だいじょうぶ
「お茶、ないの?」
目の前に出された、白の陶器に注がれた黒い湖面を見たカグの一言である。
カグは東国出身、ツクシと同郷であるからコーヒーよりもお茶の方が馴染み深い。贅沢を言うわけではないのだが、カグとしては帝都地域に入ってから、どこに行っても出されるこのコーヒーという飲み物にどうしても慣れないのであった。既知であるユウになら、我侭も少しは言えるのだろう。
「カグさん、コーヒー飲めないんですか?」
「いや、そうじゃねーけど……」
「だから大きくならないんですよ」
「え、関係ねーだろ、それ」
悪戯っぽく言うユウに、呆れるように笑うカグ。丁度焼菓子を持ってきたリンが、その言葉に、はっとして、カグの姿を改めて見る。
マントを羽織ってはいるが、その中はツクシの着ていたキモノ……のようではあるが、少し形が違う。上は白のキモノのような服に、下は紺のロングスカートのようなもの。後でユウから聞いたことではあるが、上の服は白衣といって、ツクシの国のミコという人たちが着る服で、下は袴といって、東国では、キモノと同様に愛用されている服らしい。
カグは黒髪のこざっぱりとしたショートカットで、快活な印象を受ける、幼い顔立ち。そして、流石にアイナやリンよりは背は大きいが、ユウと比べると顔一つ分くらい背が違う。小柄で元気な少女、という印象だった。
「私もコーヒーをお願いします」
カグの隣、席を一つ空けてカウンターに座っていたアイナからも注文が入る。その声にリンは思わず振り向いた。
「にがい、よ?」
紅い瞳を大きく見開いて、アイナを心配そうに見つめるリン。
「え? 大丈夫だよ、私いつも飲んでますし」
「えっ」
そんなアイナの言葉にリンは固まってしまっていた。
「はい、どうぞ。アイナ様は大人ですね」
「あ……様付けはやめてください。その、ユウ様に言われるのは本当はくすぐったくて」
「わかりました」
にこやかに頷くユウ。それからふと気付くと、リンがいつの間にか、アイナとカグの間の席に座っている。
「こーひー」
「え?」
そして、リンから発せられた言葉にユウは思わず目を丸くした。
「子供じゃないので、コーヒーを飲みます」
「へ?」
「ユウ、コーヒーを一つ!」
「あー……」
鼻息も荒く、ひとさし指を天高くあげて、高らかに言い放つリン。最近言わなくなってきた「子供じゃない」というリンの台詞。けれど、同い年の子が、まるでユウのようにコーヒーを飲む姿を見て、変な対抗心が芽生えたのだろうか。
「子供じゃないからコーヒーを飲む」と言う魔族の娘を、カグは物珍しそうに見ているし、アイナは何が嬉しいのか、ニコニコとしながらそんなリンを見ている。
「リンリンがコーヒーを飲んでるとこなんて見たことな――」
カグとアイナをカウンターに座らせるために、後ろのテーブル席へと御者と共に追いやられたフーディが言いかけるも、一瞬振り向いたリンの表情に、言葉を失ってしまった。
「それで、リンとキャニの事はわかっていただけたんですね?」
「あ? ああ……悪かった」
気付けば、キャニがユウの足元で震えている。おそらくさっきと同じようなことがあったのだろう、と、リンの脳裏をカグの鋭い剣筋がよぎった。
怯えとか、怖いとか、そういう感情を抱いたのは初めてだったのかもしれない。リンはユウに出されたコーヒーの湖面に映りこんだ自分の顔をみて、今まで自分でも見た事のない表情をしている事に気付いた。
キャニもまた、ユウにすがりつき、ガクガクと震えながらカグを凝視している。
そんな二人の心中を察するでもなく、カグはバツが悪そうに後ろでに頭を掻いて、苦笑いを浮かべていた。
「じゃあ、謝ってくださいね」
「えっ」
このときのユウの顔は、いたずらを叱るときの母のようだった、と後にカグは言う。
子供、ましてや憎むべき魔族に謝る、そんな発想はカグにはなかった。けれど、ユウに逆らえない何かそういうものを感じて、
「ごめん」
改めて、カグはリンに向き直り、頭をふかぶかと下げた。
カグが自分のほうへ向き直った瞬間から、リンは少し体を反らすようにしてはいたが、真面目な顔で謝るカグに、少しずつ、怯えの色は消えていったようだった。
一方キャニはカグが向き直った瞬間に、キャインキャインと犬のような――犬なのだが――声を上げて喫茶店の奥へと逃げてしまった。
リンのカグに対する怯えは消えた、とユウはそう思う。けれど、あの太刀筋に対する怯えは消えていない。リンの次の課題はそこになるだろう。カグ自身への怯えは、こうして打ち解ける事でどうにかなるはずだが、あの殺気や、自分を、まさに殺すために向けられた武器への怯えは、そう簡単に打ち消せるものではないのだ。
おそらく、リンには、カグの太刀筋は見えていたのだろうけれど、それがどういう意図で向けられたのかまで、あの場では思考が追いつかなかっただろう。実際、そういう気を直接ぶつけられたことは、今までなかったから、未だ理解は及んでいない事も考えられる。
けれど、リンが、リンのままで生きていくなら、いずれその意味を知らねばならない。いくら思考が追いついていないにせよ、本能では察している。だからこそ怯えの色が浮かんだのだ。
「にがっ……くないよ!」
そんな事を考えてるユウの前で、リンが突如そんな声をあげた。
目の前に出されたコーヒーカップを、しばらく凝視していたリンは、ある時意を決したようにそれを口へ運ぶ。
ほんのちょっぴりなめる程度を口に含んだ所で出た言葉がそれだった。言葉とは裏腹に、思いきりしかめっ面な上に、舌を出してしまっている。
思わずぺっぺっと吐き出してしまいそうな所作に、カグはぽかんとしているし、アイナは何が楽しいのかニコニコと、満面の笑顔だった。
そんな三者三様に、ユウは目を閉じて微笑む。
――大丈夫
リンが抱いてしまった怯え、自分を殺そうとするものの気、改めて自分は人間とは違う、魔族なのだと、いつしか現実を突きつけられるときが来るだろう。だが、例えそれでリンが悩むことになっても、ユウがいる。アイナがいて、リンを支えてくれる沢山の人々がいる。ここに訪れる皆が、彼女を守り、そしていつしか彼女もまた、人の笑顔を守ることを知るだろう。
だから、大丈夫。
目を開いたユウは、しかめっ面をしているリンを見て、優しく微笑んだ。
「なーに、ユウ」
そんなユウをリンは半眼になって睨んでいるが、ユウはそんなリンの様子ですら、愛しくてたまらない。笑顔はさらに極上のものへとなっていく。
見た事もないそんなユウの笑顔に、カグは呆けてしまい、アイナも、フーディや御者も眉一つ、指一つ動かす事もできなくて、見入ってしまっていた。
唯一リンだけは、口を尖がらせて、そんなユウの笑顔の真意を逡巡するのであった。