くことすらままならないのに、襲いくる狼を退けつつ、どこにあるかもわからない川を求めて逃げ惑うなんて不可能だ。
だが、それ以外にこの場を切り抜けられる方法が思いつかない。
「……クリス君」
ミストが絞り出したような声で呟いた。さっき振り落としたときに目覚めたのか。今にも消えそうなほど小さな呼吸を頻繁に繰り返していることに気づく。
「大丈夫だよ」
ミストが耳元でようやく聞こえるくらいの声で言ってすぐ、回していた腕から緑の光が放たれた。その瞬間、暗闇に包まれていた視界が開け、ものの輪郭がくっきりと浮かび上がる。音は、草場を鳴らす虫の跳ねた音まで捉え、遠く茂みに潜む獣の匂いが鼻をついた。
五感が研ぎ澄まされ、ミストが魔法を使ったことを理解し、猛烈な不安と恐怖にかられる。
「無茶だ!」
声を出さずにはいられなかった。病に体力を奪われている中、魔法を使ったら、さらに衰弱して死に瀕するに違いない。
「使っていられる時間も短いから、川まで急ぎなよ」
「今すぐやめた方がいい!」
ミストからは弱々しげな笑顔しか帰ってこない。緑色の幻想的な光はずっと輝いている。
相手はミスト、もう何を言っても止めそうにない。
ミストの言葉から同じ絵が見えていたことはわかっている。
だったら、やるしかない。早くやめさせるのに、急いで川に飛び込むしかない。
「クレア、アリスに支えられたら立てそうか!?」
クレアは脚を抑えながら、頷いてきた。
「アリス! クレアを支えながら逃げる! 川に飛び込むぞ!」
アリスからも頷きが帰ってきた。
二人からの信頼が熱い。絶対にやり遂げたい。
その時、僅かな風の流れを感じてその方向を見る。そこにいた狼の腰の筋肉の動きを捉えた。俺は剣を構え、遅れて飛びかかってきた狼を容易に切り捨てる。切られた狼は、血を撒き散らしながら、濁った声をあげる。
無事防ぎ切った。会話の隙を狙った狼の不意打ちも、五感強化のおかげで対処できた。やれるかもしれない。
「アリス、俺が立っている木から真っ直ぐに、2、300 m 先くらいに多分川がある! 俺が守るから、全力で走ってくれ!」
俺の言葉にアリスはクレアを支えて、歩き始める。そして、苦痛の声を漏らしながら、駆け出した。
その瞬間、二つ狼の動きを感じ取る。狼の瞳はアリスとクレアに釣られていた。
俺はミストを抱えたまま、アリス達を追う。後ろから、狼の足音が聞こえてくる。
今はイタチごっこのような状況。だが、いずれは追い抜かれ、無防備なアリスとクレアが襲われることは明白だ。
俺は脚を少し緩め、前ゆくアリスと距離をあける。そして目を瞑って、感覚を研ぎ澄ます。
ここだ!
俺は振り向かずに、横に剣を振り下ろした。手に肉を断つ感触を得る。脇を抜けようとした狼を無事切り伏せたことを確信する。
続く狼の位置を把握しようと耳を澄ます。慌ただしい足音の後に、トン、と妙に軽い音がした。
上か!
上を向くと、飛び越えようとしてきた狼の腕と鼻先を捉えた。直ぐに剣を振り、頭上で狼の腹を裂く。バケツの水をかぶるように血が降り注ぎ、視界が奪われる。嗅覚は異常な鉄の匂いに全てを塗りつぶされる。
血を拭うことなく、駆け出した。アリス達の足音は聞こえる。まだ狼はいるのだ、早く追いつかなければ。
アリス達の足音の他に、狼の足音が聞こえ始めた。そしてそれらは段々と近づいていく。
「急げ!!」
声を出して己を鼓舞し、満身の力で駆ける。
枝に衣服は千切られ、時には枝を折って引きずりながら見えない森の中を走る。身体中が軋み、悲鳴をあげているが関係ない。一刻でも早く追いつくこと以外頭にない。
間に合え! 間に合え! 間に合え!
音が近づいていく。狼はやはり複数潜んでいたようで、後ろからも、前からもどこからも足音が聞こえる。
咆哮が轟いた。狼が獲物を追い立てるときの声。聞こえた場所はすぐ前から、アリス達の足音のすぐそばから。
「きゃあ!?」
悲鳴が聞こえて、脚音が消えた。
遅れて、地面を転がる音と、水を叩く大きな音がなる。
俺は最後の力を振り絞って走り抜け、追って落ちるように崖を転がり、川へと飛び込んだ。





