ミストの提案
「な、なにをしている?」
唇を手で抑えて俯くミスト越しに、立ち上がるクレアが見えた。
キスの甘い残滓と身に染みるような緊張感に胸が窮屈になる。毒蛇に絡まれたように締め付けられ、体が麻痺したように動かない。
次第にクレアの顔が暗い中でもはっきり分かるくらいに陰っていく。射し込む薄い夕陽は、反対に瞳をきらりと輝かせた。
「そ、そうだったん……だな」
「ク、クレア、これは……」
クレアは井戸の底の暗闇みたいに低く暗い声で言った。
俺は立ち上がり、慌てて否定しようとするが口を挟まれる。
「いや、いいんだ。そうか……一人浮かれて馬鹿みたいだ」
「待って、クレア!」
「大丈夫だクリス。私は振られたからといって、手助けしないなんてことはないから……」
「だから……」
「もう言わないでくれ!」
クレアは目を瞑って叫んだ。そして、身を震わせて弱々しい笑みを浮かべる。
「むしろ済まなかったなクリス。今まで鬱陶しくて重い女だっただろ。今からは……済まない。これからは気持ちを捨てられるように頑張るから、もう少しだけ待ってくれるか?」
「本当に違うから!」
余りにクレアが痛ましくて、叫んだ。
「で、でも……」
「クリス君の言う通りだよ」
狼狽えるクレアにミストが言った。
「私が急にクリス君の唇を奪ったんだ」
クレアが当惑顔を俺とミストに交互に向ける。
「けれど、私はクリス君が好きなんだ。だから譲る気はないよ」
ミストがクレアに向けていた顔を俺に向ける。その表情はミストらしからぬ悲哀に満ちたものだった。
「だから……さっき、あんなに強く否定されたのは少しキツいね。私じゃ駄目なのかい?」
桜色の瞳が俺を捉えて離さない。鎖で縛り付けられたみたいに、目が離せなくなる。こんな状況になって、ミストが俺に好意を寄せていないなんて絶対に思わない。どころか、二人にも負けず強い気持ちだと理解できる。
「待って! どういうこと!?」
今度は、いつの間にか起きていたアリスの声が地下道に響く。
反響が収まると、アリスは俯きながらゆっくり歩いてきて、服の裾を掴んで見上げてくる。
「ミストを選ぶの? 私やだよ。絶対にやだよ。全部投げ出すくらいクリスが好きなのに……」
「そんなの……私だって絶対に嫌だ!!」
クレアも俺の前に立ち、三方から詰め寄られる。三人とも俺に向けてくる顔は真剣で、強い感情がありありと伝わってくる。
一歩動けば見えない糸に切り殺されそうだと錯覚しまいそうなほど空気が張り詰めていく。雪崩に呑み込まれたみたいに気持ちが重くのしかかってくる。けれどそれは、岩石でも溶かしてしまうほどの熱を持っている。
情けない。
自虐心と罪悪感が濃霧のように体内を満たす。
答えを出さないでいたばかりに、皆んなをここまで追い詰めてしまった。もう答えを出さないといけない。
俺は大きく息を吸い込んで、ゆっくりと口を開いた。
「聞いて欲しいことがあるんだ」
ゆっくりと瞬きをして続ける。
「まずはごめん。皆んなの気持ちには気づいていたけど、見ないふりをしてた。本当にごめん」
クレアとアリスは一瞬だけ目を泳がせ、狼狽を露わにするも、唇を硬く結んだまま俺の目を見続ける。
「俺はみんなの気持ちに答えを出すよ」
刹那、緊張が高まり、強い不安や期待が混同した大きく複雑な感情が伝わってきて、呑み込まれそうになる。けれど、負けるわけにはいかない。はっきりと答えを出さないといけない。
答えを出そうとしたその時、ミストが静かな声で言葉を遮ってきた。
「ごめん。クリス君、一つだけ確認いいかい?」
不意のことに少し気後れして「あ、ああ」とミストに答える。すると、ミストは不安げな面持ちのまま話し始めた。
「まさか、まさかだと思うんだけど……全員のことが好きって答えではないよね?」
図星で胸がどきりと跳ねる。だがすぐに胸中は収まる。
それが本心なのだ。だからそう言うしかない。
再び口を開こうとすると、クレアが先に話し出す。
「それはない。もし、それが本心だとしても、私は嫌だ。クリスには私を選んで、私だけを見て欲しい」
「私もそう。そんな答えなら、まだ振られた方がマシ。命を賭けるくらいにクリスが好きなの。この想いをわかって欲しいし、私にも向けて欲しい」
あれほど悩み抜いて決意したというのに、クレアとアリスの言葉に何も言えなくなってしまった。
「私もそうだね。負けるならともかく、そうしなければ死ぬ状況に陥らない限り、三人都合よくなんて絶対に嫌だ」
ミストの言葉にアリスもクレアも頷いた。そして、クレアが問いかけてくる。
「クリス、答えを聞かせてくれないか?」
三人の真剣な瞳に促され、答えるために口は開くが、脳内が真っ白になって答えが出ない。
どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう。
焦りから、異常な量の汗は出るも、誰を選ぶかの答えは出ない。結局浮かぶのは、皆んなのことが大切だという最初の結論だけ。わからない、わからない。
完全に混乱して何もできないでいると、見かねたのかミストが静寂を破った。
「私に一つ、提案があるんだ」
アリスとクレアの視線がミストに移り、少し落ち着く。しかし、混乱が解けたのか、落ち着いた自分に嫌悪感を抱いた。
「まず最初に、このままだと無事逃げられるかわからない」
このままだととは、逃走がもたついている現状のことだろう。それと選んでしまった後に起きるであろう不和による遅延を恐れてかもしれない。
「さらに逃げ切れたとしても戦いが始まる。もしかしたら、私たちは生き残れるかわからない」
クレアもアリスもわかっていると頷いた。
「それに生き残ったとしてもこれから会う機会はほとんどなくなるからさ、親密になるより、次第に疎遠になっていくと考えられるね」
「確かにクリスの気持ちを掴めるのは逃走中の今しかないかもしれない」
そう言ったクレアに、ミストは「うん」と答えて続ける。
「だから私は、不和を招いて逃走を遅らせないように、逃げ切った最後にクリス君に誰か選んでもらうという案を出すよ」
そして最後に
「簡単にいうと、逃げ切るまでにクリス君を落とせってことだよ」
と告げた。
5日後発売になります。よろしければお願いいたします。
後、明日の更新は23時から24時の間の予定です。オーバーしたらすみません。





