閑話 ミスト
「お帰りなさいませ。伯爵様」
「うん。ただいま。ちょっと、模擬戦で汚れたから浴場に行くことにするよ」
私は、老執事の「承知しました」という声を背中に受けて、浴場へと向かった。
浴室へたどり着くと、軽装の鎧を選んだはずだが、それでも重かった鎧を剥ぎ、肌着をするりと脱ぐ。すると、涼しい風が肌に纏わりついてくる。
大理石の床に足を踏み混んだ。足裏にはざらりとして、生温かい感覚。しかし、絶妙な暖かさが気持ちいい。
彫刻が施された白い壁は月明かりを受け、ぼんやりと輪郭を示しており、静けさを感じる。空を見上げると、月を中心に満天の星。
結構な時間に帰ってきたものだね。
風呂に入ろうと前を向くと、月明かりに湯気が煙り美しい。自然に足が進む。湯気の温かい湿気が今度は肌に吸い付き、白い肌をてらりと光らせる。しかし、所々、砂がついていたのが、気に食わず、近くにあった小さな樽で静かに湯を汲み、体に流した。
肌を熱が滑り、滑りきったところから、段々と冷やされていく。これはこれで気持ちいいのだけど、湯内の気持ち良さには敵わない。足先をちょんと浴槽に溜められた湯につけ、温度を確認した後、ゆるりと体を沈めた。
体を包む暖かい湯。体全身に血が巡り、外気に接した部分から熱を奪われる感覚。脳内のもやが晴れ、瞼が軽く、上気して行く感覚。気持ちいい。風呂に入る文化があまりない理由がわからないや。
学園用の王都の邸宅に、吹き抜けの浴室を作らせて良かった、と入るたびに確信してしまう。
湯に入っていると、段々と疲れが取れていき、両腕を前に出して大きく伸びをした。すると、銀の腕輪につけていた宝石が月光に煽られ、キラリと光る。
魔法を二回も使うと疲れるんだよねえ。
少し、苦笑いが溢れる。うちの魔法は五感強化だけど、使って効果が切れると、脳の働きが鈍くなり、感覚も少しの間落ちる。加えて、使っているときは感覚に身を委ねる分、自制という意識が薄くなってしまう。
まあ、そんなんだから父は私に譲ったのだろうけどね。
我ながらの自画自賛に笑いが込み上げた。自制だとかどうとかって考えたこともないし、感覚に身を委ねたとして、正確に理解できない事なんてない。魔法を使おうが使わまいが、今までも分からない事なんて無かった。無かった筈なのだけど。
心の内に、川底の石を剥がした時に砂が沸き立つように、もやもやとしたものが湧いてくる。そして、もやもやとしている自分が分からなく、よりもやもやとして、自然に口が尖った。
何が分からないのか考えると、ふとクリス君の顔が浮かんだ。
何故、クリス君の顔が思い浮かぶのか、恋する乙女でもあるまいし。
確かに私はクリス君が好きだけど、それはあのお姫様やクレアなんかとは違うタイプの好きだ。からかって良い反応してくれる人柄としての好きである。婚姻したいとは思っているけど、私のピアゾン伯爵領を発展させるために、クリス君の知識が欲しいし、土地としてのドレスコード領を吸収する上で、婚姻したいんだ。
好きではない……筈だけどねえ。
水面に映る月を眺めて、模擬戦の事を振り返る。
今日、魔法の効果を切ったせいで、黒衣の暗殺者たちの存在に気がつかなかった。魔法を切ったせいとは言っても、私に気づかせないとは相当な実力者だ。あとで考えるとトーポ帝国の優れた暗殺者であるとわかる。
あの時、ちょうど良いところにクリス君がきてくれたのだ。それに光明を見出し、脳の回転が回復するまで隠れ、そのあとにクリス君と協力した策を考え、逃げようとした。だけど、私を助ける為にクリス君が行ってしまったんだよねえ。
またくつくつと笑いがこみ上げる。クリス君の馬鹿さ加減ではなく、自分の馬鹿さ加減にだ。
逃げれば良いものの、途中でクリス君に魔法をかけたんだものね。
私は楽しい事と、より利がある選択しかしてきてない。多分その時もその選択に従ったんだろうけど、なんでそうしたのか分からない。
あの時、クリス君が負けてしまえば、私はすぐに探し出されて死んでいた。リスクがどうこう考えたことも無いけれど、後で考えると、生きてきたうちで一番危なかったなぁ、と思う。
言うならば、二人とも危機に陥った状況……と、そこまで至ったところで、王室内のクリス君の言葉を思い出した。
『吊り橋効果』
まさかね。一人からから笑う。聞いたことも無いし、いつものクリス君のでまかせ。しかし、何故か自分の胸の鼓動は高鳴る。
鼓動が煩わしく、抑えるように手を胸に当てた。沈み込むほど柔らかいが、手を押し上げて来る程、弾力がある。
そういえば、良くクリス君はこの胸を見てたよねぇ。
今まで気にも留めていなかったが、風呂に入りすぎたせいか頰は上気していた。そして、謎の高揚感に襲われる。
ふふん。クリス君も男の子だもんね。今度、会ったらからかってやろう。
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教室の扉が開いた。教室が静まり返る。クラスメイトがクリス君の元へと群がっていく。
どきりと胸が跳ねる。しかし、決めていた事を思い出し、高揚感が体を支配する。
さて、からかってやろう。
どうやってからかおうか考えていると、クリス君がクラスメイトの包囲を解き、段々と近づいて来た。
一歩踏み込んでくる度に、どきり、どきりと胸が跳ねる。
ついに、椅子を引いて隣に座った。
私は待ってましたとばかりに口を開く。しかし、出た言葉は、からかうとは遠いものであった。
「ありがとう」
分からない。私は自分が唯一分からない。





