mist
「まあ、簡単な話だよ。扉の外から小さな足音が聞こえたんだ。それも私たちのように静かなね」
ミストの意味ありげに告げた言葉に合点がいった。
なるほど。そういうことか。
わざわざ自室に帰るのに忍ばせて帰るものなどいないというわけだ。そうなれば、導き出される結論は、足音の主は他人になる。
他人であるならば王の部屋へと入ってこない。もし、入ってきたとしても足音を忍ばせている時点で王を起こす気はない。ならば、もし入ってきたとしても、ベッドには近づきたくないと考えても不思議ではないだろう。
つまるところ、ミストは一瞬の閃きで最も安全な場所を隠れる先へと選んだのだ。
ミストのやってのけたことを理解すると、本当に恐ろしい奴だと鳥肌が立つ。
だが、加えて俺はミストの新しい事実を見つけて、それが何より背筋を震わせた。
この逃げ場を思いつくには、忍び足の足音を聞く必要性があるのだ。いくら日記に集中していたとしても、俺には全く聞こえなかった足音を。
瞼の裏に捉えた翠の光、ピアゾン家の五感強化の魔法。全てが繋がる。
今思い返せば、色々と違和感のあることが多かった。
例えば、社交界で王女への挨拶が始まった時に、大貴族の子女が一人でふらついてる事を許されるのはおかしい。
他にもアリスに荷物を届けに保健室に行った時のこともそうだ。王女が、たかが子爵の俺と戯れてる会話が聞こえていて、眠れる人間がいるわけない。だから、あの時眠っていた保健室の先生は話を聞こえていないのは明らかなのに、外にいたミストが聞こえていることに疑問を持つべきだったのだ。
ミストに手で目を覆われた時、瞼の裏に捉えた一瞬の光。あれは、おそらくミストが魔法を使った際に出る光。
五感強化には、もちろん聴覚の強化も含まれている。つまり、魔法を使って男の足音を聞いたのだ。
事実かどうかは判らないが、保健室の時も何故聞こえていたのか納得がいく。
そしてそれが事実なのだとしたら、詰まる所、宝具を継承している、家督を継承している事に他ならない。
信じられないことなのに、社交界の挨拶をしたくないというミストの言葉を思い出し、より真実味を帯びさせる。
「そんな、難しい顔をしてどうしたのさ?」
「い、いえ何も!」
声が上ずってしまった俺に「変なクリス君」と言ってミストはカラカラと笑った。
そんなミストに、ただただ恐怖を覚えるばかりである。仕方ない、だって目の前にいるのは、さっき平気であんな事をやってのけたミスト、いや、隣の領の長であるピアゾン伯爵なのだから。
どうして、伯爵位を受けているのかなんて、どうでも良い。ただ俺の中の現実として大切なことは、隣の領主があまりにも強敵すぎる事だけだ。
それに理由なんて、アリスが言っていた神童と呼ばれていたのに、いつからか呼ばれなくなった話から、才覚で認めざるを得ないとか、それに類した理由だろう。
「必要な情報も、もっと重要そうな情報も得たんだしさ、早く馬車に戻ろうよ」
驚愕、恐怖や焦り、様々な負の感情がごちゃ混ぜになっている俺の心の中が更にかき乱される。
ミストの言う通り、王と宰相は互いに権力争いをしているはずなのだ。そのせいで今は王族派に与するか宰相派に与するかと貴族間で緊張が高まっており、内乱を間近にしている。
だというのに、二人が密談していたということは、内乱を収めようと対立しないように計画立てる、もしくは、故意に内乱を起こそうとしているように見える。
俺はその考えに何か深いわけがありそうだと考えたが、ふと単純なことに気づいて考えるのをやめる。
どちらにしろ自分の立場としては最も生き残りやすい貴族家の傘下に入ることだ。内乱が収まるならそれで良いし、収まらないならば、今とやることは変わらない。
結論に至るや、傘下に入る選択肢の一つを見る。
「うん? どうしたんだい? そんなに見つめてくるなんて、やっと私を娶る気にでもなった?」
ミストの決定が絶対であることを知った今なんと答えれば良いか、答えを窮する。しかし、あることに気づく。
あれ? ミストは伯爵だろうに。嫁ぐことは出来ないはずだ。ということは、家督はピアゾン家の誰かに相続し、婿入りさせられるのでは? そしたら、一生ミストの隣にいるってこと?
そう思うと、今までの記憶が蘇って来る。誕生日会では無茶振りさせられたし、寮では勝手に部屋にいたしと思い返せば休まった時がない。
俺はスローライフを目指しているのに、スリルに楽しさを求めるミストといれば望めない。
ただなぁ、そのスリルに楽しさが一欠片もないと言うと嘘になるし、何よりミストは強者だ。
あれこれ考えつつも、もう一度ミストの様子を伺うと意外にも目を丸くしていた。
「そんなに悩んでくれるんだと思ってね」
そのままミストは続ける。
「今まではのらりくらりと躱されてたから、今回もどんな避け方をして来るんだろうと思ってたんだけど」
やばい。やばい。躱してることをバレてた。でも、そんなことより、違和感を抱かせてしまった。
もし、これがきっかけで俺がミストが伯爵だと気づいていることを悟られれば、後々ミストに対する態度がピアゾン家に対する態度だと思われてしまう。そうなれば、今まで以上に動き辛くなる。
ここはなんとか誤魔化さないと!
「ほ、ほら、吊り橋効果という奴だよ! 危機を共にした男女は恋に落ちる可能性が上がるみたいな奴!」
「へえ。聞いたことないなぁ。あんまり、危機感ってやつを感じたことがないからわかんないや」
「ま、まあ、俺は小心者だから危機感を感じやすいから」
俺は取り繕うような言葉を聞いたミストは、チロりと艶めかしく舌舐めずりした後に小悪魔な笑みを浮かべた。
「じゃあ今、クリス君は私に恋心を抱いているってことでいいの?」
ミストの声色は捕食者のそれで、ひいと情けない悲鳴をあげそうになる。しかし、全身に力を入れて息を止め、なんとか悲鳴をせき止め、逃げ出しそうになる足と順番に止めた。
全てを止め終えると、息を止めていたせいで頰に熱を感じるが、いち早く誤魔化そうと話を変える。
「さ、さあ。帰ろう。情報も得たし、早く帰ろう。本当早く帰ろう」
俺は偽らぬ本音を吐き出し、ご機嫌なミストに背を向けた。





