ら!
ガヤガヤとした喧騒や衣擦れの音を背中に受けなくなった頃、森に入ってすぐの場所に馬車を駐めた。そして、ミストの用意した旅人風のローブに身を包み、一つ前の森に歩いて入った。
もう昼に近いというのに、森の中は木が日を遮って暗い。土の香りというよりは青臭い草の匂いが漂い、目の前を羽虫が横切っていく。辺りには、膝まで伸びた草を掻き分けて歩く音と、ひっくひっくと泣き噦る声が響いていた。
「なあ、アリス。そろそろ泣き止んでくれよ」
「だ、だっでぇ〜」
アリスは手の甲で目を覆いながら、後ろで歩くクレアを指差した。
指されたクレアはというと、プイと視線をそらす。
胃が痛い。二人揃って小学生みたいな反応しないで欲しい。
命の掛かった逃亡をしているというのに、全くといって緊張感はなかった。しかし、別の緊張感があり、空気はどこかギスギスしている。この調子のままじゃ、いずれ逃亡に支障をきたすことだろう。
なんとか手を打たないと、と声を出す。
「ほら、クレアも謝って、仲直りしようよ」
「まさかクリス? 私ではなく王女の肩を持つのか?」
クレアの口から出たのは冷えた声で、息を飲んでしまう。額に滲んだ汗を拭って口を開く。
「そ、そういう訳じゃないよ。ほら、喧嘩両成敗って言うじゃないか」
「ということは、成敗されてない私が勝ちってことでいいよねえ?」
ミストがそう言った瞬間、アリスもクレアも俺に鋭い眼差しを送ってきた。
よ、余計なことを。
ミストに視線を送るも、ふいと目をそらされ、どこ吹く風とかわされてしまう。
クレア達の視線が痛く、別のものに向けようと指を指した。
「あ、あそこだ! あそこが開始点だよ!」
皆んなは渋々といった様子で指が示す方向に目を向けた。そこには、苔や蔦に蝕まれた小さな廃屋があった。
「こんな所に家?」
クレアが不思議そうに小首を傾げる。
「うん。実際に俺も見るまで本当にあると思わなかったよ」
小さな廃屋は石造で頑丈に作られていた。木漏れ日が指す中にひっそりと佇む姿は、むしろ幻想的、芸術的と言っても差し支えない。ちゃんとした建築家が関わっているのだろう。そもそも、どうやって森の中にこれだけの石材を持ち運んだのだろうか。
周りには、木が疎らに生えていて、手入れされていた形跡があり、昔そこに誰かが住んでいたことがわかる。こんな森の中で暮らしていた人はどういう事情があったのだろうか。実際に見てみると、ただ物好きな人間が住んでいた小屋とは到底思えない。
数々の疑問が湧き上がってくるが、そんなことはどうでもいい。重要なのは逃げ道だ。
廃屋に向かって進み、低い扉を開いた。
「クリス、大丈夫なの?」
振り向くと、アリスが不安げな面持ちでこちらを見てきていた。
確かに心配する気持ちはわかる。いくら言っても、廃屋は廃屋に過ぎない。この中に逃げ道があるとは到底思えない。けれど、あのユリスがここを選んだのだから、俺には何の不安もなかった。
「多分、大丈夫だと思うよ」
そう言って、室内に入る。
室内は暗く、どこか水っぽい匂いが充満していた。部屋は小さく、中央に朽ちたテーブルと椅子、奥に大きめの暖炉、そして二階へ続く階段が存在している。床は所々、草や苔が生えており、滑ってしまいそうだ。
臆することなく、暖炉の方へと向かう。目の前までくるとしゃがみ込み、暖炉の床を叩く。すると、奥に響くような音がなった。
「あった! ここだ!」
振り向いてそう言うと、いつの間にか入ってきていた三人は不思議そうな顔をしていた。
「何だ? そこに何かあるのか?」
「ああ。この下に空洞がある」
俺は再び暖炉に向かい合い、手で草や砂埃を払いのける。すると切れ目を見つけ、そこに指を差し込み、石の床板を外した。その下には、穴があり暗闇が広がっている。だが家の扉から入り込む光が、階段の一段目をぼんやりと照らし出していた。
「見て。ここから逃げる」
俺は立ち上がり、横に退いて暖炉の前を開けた。
皆んなはゆっくりと歩いて暖炉の前に立ち、穴を覗き込んだ。
「何でこんな所に穴が?」
「何これ?」
ミストは顎に手をおいて真剣な眼差しで見つめ、クレアとアリスは俺に顔を向け尋ねてきた。
「俺も深くは知らないけど、地下通路らしい。中はオラール領の山に繋がる道と、北方につながる道があるんだって」
ユリスから聞いた話ではそうらしい。かなり広大に作られた地下通路らしいが、制作された意図自体はユリスもわかっていないとのことだ。
「何故こんな所に通路があるんだ?」
「わからない。けれど、あるものは使っていこうと思う」
俺はクレアにそう答え、階段脇にある木箱から松明を取り出す。これは、ユリスが用意したと言っていたものなので状態はよく、直ぐにでも使えそうだ。
火を付けようと、火打ち石を取り出し、周りを確認すると、アリスの姿が目に入った。
アリスの表情はとても不安げで、怯えているようにも見える。
まあそれもそうか。こんな所に地下通路があると言われても不審に思うのも当然である。俺はユリスを信頼しているから難なく信じられたが、普通は考えられない。
「大丈夫だよ、アリス。俺が先に行くから安心してついてきてくれ」
俺がそう言うと、アリスはぶんぶんと首をふった。
「べ、別に暗い所なんて怖くないわよ!」
ああ。そういうことね。ただ暗いところが怖いだけか。
何と言うか、信じられていることを実感して、頬が熱くなる。
「ありがとう、アリス」
「え? なに?」
本当にわからないようで、アリスはポケっとした。しかし、すぐにハッとした後、ニヤリと笑い、俺の腕に組み付いてきた。
「クリス、やっぱり怖いから、一緒に降りよ?」
急に正直になったアリスが可愛く思え、仕方ないなあ、と口にしそうになった瞬間。
「そうか、そうか。怖いなら私と一緒に降りよう。だから、すぐにその汚い手を離せ?」
ニコニコとしたクレアが、青筋を浮かべてそう言った。





