一か八か
狼から逃走してから、どれくらい経っただろうか。
日はもう落ちている。しかし、安全な場所など見つからず、土が露出している場所で夜を過ごすことに決めた。ただ火を焚けるという理由でだ。
火を囲んで誰も何も口にしない。ぼんやりとした目を炎に向けて座り込んでいる。時折、遠吠えが聞こえ、その度に身を強張らせた。アリスに至っては震え、恐怖を隠せないでいた。
疲労で今にも意識が飛びそうではあるが、狼の存在を危惧して眠れない。寝ているのは恐怖を感じる余裕もないミストだけだ。
狼の気を引くために荷を投げ捨てたせいで、残りの食料も水も殆どない。食糧はともかく、水がなければ人は3日と持たない上に、今の状態で歩き続けることを考えれば、二日ともたないだろう。
気候、険しい山道に体力を奪われた。
崖が崩れ道を失い、豪雨に見舞われ遭難した。
狼につけ狙われ、命を脅かされている。
おまけに、物資不足ときた。これ以上、どうすれば悪い状況に転ぶのか。そう言い切っていいくらいに、追い詰められている。
ただどうしてか、心は折れないでいる。
気づけば、空は白んでいた。いつの間にか夜が去ったらしい。
炭になった薪の残骸を見ながら口を開く。
「そろそろ行こうか」
クレアは、凝った体をほぐすように伸びをし、荷物を手に取った。どうやらクレアは問題なさそうであるが、アリスの方からは物音はしない。目を向けると、膝の間に顔を埋めている姿がある。眠っていて聞こえなかったのだろうか。だとすれば、起こす事が憚られる。
だが、立ち止まっている余裕はない。慮った末、起こす事に決める。
「ごめん、アリス、行こう」
声を掛けたが、アリスの返事がない。それどころか、身動き一つない。
「アリス?」
再び声をかけても反応はない。強烈な焦燥感がきて、慌てて駆け寄る。
「アリス! 大丈夫か!?」
何度か揺さぶると、瞼を上げ虚ろげな瞳を向けてきた。
「……あれ? ああ、気を失ってたみたい」
アリスはぼんやりしたまま、腰を上げようとする。俺は慌てて止めたが、強い返答がくる。
「行かなきゃ、進まないと終わらない」
ゆらりと体がぶれ、今にも倒れそうになりながらもアリスは立ち上がった。指先は震え、栄養失調の兆候も見えている。このままだとミストに続いてアリスも倒れてしまう。
「そうだな、進まないと終わらない」
クレアは荷を抱え上げ、アリスに同意した。
俺もミストを背負い立ち上がる。進まないと終わらない。まだ本当にどうしようもなくはなっていない。
二人に声をかけ、重い足を一歩ずつ動かす。
鬱蒼とした木々に日が遮られ暗い中、草木を踏みしめて行く。当て所ない。いつかこの山から出られるのだろうか。容赦なく襲いくる不安に気が触れそうになりながらも、懸命に歩いた。
それから丸一日歩き続けたが、景色は変わらない。どこまで行っても、草と木ばかり。森に閉じ込められたような感覚を覚える。
日が沈みかけ、また狼の遠吠えが響き出した。もはや前方からなのか、後方から聞こえるのかわからない。ただ届く声は大きく、すぐ近くに潜んでいることがわかる。
冷たい風が草木の合間を抜けて、首筋を撫でてくる。ざわめく草木の音も相まって、不気味な獣に舐められたようだ。気持ち悪くて吐き気がする。
ふと振り返ると、アリスはクレアに肩を借りている。目は虚ろで立つことすらままならない。クレアの手を借りて、なんとかついてこれてはいるが、とてもこれ以上進めるとは思えない。
山を彷徨い続けて全員死ぬ。
そんな考えがいよいよ真実味を帯びてきて、急激に焦燥感にかられる。耐えてきた恐怖や不安が一気に襲いかかってきて、パニックに陥りかけた。だが、茎の折れた雑草を視界に捉え、冷静さを取り戻す。
あれはなんだ、何故折れている?
近いづいてしゃがみ込み、注意深く観察してみる。
茎の折れた雑草の根元を見ると、足跡がついていた。それは蹄のような形をしている。
周囲を伺うと、同様の草は複数あり、連続して生えている。目で辿っていくと、獣道になっていることがわかった。
「クレア」
俺は名前だけ読んで、指差した。クレアはゆっくりと俺に近づいてきて、指し示した方向をみる。
「獣道か。これは狼のものか?」
「足跡からして、狼のものではないと思う。でも、獲物の居るところに狼もいる。ここを行けば、逃げるどころか、縄張りに踏み入っていくことになるかもしれない」
「避ける?」
「いや、一か八か、経路の川近くまで出られるかもしれない」
遭難した日に豪雨に見舞われたにもかかわらず、地面はぬかるみ続けていない。そのため、この地はある程度水はけがいいと考えられる。仮にそうだとすると、安定した水源の川近くにヌタ場が存在する可能性がある。だから、この獣道沿いに進めば、ヌタ場に辿り着き、川を見つけて経路に戻れるかもしれない。
だが、多数の狼に出くわす可能性は高く、本当に川に辿り着けるかも不明だ。
「行こう、クリス。可能性が見えないよりマシだ」
クレアはそう言ったのち、「狼の元に行くんだ。暮らせそうにないな」と続け、屈託のない笑みを見せた。
この道を行くとすれば、狼から逃げるという選択肢を放棄するということだ。以前クレアが言っていた、しがらみをなしに山で暮らすことを諦めることになる。
クレアは自らが言い出したことを、放棄するという選択肢をとった。それなのに晴れやかな顔をしている。どうしてなのだろうか。
疑問に思うも、感覚では理解している。ただ言葉にすることができない。前も同じような感覚を覚えた。雨の中、洞穴で薪を取りに行く前だ。
振り返るも答えが出ない。だが俺も本心で、進まなければ終わらない、そう思っていることだけは確かだ。
「そうだね、行こう。少しでも切り抜ける可能性をあげるために、残りの食料を摂って休もう」
俺たちは進む事に決め、残りの食料を全て摂取した。





