近くの日常、遠くの友情
『小道』には今日も客がいない。
いつものことだ。
朝早くからユウはコーヒー豆を丁寧に挽いて、その芳しい香りに酔いしれる。
火に掛かったケトルが白い湯気を沸き立たせながら出来上がりを主張し始める頃、その音と、それに続く香りに導かれるように最初にキャニが姿を現し、次いで寝ぼけ眼をこすりながらリンが現れる。
寝ぼけて着替えた所為なのか、乱れている襟元をユウが笑みを浮かべて直してやり、その周りを何事か叫びながらキャニが駆け回る。
そんなキャニを、リンが軽くはたいておとなしくさせていた。
ちょっと恨みがましい目でリンを睨むキャニだったが、目の前に暖かいスープと、パンやソーセージ、目玉焼きが乗っているプレートを出されれば、そんな怒りもどこへやら。待ちきれなかったといわんばかりに一目散にがっついていた。
そんなキャニをユウは笑顔で、リンはジト目で見やりながら、二人で同じく朝食を食べる。
そこでキャニがおかわりを主張。食い意地の張った犬に、リンのチョップが炸裂し、ユウからはおかわりのプレートが差し出される。もはやリン・チョップの痛みなどなかったも同然と言わんばかりに再びがっつくキャニであった。
お腹も膨れて、キャニは店の床に大の字になって既に眠りに入っている。これが人の姿であれば、腹を出して寝ているうら若き乙女としてはあるまじき姿なのだろうが、今は犬の姿なので、むしろ犬然としてて違和感が無い。
一方ユウとリンは仲良く朝食の洗い物だ。
ユウが食器を丁寧に洗い、リンが洗い終わったものを拭いて棚に戻していく。ユウがちらっと振り返ると、後ろで背伸びしつつ食器を棚に戻していくリンの後姿。
少し前までは届かなかった棚に、今は綺麗に食器が並べられているし、手も届かなかった所にもかろうじて届きそうだ。
ふとした瞬間に、リンの成長を感じるこの瞬間が、こんなに嬉しいものなのだと、ユウは自然と綻んで、いやほころびすぎてニヤニヤとしてしまっている。
これをキャニに見られようものならすぐにからかわれてしまうだろう、あるいはフーディでも同じだろう。けれどキャニは寝ているし、フーディはいないから、思う存分ニヤニヤしている。
と、無防備すぎたのか、いつのまにか横から不思議そうな、呆れた様な目でユウを見つめるリンの顔があった。一瞬目が合って、すぐに誤魔化すように鼻歌交じりに食器を片付けるユウに、リンの目は段々と半眼になっていくのであった。
朝の時間が終り、リンがキャニを叩き起こしていつものように三人で食後の運動を兼ねた訓練を始める。
リンは魔力の訓練、キャニは人型と犬型を使い分けての運動。ユウはそんな二人を監督する。
キャニは自由に人型と犬型を使い分けられるようになった。それはこの訓練による成果だ。一方リンは魔力の制御を段階的に分けて会得し、間もなく自力で飛行できるかもしれない。
本来オーガであるリンには雷を起せるほどの魔力があるから、飛行魔法自体も問題なく使えるようになるかもしれない。
そんな風に思ったとき、リンとキャニと三人で大空を自由に飛ぶ想像が膨らんでいく。そしてそれは間近に迫った出来事であることに胸が躍る。
またもにやけてしまうユウ。
そんなユウの綻びを目ざとく見つけたキャニが騒ぎたて、リンがまた半眼になって、そんな二人を見ていた。
昼食はパスタ。
一通り汗をかいた後の昼食は、これまた食が進む。キャニは人型で、ユウとリンを見よう見真似で、しかし器用にパスタをフォークに巻いてかぶりつく。
その様子をリンはむっとした表情で見て、自身もまたフォークをパスタの山に突き刺して回してみるがキャニほど器用に巻けない。眉間にシワを寄せてまでフォークとパスタを見比べているリンに、ユウは笑いを禁じえなかった。
勿論、大声で笑ってしまうなんてことはしない。だって、そんな事をしたら、リンの眉間のシワが余計に深くなって、綺麗な瞳がなくなってしまうといけないから。
少しばかり口の綻びを緩めてニコリと笑うのだ。
にもかかわらずリンは、そんなユウのかすかな表情の差さえ見抜いて、今度は口を尖らせてしまった。
リンは相変わらずパスタを上手に巻けない。
未だ三回に一回程度の成功率で、それが何故なのか理解出来ない。
うまく巻けたら教えてくれるはずだったパスタのレシピも、リンは未だ教えてもらっていない。
自分が納得行くまでは教わらないという。
けれど、ユウとしては、教えたい。教えながら一緒に料理をしたい。
そんな風に思っていても頑として教わろうとしなかったし、そこにきてキャニが器用に巻けてしまうので、余計に意固地になってしまうリンであった。
昼食も終った昼下がりの午後、キャニはまたも陽の当たる店の床にごろんと横になって、根息を立てている。そのキャニの腹を忌々しげにつつくリン。
そんな様子を尻目にユウはカウンターの奥でコーヒー片手に読書。
同じ本を読み返すときもあるし、出先で買ってくることもある。もしくは、ここへ訪れる客がもってきたりもするが、それは時々ユウの好みとは会わなかったりもするけれど、本の入手方法も限られるから、ありがたく読んでいたりする。
自身の好みとは全く合わないものは、読み始めるまで長かったり、読んでいても頭に入ってこなかったりもするが、新しい発見もあったりして、結局楽しんでしまうユウであった。
そんな折、ドアベルが鳴る。客ではない、キャニの腹をつつくのに飽きたリンが不意に外へ出て行ったようだ。
本を読むのを止めて、玄関ドアへ視線を送り、リンの行く先を見守るユウだったが、リンはテラスの仕切りから森を眺めていて、どこかへ行くという様子もなかった。
視線を本に戻そうとしたが、無言で森を見つめるリンに、ユウは一瞬見入ってしまった。
その視線の先には何があるのかはわからない。
けれど何だか真剣に遠くを見つめている。
風が髪を掬い上げて、リンは片手でなびく髪を抑える。
その仕草がなんだか大人びていて、それでいて何だか絵になっていて思わず見とれてしまったのだ。
しばらくの間リンを見つめていたユウが、ふっと目を閉じる。
それからまたしばらくして、今度は膝で開いていた本を閉じて立ち上がった。
ユウの故郷からの帰り道、学園に寄って、にアイナの姿を見た時から、リンは時々今のような表情で遠くを眺める事があった。
ここへ来て一年が過ぎて、リンは色んな出会いと、少しの別れを経験してきた。
初めはカタコトで無表情だったリンが、今では読み書きもできるようになったし、何より色んな表情をみせるようになった。それはきっと出会いと別れを経験したから。
その中でも、やはりアイナとの出会いと別れは、リンにとって特別なものなのだ。
初めての友人、その嬉しさ、そして初めての怒りと悲しみ。
そういう事を知って、リンは確実に成長している。それもユウの予想を遥かに越える速度で。
ユウが冷やしたミルクをもって、リンの傍に立ち、向いている方を同じように見る。リンはちら、とユウの顔を見上げて、けれどすぐに視線を元に戻した。
ユウがテラスの仕切りの上にミルクを置くと、リンがそれを受け取って、それでも視線はブレずに同じ方を見続けている。
ただ無言で、二人は同じ方向を見続けた。
吹いてきた風に小鳥が煽られるように飛び立って、木々を揺らす。
小鳥はそのまま青空へ吸い込まれるように消えていった。
木々は、二人の視線にたじろぐ事はない。
むしろ優しく包むように微かにその葉を揺らしてくれた。
雲達が、形を変えながら、二人の視線に釣られるように流れていく。
その彼方から鳥の声が聞こえた気がした。
「行ってみる?」
何気なく飛び出たユウの言葉。
リンはしばらく無言だったが、やがて小さく頷いた。