しゅ!
「ア、アリスも来る?」
俺の言葉に、アリスとクレアはピタッと動きを止めた。
時間が止まったのかと錯覚してしまう。けれど、ガタゴトと揺れる馬車の振動や背中をすっと滑る汗に、時が動いていることはわかる。
アリスもクレアも表情は凍りついていた。目は一層冷たく、身体の芯を貫きそうほど刺々しい。
喉が閉まり、冷や汗が頬をつたう。
やらかした。完全に間違えた。
静かで重い空気に縛られ、数秒間動けないでいたが、なんとか立ち上がり、口を開く。
「な、なんてね。そ、そろそろ、馬車から降りなきゃいけないことに違いないから。何処に止めるか場所を見てくるよ」
クレアやアリスの視線を背中に受け、御者台の方へと、振動で不安定な足場を進む。
「そ、そうか。それなら仕方ないな」
「そうね、準備しなきゃね!」
しばらくすると、気をとり直したような声が聞こえた。
二人の声は明るかったが、どんな顔しているのか凄く気になる。かといって振り返るのも怖く、荷台から体を乗り出し、馬車の外を見た。
空はすっかり青く、綿を千切ったような雲が流れていた。正面に見える緑の森が見える。馬車は近づき、より鮮明に木々の幹が見えてきた。
目の前には広がるのは、穏やかな風景ではある。だが、全く落ち着かない。後悔の念がぐるぐると駆け巡り、壊れた洗濯機みたいに喚き立てる。
どうしよう、最低な浮気男みたいな言葉を選んでしまった。クレアとアリスの気持ちから、つい逃げてしまった。
もしかしたら、この息は、過剰に分泌された胃酸が溶かした食べ物のガスなのかもしれない。いや、朝から何も食べていないから、そんなことはないだろう。
と、どうでも良い事を考えて気を紛らわせようにも、湧き出る罪悪感や自虐の気持ちは抑えられない。
くるものがあるよなあ……。
自身の気持ちとしては、逃走だけに集中したい。そして、無事逃げ切った後で、気持ちを整理して皆に向き合いたいというのが本心だ。
でもそれは、命懸けの告白をしてきた皆んなに「ちょっと待って」と言うようなもので、自己中心的な考えには違いないのだ。
助ける側になって考える。
自分は配管工で、デカイ亀に捕われた桃の姫様の事が好きで助けたい。時には高所、深い水中、炎の城を乗り越える事が必須だ。そんな苦難に挑み、途中姫様に恋心から助けると誓ったところ、「告白の件は、逃げ終えるまで待って。ただ目の前のことに集中してくれ」と言われたら、ブチギレるに違いない。なおかつ、他の人間も姫様を狙っているとなれば、もうどうしようもない。命を掛けた価値があるかハッキリして欲しいと思うのが普通だろう。
俺の気持ちは、全く誠実とはかけ離れた傲慢な考えだと再認識し、溜息を吐いた。
しかし、そうは言うものの、逃げる事に全力を注がず、皆んなを助ける事が出来ないと本末転倒だ。それこそ誠実とは言えない気もする。
ああ、なんとも折り合いがつかない。
皆んなに誠実に向き合いたいと思うのも本心だし、逃がすことだけを考えたいと思うのも本心だ。
くらりと目まいがきて倒れそうになる。
朝から考えすぎて、気疲れでおかしくなりそうだ。
「そろそろ街道を抜けて、森に入ろうと思うんだけど、何処に止めた方が良いかなあ?」
ミストが振り返って尋ねてきた。
俺はモヤモヤする気持ちをなんとか切り替えて答える。
「森の奥に入れても気づかれる事が遅くなる。先に近い森の方を調べられるとここまで来た意味がないから、できるだけ目立つところにしよう」
「了解。街道からちょっとだけ離れた所に停めようか……あっ」
ミストは途中で言い澱んだ。
何かダメなところでもあったのかと思いミストの顔を窺うと、ニヤニヤと笑っていた。
なんだか嫌な予感がする。
「やっぱり、クリス君が停めてよ。私も準備があるからさ」
そう言ってミストは手綱を俺に差し出して来た。
「別に良いけど、準備って?」
「ふふん。クリス君は気にしないで良いよ」
怪しげな返答をしたミストを不自然に思うも、差し出されるままに手綱を受け取り、御者台に乗り込んだ。
ミストは「じゃあ、任せたよ」と言い残して、荷台に入っていった。
俺は視線を前にやり、ぼんやり考える。
準備ってなんだろうか。そういえば、木箱を用意してたし、その中から持ち運べるものを取り出すのかもしれない。元々馬車で帰ろうとしていたミストは、歩く事になると思わなかっただろうから、持ち歩くものを吟味しないとってことかな。
「ち、ちょっと、何してるの!?」
「お前はいきなり何をしているんだ!?」
後ろから、クレアとアリスの驚愕する声が聞こえた。
どうしたのかと思い振り向くと、薄暗い馬車の中には、慌てふためくアリスとクレアの姿があった。
そして、二人の視線の先には、桜色の髪の下に伸びる白い頸。丸みを帯びて柔らかそうな、それでいてすっと綺麗な背中。吸い込まれるみたいに目を奪われたいたが、情報の処理が追いつくと勝手に声が出る。
「ええっ!?」
俺が驚いたせいで、馬が嘶き、車体が大きく揺れた。
「ちょ、クリス!! 見たらダメ!!」
「お前はなんだ! 痴女か!? 痴女なのか!?」
逃げるように前を向き、馬を宥める。
な、なんでミストはいきなり服を脱いだんだ!?
「痴女って酷いなあ。私にとっては、制服を着て逃亡する方が痴女だと思うんだけど?」
ミストの言葉はわかる。確かに、制服で逃げるとなれば、一眼見ただけでバレてしまう。替えがあるなら、速攻着替えた方がいい。でも、絶対に今じゃないし、何か隠してほしい!
「だ、だからってクリスの前だぞ!」
「そうよ!! ケダモノよ! どうせ、ナメクジが這うみたいに舐めまわされたり、粘土をこねる陶芸家みたいに色々さわられちゃうのよ!?」
二人の抗議に俺も賛同はする。だが、俺は塩でとけないし、ろくろを回したりしない。というか、そのセリフで本当にアリスが俺に好意を持っているのか怪しくなってきた。
「クリス君の後ろだから前じゃないよ。それに、そんな事したいのかな?」
足音が聞こえたかと思うと、ふと首元に甘い吐息がかかる。
「ねえ、クリス君? 私にしたい?」
その声は艶やかで、何処か湿りけを帯びており、ぞくりとしてしまう。振り向きたい欲求に駆られるが、さっきみたいに取り乱して馬を暴れさせられない。けど、振り向きたい!
葛藤していると、すぐに「あっ」という短い声とともに、背中に感じていた気配が遠のいた。
「何するんだい?」
「何するんだ、とはこっちのセリフだ!!」
クレアの怒声が響いた。声の大きさに内心焦る。
やばい、今は逃走中なのだ。あまり大きな声を出してはいけない。ああでもかといって、逃亡中だから集中してとは言い出せない!
「まあまあ、そう怒らなくても。ほら、着替えを数日分入れてあるから、皆んなの分もあるよ」
背中で受けていた声が急に静まる。
「な、なあクリス?」
「な、何?」
急に調子の変わったクレアの声に驚き、どもらせてしまう。
「い、今から、仕方なく着替えるからな? ダメだぞ? 絶対に振り向いちゃダメだぞ?」
その声は、言葉とは裏腹に期待が篭ってるような気がして、焦る。複雑な感情が脳内に渦巻き、目の前がぐにゃぐにゃしてきた。
いや、どういった心変わりだよ! ほんと俺はどうしたらいいの!?
「前振りやめてよ! 見て欲しいのバレバレじゃない!」
「う、うるさい、前振りじゃない! 別に見せたい訳じゃない、ただクリスに振り向いて欲しいだけだ!」
「一緒じゃない! さっき、ミストに痴女って言ってたくせに、それはどうなの!?」
「なんだ、嫉妬か!? 自分の体が枯れ木のひと枝にも劣るから妬いてるのか!? 振り向いてもらえる可能性がないから妬いてるのか!?」
「違うわよ! それに、そこまで酷く……酷く、酷く、酷くないよね?」
アリスが涙交じりの声で尋ねてきた。前を見ているせいで顔は見えないが、悲しんでいることはわかる。何かフォローしたい。
けれど、余りに持ち上げ過ぎても、クレアは嫌がるだろうし、ある程度持ち上げないとアリスは悲しむだろうし。
「え? なんでクリス何も言ってくれないの? 本当なの? 私枯れ枝なの?」
やばいと思った瞬間、アリスはえんえんと泣き声をあげた。
「やだよぉ。薪にしかならない枯れ枝なんて使い捨てじゃない。そんな惨めな存在やだよぉ」
「枯れ枝じゃないから! それに見ないから、早く着替えて!」
俺まで声が大きくなってしまい、頭を抱えた。
2巻の告知です。すみません。
8月10日発売です。下に新しいカバーイラストあります。
後、活動報告に、2巻の内容に触れてます。





