その瞳に映るものは
タイミングというものは向こうからやってくる。図るものではなく、図らずもやってくるものだ。
「あー、降って来たなぁ……」
窓にポツポツと水滴が落ちてきては流れていく。ユウがその様子をみてぼやきながら外を眺めていたが、そのぼやきに応えがないかと、視線をすぐ隣の少女に戻す。
けれど応えはない。少女は椅子に浅く腰掛けて、膝の上で拳を握り、口を真一文字に結んで、視線はずっと先を見ていた。
思いつめたような、けれど力強さのある瞳。その黒い瞳が向かう先には雷雲。少女の瞳のように黒い雲は時々まばゆい光で二人を包み込む。
けれど、少女はそれに動じることもなく、ただただ、行く先を見つめているだけであった。
*
その日、小道に訪れたのは、かつて涙と鼻水でカウンターを濡らしながら依頼を懇願してきた失礼な客――アール家の使いであった。
今度も帝都有力貴族である、ノール=アールの使いでやってきたという男は、カウンターに頭を思い切り打ちつけながら、先日の自身の非礼をあらためて詫びて、それから要件を伝える。
それはレッドフォックスの村の隣、グリーンラクーンの村に、現在ノールとアイナが滞在しており、この際に『小道』にも訪れたい、というアポイントメントだった。
ノールは以前にも学校の講師の件で訪れた事があったが、その時は突然の訪問であった。にも拘わらず今回は使いを遣して、アポイントメントを取る。
これには二つの意味がある。
一つは、貴族として正式な訪問である事。
貴族といえば、帝国貴族の他に諸国における貴族階級や、魔族においてもそれに類する地位は存在する。人間における貴族階級というのは単なる上流階級ではなく、各地に領地を持ち、そこでの政治を行うことで、富や名声をもって国に帰属し、国力の一端を担うことだろう。
有事の際には、兵力や兵站の提供・協力も行う。元々は国ための階級である。
自身の治める領地がいかに潤っているか、それはどれだけ国に貢献しているかのバロメータであるから、貴族達は自身を良く見せることで、その力を誇示する。
魔族の場合は、自身の力の有り様を見せ付ける事で、その地位が成り立つ。が、昨今は少し事情は変わってきているようではある。
ともあれ、ノールが公式に貴族として訪問したい、となると、少々厄介なことになる。
ユウは勇者として活動する際に、様々な支援を帝国及び各国から受けている。その際、最初に受け取ったものが、『貴族階級と同等の権限を有する』、というものだ。勇者として活動する際に、煩わしい諸手続きをできるだけ少なくして、自由に動けるようにという計らいからの付与であった。
この権限は勇者の引退宣言と同時に皇帝へと返却している。
つまり、勇者を引退したユウは、勇者ではないし、『貴族と同等の権限』も、勇者という肩書きに付随しているわけで、それも返却してしまったユウは、ただの平民でしかない。
ただの平民を公式訪問する貴族があるだろうか?
慰問でもなんでもなく、前回のようなお忍びであるならまだしも、ただ「遊びに来ました」というわけには行かぬ階級である。
そして訪問を受ける方にも作法などが存在する。
すくなくとも貴族を、しかも帝都でもトップクラスの地位を得ている貴族を、ここ、喫茶店『小道』で受け入れるのは不可能な話なのである。
「お断りします」
「ええっ」
本来であれば、断るという事も失礼にあたるのだけれど、もてなすことができないのは、さらなる非礼にあたるし、貴族としてのノールの評価にも響く。断る方が却って双方に損はない。何より、公式訪問を断られたかといって、ノールはプライドを傷つけられた、などとは思わないだろう、とユウは考えていた。
「でも――」
もう一つの意味。ユウとしてそちらの意は汲みたい、汲まなければいけないと思う。
カウンターでごねる使いの男をよそに、窓の外を見て何か物思いに耽っているリンを見て、ユウは言葉を続けた。
「私から訪問、ということでよろしければ」
その言葉に男はぱっと表情を明るくさせてユウを見つめた。相変わらず涙と鼻水にまみれてはいたが、過程はどうであれ、使いを果たせるという事に安心はしたようだった。
「でっ、では日を改めて――」
「いえ、今から向かいます」
「えっ?」
*
もう一つの意味。
それは事の成り行きから、ノールもまたアイナに起こった事を察していて、アイナと、リンに気を遣ったのだ。親子一緒ならば、ある程度不安は解消されるであろうということも織り込んで。
使いの男と、そのときたまたま訪れたフーディに店番を強引に任せて、ユウは一路グリーンラクーンの村まで飛んだ。
「ええっ、コーヒー飲みに着ただけなのに」とフーディはごねたが、ユウのなんだか真剣な瞳に気圧されて、しぶしぶではあるが承諾をしてくれた。
「最近すれ違いが多い気がしますねえ」
「フーディは間が悪い」
「あら、ま」
飛んでいくユウを見送るフーディの呟きに、間髪入れずリンが突っ込んでいた。
グリーンラクーンの村で、ノールは手厚い接待を受けていた。そこへ空から飛来したユウに一瞬目を丸くするが、そこは驚きをおくびにも出さず、ユウを迎えるノール。
その傍にはアイナの姿もあった。
「ご無沙汰して大変申し訳ございません」
ユウの姿を見るなり、アイナはそう言って貴族式の礼をしてみせる。
そこにはかつて、父の影に隠れながらもたどたどしく挨拶をした少女の姿はなく、凛として、父のような貴族然とした令嬢がいた。
「こちらこそ、ご無沙汰しております。ノール様、アイナ様」
ユウもまた、貴族式の礼を持って返す。内心、アイナの変わり様に驚きながらも、こちらもまた、それをおくびにも出さず。
「使いの者を遣ったはずですが」
「……お気遣い傷み入ります。ですが、私は元のつく勇者であり、貴族としての権限も無い身。公式訪問を受け入れる準備もありませんので、直接お断りの申し出に参りました」
そのユウの言葉に、わずかにではあるが、失望の色をみせるアイナ。
「それは、勇者様にわざわざご足労いただいた事、大変申し訳なく思います。ですがこの度の事は――」
「わかっております。もしよろしければ、旅の途中、お時間がございましたら私のお店にも是非お立ち寄りください」
「なるほど」
ノールとて有力貴族に席をおくもの。ユウの言わんとしていることを察し、拍手をうって、それから、一瞬アイナの方に視線を移してから頷いた。
「わかりました。この度は本当にわざわざありがとうございます。それでは、今からこの子を私の代理として忍び向かわせます。そして、失礼ながらその護衛を勇者様にご依頼したく存じます」
「え?」
一種の伏魔殿である貴族社会を生き抜いてきたノールは、ユウの一枚も二枚も上手なのだ。
「私もスケジュールがおしておりますゆえ、どうか、娘をよろしくお願いいたします」
一礼してみせるノール。貴族、しかも帝都でも有数の権力者である人間に、頭を下げられたのではユウとて無碍には出来ない。
本来であれば、非公式とはいえ貴族の訪問であるから、それなりのもてなしはしなければいけない。以前にノールが突如訪れた時はそんな余裕もなかったし、出せるものも多くは無かった。けれど、今回はあらかじめわかっていたし、アイナの件もあったから、その事をリンに伝え、準備も踏まえて心構えもさせたかった。けれど、ノールはそこをごり押してきた。しかもユウに、断れない状況にしてまで。
ノールはそうやってこれまでやってきた。譲るところは譲り、譲らないところは決して譲らず、相手の逃げ道を塞いでまで事を成す。それが貴族社会で強かに生きていく秘訣の一つでもあるのだろう。
それにしても、何故ノールがここまでごり押しをしてくるのか。
「ユウ様。娘を、どうか、よろしくお願いします」
否応無く引き受ける事になったユウがアイナと共に馬車に乗り込む際、ノールはもう一度深々と頭を下げた。
グリーンラクーンの村人と、ノール、その関係者に見送られて馬車は走り出す。
じっと黙して行き先を見つめる少女アイナ、その姿はどこかリンの姿とだぶって見える。
まもなく小道のある分かれ道に差し掛かろうとするとき、それまで沈黙を続けていた少女はようやく口を開いた。
「ユウ様、私、冒険者になりたいんです」
閃光が二人を包み、続いて雷鳴が轟く。
暗雲が、馬車を飲みこもうとせんばかりに立ち込めていた――




