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甲斐雪人のもとに神田隆志から手紙が届いたのは、夏休みも半ばが過ぎた頃だった。盆もちょうど昨日で終わったところである。神田は甲斐がこの純正芹沢学園に転校してきた初日に尋ねてきてくれた友達だ。背が高く、丸いめがねをしていて、人懐っこくにこっと笑い、そのひと目だけで甲斐は彼を信用できた。確か、夏休みを利用して彼は帰郷しているはずである。
純正芹沢学園は小中高の一貫教育が基本となっている。甲斐のように高等部の、しかも途中から転入してくる学生は少ない。というよりも、前例はない、と言っても過言ではない。もちろん中等部、高等部の変わり目には入試があり、そのタイミングでなら全国から優秀な人材が転入する機会があるし、学園としてもその機会を大切にしている。敷居が高く、当然レベルも高い。そのような学園に甲斐が転入することになったのには、さまざまな理由と動機が複雑に絡み合っている。残念ながら、甲斐が意図したところは少ない。
甲斐自身も夏休みの合宿が終わってから一時帰郷していた。もっとも、帰ったところで何もない。そのことを知っているから、甲斐はこうしてすぐに学園に戻ってきたのだ。それなら、この学園に残り図書棟を利用して勉強をしたほうが効率的というものだ。それに、ただ図書棟を利用するだけではない。
図書棟の隠された部屋に篠塚桃花という少女が住んでいる。住んでいるという表現が適当なのか、甲斐にはまだはっきりと分かっていなかったが。夏休みになれば、学生の数が減ってしまう。そうなると図書棟は静かなものだ。きっと寂しい思いをしているのだろうと考え、甲斐は夏休みの間何度も彼女の部屋を訪れていた。今日もこれから図書棟へ行こうとしていたところである。
宿舎のロビーで管理人に呼び止められ、先ほどこの手紙を渡された。ちょうど姿が見えたからだと、五十を過ぎた白衣を着た管理人は言った。甲斐はロビーの入り口近くに置かれている長い椅子に腰かけると、その手紙を見た。
「甲斐雪人様へ」
ボールペンで殴り書いたような字だ。以前の日比野からの手紙と比べるとリアリティがある。封を破り中から手紙を取り出すと、その文章に目を通す。が、字が汚く、読むのに時間がかかる。
要約すれば、夏休み中に甲斐に実家に来て欲しいということのようだ。
まだ盆を過ぎたところ。夏休みの課題もほぼ片付いているし、こうして誘ってくれているのだから、彼の実家に行くのも悪いことではない。が、単純に遊びに、というわけではないらしい。
手紙の最後に住所と電話番号が載っていた。
その手紙の上部を、細い手が掴む。ピンクの花をあしらったネイルアートが見えるすべての指先に施されていて、甲斐はついそれに見入ってしまう。それから思い出したように腕を辿ると、その先には白いキャミソールを着て、もう片方の手に麦藁帽子を持った芹沢雅が立っている。眉の上で切りそろえられた黒いさらさらの髪の下で、同じように真っ黒な瞳が甲斐をまっすぐ見ている。
芹沢雅はこの純正芹沢学園の三年生であり、学園長を勤めている。名字から想像できるように、この学園の創始者の直系、ちょうどひ孫になる。誰もが認めるお嬢様であり、この学園でおそらく首位であろう程頭もよい。
その頭が軽く右に倒れる。
「ごきげんよう」
「ええっと、こんにちは」
芹沢のハープのような声に、甲斐はどもって答えた。芹沢は甲斐から取り上げた手紙を見ると、もう一度反対に首を倒してから甲斐に返した。もしかしたら字が汚くて読めなかったのかもしれない。
「お盆なのに、甲斐くんはここでお勉強ですか?」
「合宿の後で帰ったのだけど。家にいてもやることもないですから」
「そうそう、合宿では本当にご迷惑をおかけして」
「迷惑をかけたのは僕のほうです」
「いいえ、わたくし気にしておりませんわ」
そういって芹沢は口元に手をもってゆき、ふふふと笑った。
合宿というのは、前期のテストの結果などから成績が悪かったものたちを集めて勉強することである。甲斐のクラスでは夢宮さやかが選ばれて、その合宿に参加することになった。甲斐の成績は悪くなかったが、逆に芹沢から教師として参加して欲しいと頼まれて、その合宿に一緒に行くことになった。
そこで、あまり思い出したくないが、殺人事件が起きた。
甲斐はあらゆる状況から考えて、その犯人が芹沢なのではないか、と本人に話した。今考えても恥ずかしい推理だ。それを気にしていないといってくれるなら、甲斐としては心休まるところだが、果たして、本当に気にしていないのだろうか。
ふふふと笑ったときの芹沢の目は、甲斐を睨んでいなかっただろうか。
「それに、この学園の図書棟には僕の読みたい本がたくさんありますから」
話題を変えるように甲斐は言った。
「あらあら。正直なのね。少し妬けてしまいますわ」
「……本にですか?」
「もう、わたくしにそのような駆け引き必要ないですよ」
「夏休みで学生が少ないと、桃花が寂しい思いをしているんじゃないかと思うんですよ」
「あの子の精神はそのようなことに左右されませんわ」
「そうでしょうか?」
「でもね。わたくしも時々あのお部屋に参りますが、最近よく甲斐くんのお話がでるんですよ。いつも読書のじゃまをしに来てー、とか。あいつは暇人なのか、わたしは忙しいのにー、とか。文句ばかりですけど、あんなに楽しそうな彼女、わたくし見たことがありませんもの」
「どうして彼女は……」
芹沢の細い人差し指が甲斐の口に近づく。
「ここでするようなお話ではありません」
「ですが」
「それでも、甲斐くん、桃花もきっとあなたになら秘密をばらしてしまいそうですわ。もうそれも時間の問題かな、と思っています。わたくしが今日ここに来たのも、実はそれに関することで一つお願いがありますの」
「それに関すること、ですか」
「そうですわ」
芹沢はもう一度背筋を伸ばすと、顔を横に傾けてにこりと笑った。この笑顔の後でお願いをされて、果たして断ることなどできるだろうか。
「実は、夏休みの終わりに、わたくしの誕生日会がありますの。甲斐くんにも出席をしていただきたいと思いまして」
「それに、関することですか?」
「説明が不足していますね。関することになるかもしれないこと、です。場所はわたくしの実家の、つまり、この純正芹沢学園内の屋敷で行うのですが、今まで身内の人以外が参加することはありませんでした」
「桃花も参加するのですか?」
「もちろんです」
「日にちはいつですか?」
「参加してくれますか?」
甲斐ははい、と答えることしかできなかった。もう一度芹沢は微笑む。本当に反則なしぐさだ。芹沢は甲斐に日にちを告げると、麦藁帽子を頭に乗せて、ロビーから宿舎を出て行った。しばらく甲斐はそれを見送っていたが、思い出したように神田からの手紙を胸のポケットにしまうと、図書棟に行くために甲斐も宿舎から駆け出した。




