それがやってきた日のこと。
「お前はそれでいいのか?」
ゆらゆらと揺れる視界の中で男が語りかけてくる。
知らないはずのその男の顔がどこか懐かしい。
「かまわないさ。けどさ、一体何なんだろうな?俺とかお前とか、何のために――」
「それは俺にもわからないさ。」
自分の言葉を遮って男が笑いながら言う。
晴れ晴れとした笑顔だった。
「さぁ、時間だ。」
男の言葉と共にゆっくりと男が、世界が崩れていく。
ゆらゆら揺れる視界の中で、その揺れに合わせるように、ゆっくりと、音も立てずに世界が崩れていく。
ゆらゆらと…
やがて視界が黒に埋め尽くされても、それでもゆらゆらと…
ゆらゆら…ゆさゆさ…
(ん…?)
そこではたと自分の体が何者かによって揺さぶられている事に気付く。
ゆさゆさと体を揺り動かされて、ユウはゆっくりと目を開ける。
「ああ、リン…」
目を開けると目の前にリンの顔があった。
童顔だけれど整った顔立ちに艶のある長い黒髪。キリリと引き締まった細い眉に大きな紅い瞳。
その大きな瞳をさらに爛々とさせてリンは既に目を開けたユウをまだゆさゆさとさせていた。
「なんだよぅ、リン。まだくらいじゃないかぁ」
昇りかけた朝の陽がかすかに部屋に入り込んでいるだけで、あたりはまだ薄暗くて起きる時間でないことをユウに悟らせた。
けれど、珍しいことにリンがユウより先に目を覚まし、すっかり着替えも終えてユウを揺さぶっている。
「今日はカレーじゃないよ…」
「知ってるよ。」
カレーを作った次の日はリンは早くおきる。
一晩置いたカレーをいち早く食べたくて早くおきるのだが、でも昨日はカレーの日ではなかった。
それなのに何故リンは自分を起こそうとしているのか。
今もゆさゆさと自分の体を揺さぶっている。
上下に肩を揺らしているのを見ると、まるで自分が菓子の生地にでもなったかのようだ。
(このままこねられて型で押されて焼かれてしまうのかもしれない)
無理やり起こされてぼんやりとする頭でユウはそんな事を考える。
絶え間なくリンに揺らされながら、段々と頭が余計にぼんやりとしてくる。
(あ、あれかー)
その中でリンが早起きして自分を起こした理由にようやく思い当たった。
そうしている間もリンの揺さぶりは激しくなっていく。
「ユウ。ユウ?ユーウー?朝だよー?ユウー?」
「まだ暗いよ…」
理由に思い当たったものの、まどろみとリンの起きろ攻撃の狭間で、まだなおまどろみの心地良さが勝る。
リンはそれでもかまわずにユウを揺さぶり続ける。
「あーもう、わかったよぅ。このままだとほんとにお菓子にされちゃう。」
「?」
ユウの言葉にリンは揺さぶっていた手を止めて首をかしげた。
「まだ今日は何も作ってないよ?」
「うん、わかってるよ。」
寝ぼけ眼をこすりながら、もう片方の手でリンの頭を撫でた。
「よし。今日は私が朝御飯作る。」
リンは頭を撫でられながらも、ユウがベッドから起き上がった事を認めて拳を胸元でグッと握り締めた。
「ふぁ…リン、気持ちはわからなくもないけど、あれが来るのはまだ先だよぅ」
小さくあくびをしながらユウが言うものの、既にリンは台所へと駆け出していた。
「あーもう…」
頭を掻きながらユウはベッドから降りた。
朝食を終えて、開店のための仕込を始めたユウとリンだったが、今朝の様子からもわかるように、リンはどことなくそわそわとしていた。
手早くお菓子の仕込を終えると、のんびりとコーヒー豆を挽いているユウの目の前をいったりきたり。
朝の日課にしたがって、冷たい水で顔を洗ったものの、不意に起こされたせいかまだユウの目は眠たそうに半開きだ。
対照的にリンは店や竈を行ったり来たりして、時々ドアが風に揺れると、ばっと振り向いて爛々と期待に満ちた目を向ける。
しかし、そこに誰もいない事を確認すると、小さくため息をついて少ししょんぼりしたりしていた。
「あのさぁ、リン…」
あくびをかみ殺しながら豆を挽いていたユウがそんなリンを見て、最初は放って置こうと思っていたのだが、こうもせわしなくされると流石に少し可哀想になって声をかける。
「なに!?」
ユウの声に、リンが何度か風に揺れたドアに向けたような期待に満ちた目をユウに向けた。
「あー……」
そんなリンの目を見ていると、ちょっと言葉に詰まってしまうユウだった。
「なに?なに?ユウ?」
「まぁまぁ、あんまり慌てなくてもちゃんとくるから…」
「今日だよね!」
「…うん。」
ぱあっと目を輝かせたリンがニカッと笑った。
やれやれといった風に、豆を挽き終わったユウが肩をすくめた。
「もう少し落ち着いて待ってないと、届く頃に眠くなっちゃうよ?」
「子供じゃないよ!」
いつもの台詞だが、リンは凄く嬉しそうだ。
何かを待ち望んでそわそわしている様子はまるで子供だし、どこからどうみても子供なのだが、ユウはそれは言わない事にした。
今日はリンがかねてより欲しがっていたものが届く事になっている。
よっぽど嬉しいのか、何日か前から「まだかまだか」といってそわそわしていたリン。
昨日なんかはなかなか寝付かなくてユウも夜更かしをせざるを得なくなってしまっていた。
そして今朝の有様である。
お菓子も焼き終えて、すっかり開店の準備が整ったところで、リンはユウに出されたミルクを片手に、ドアが見える位置のカウンターを背にするように椅子に座った。。
「?」
さっきまでとは打って変わってそわそわが消えたリンの様子に首をかしげるユウ。
(あ…)
もしやと思って回り込んでみれば、思ったとおりにリンがうとうとと舟をこぎ始めていた。
「んにゅ…ユウ、おこして…」
どうやら最後の力を振り絞ったらしい。
そのまま、カウンターにもたれかかるようにしてリンは夢の世界へと旅立ってしまった。
多分今日の客は、例のものを持ってきてくれる人だけだろう、とユウはカウンターにもたれかかって寝息を立て始めたリンにそっと毛布を掛ける。
さっきまで世話しなく動いていたのが嘘のように静かに寝ているリンにユウは思わず笑みがこぼれた。
「お・こ・さ・ま」
小さく呟いてリンの鼻に指をちょんとあててやる。
「こどもにゃいよ…」
もはや刷り込まれた反応なのだろうか、それとも夢を見ているのか、まるでユウの言葉に反応したかのようにリンがむにゃむにゃしながら寝言をいう。
「ふふ…」
その様がまた可愛くて、ユウは優しい笑みを浮かべてリンを見つめるのであった。
しばらくして――
はっと目を覚ましたリンは跳ねるように椅子から飛び起きた。
「ユウ!!」
店内にユウの姿はない。
きょろきょろと見回して、自分が寝てしまった事にようやく気がついた。
「ユーウー!!」
叫んでみたもののユウの姿はどこにも見つからなかった。
窓の外ではすでに陽が傾いていて、空は青と紅のグラデーションに彩られていた。
綺麗な空の色ではあったが、リンにはそれを楽しむ余裕はなかった。
もしかすると、もう届いてしまったのでは、という一抹の不安がリンの胸をよぎる。
もう夕暮れ時なのだし、それも十分に考えられたが、ユウが起こさないという事もないだろう。
それでもやっぱり…
そんな風に考えていたら段々、寝てしまった自分自身に腹が立って来て、思わずドンッと店の床を思い切り踏みつけてしまう。
と、同時に玄関のドアが開いた。
「あ、起きたんだ?どしたの?」
ドアから入ってきたのはユウだった。床を踏みつけて仁王立ちさながらになっているリンに、ユウは特に驚いた様子もなく首をかしげている。
「あ、ゆ、ユウ。」
自分を腹立たしく思って、思い切り踏みつけた床。
そんなところを見られて、リンは気恥ずかしいやらばつが悪いやらでわずかに顔を赤くさせる。
「ま、いっか、リン、おいでよ。」
そんなリンにユウが優しく微笑んで手招きする。
「え?」
ニコニコとしているユウに導かれるままに外にでたリンが見たのは、店の前に留まった一台の荷馬車だった。
「やぁ、お嬢ちゃん。ひさしぶりだね」
店から出てきて、目の前の荷馬車にキョトンとしているリンに御者台の男が声をかける。
どこかで見たことのある中年の男。
そこにいたのはかつて店を開く時にユウが荷物運送の依頼をした男だった。
その男もまたユウよろしくニコニコ微笑みながら御者台を降りると、荷台の方から大きめの箱を持ち出してきた。
「お待たせいたしました。お届け物ですよ」
よっこいしょ、とそんな掛け声を掛けながら、箱をリンに手渡す。
何故このおじさんがここにいて、この箱は一体なんなのか、と一瞬の間を置いて、次の瞬間にはリンは満面の笑顔になっていた。
「ありがと!」
この箱の中身に思い至ったのだろう。リンは箱をもったまま器用にお辞儀をして、感謝の言葉を男に伝えた。
そしてすぐさま振り向くと、
「ユウ!あけていい?あけていい!?」
満面の笑顔をユウに向けた。
「こーら、お店の中に運んでからね?」
「うん!!」
ユウの言葉に、リンは一も二もなく店の中へと駆け出していってしまった。
「あはは…すみません、せわしなくて。」
「いえ、いえ。あんなに喜んでもらえると、運んできたかいもあるってもんですよ。それより遅くなってすまなかったね。」
「いいえ、タイミングばっちりだったみたいですよ?」
スキップするように駆けて行くリンを見て目を細めて微笑むユウ。
そんなユウの笑顔に男は一瞬目を奪われて――
「そ、そろそろ行きますね。本当に設置はご自分で?」
と、慌てて話を続けた。
「ええ、大丈夫です。あの子も手伝いたいといってましたし。」
「そうですか。それじゃあ明日か明後日か、帰りにまた通りますので何か不都合があればおっしゃってくださいね」
「わかりました、ありがとうございます!」
ユウの笑顔を背に、男は御者台へと登ると、掛け声とともに馬車を発進させた。
「あ、帰りに時間あったらコーヒー飲んでってくださいねー!」
遠ざかる馬車に向けてユウが声をかけると、男も片手をひらひらとさせて応えてくれた。
ユウが店に戻ると、既に箱は開けられていて、リンがうっとりした表情で箱の中身を見つめていた。
リンの背中越しにユウも箱の中をみる。
そこには、金色のドアベルといくつかの部品が納められていた。
ユウの掌に乗るくらいの大きさのドアベルは磨き上げられて店内の光を反射している。
ユウとリンがかつて帝都で立ち寄った喫茶店でリンがいたく気に入ったものと同じようなベルだった。
「鳴らして!鳴らしてみよう!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねながらリンが叫ぶ。
「はいはい、じゃあ…」
ベルの先を慎重につまんで、指でぶら下げるようにもつと、そっと揺らしてみる。
カランカラン……
「おお……」
まさに帝都の喫茶店で聴いた音と瓜二つ。リンは目を丸くしてドアベルの動きと音をしばらく見つめる。
そしてニンマリと笑うと
「もう一回!もっかい!」
とリクエスト。
ユウもそんなリンの笑顔にニッコリ笑顔で答えて、もう一度ベルを鳴らす。
カランカラン……
「おー!」
リンは目を輝かせる。
ベルを鳴らすたびに歓声をあげるリン。
何度かそれを繰り返してから、いよいよ設置の段となる。
ユウの身長は女性の平均身長よりやや高いとはいえ、ドアの上の方にベルを取り付け作業をするとなるとさすがに少し大変だ。
椅子に上がって、ようやく楽に作業ができる高さになる。リンは椅子をしっかりと押さえながらも取り付ける様子を見逃すまいとずっと上を向いている。
じっと見られていると少しやり難いし、部品を落としたりしたときにリンの顔への直撃も怖い。
慎重ながらもなるべく手早く取り付けることにした。
勇者とはいえ日曜大工までマスターしているわけではなかったが、取り付けはなかなかに上手くいった。
あとは客が来るのを待つだけだ、とユウはコーヒーとミルクを入れてカウンターにリンと座って来客を待った。
「ねぇ、ユウ。」
「なに?リン」
「お客来ないよ?」
「そのうちくるよ」
「多分、こないよ?」
「わかんないよ?フーディさんあたりがきちゃったりするかもよ?」
「……」
期待を裏切らない男、フーディ。
今、まさに喫茶店『小道』へ来訪しようとして――急遽お呼び出しがあり、コーヒーはお預けに。
フーディへの期待は裏切られてしまった。
「こないよ、フーディ」
少しの間それぞれの飲み物を口にしながら待ったが、来客はなかった。
間もなく日が沈んでくらくなってしまう。
そうすればもう来客は絶望的だ。
「ユウ!お客さんやって!」
「へ?」
突然リンが立ち上がって、ビシッとユウを指差して言い放つ。
「ええぇ、ここ私の店なのに…」
「やって!」
「はぁ、わかったよ…」
リンの期待に満ちた目を裏切るのもなんだし、どうせなら笑顔をみたいなとも思うから、腑に落ちないと思いつつも、ユウはお客をやることにした。
カランカラン…
涼やかなベルの音と共に木造りのドアが開かれる。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から可愛らしい声がしたが、姿が見えない。
「あれ?リン?」
ユウが呼びかけると、ぴょこぴょことカウンターのへりからリンの顔が現れて、消えて、現れて、消えて…
「いらっ、しゃいっ、ませっ」
「あはは…」
ユウは思わず苦笑いだ。
「じゃあ、コーヒーでも…っと?」
そういいかけたところで、飛び跳ねていたリンがカウンターから出てきてユウのそばに駆け寄ってくる。
「やっぱり私がお客さん!」
「はいはい」
そう言い残してリンは店を出て行く。
カランカランバタン
「ぉー」
ドア越しにまたリンの歓声が聞こえた。
それから、リンは何度も店を出入りして、ベルの音を楽しむ。
もはやお客さんという体でもなくなってきていて、本当にドアを開け閉めするだけになっていた。
ユウはそんな様子をコーヒーを飲みながらニコニコとしてみている。
リンがいたく気に入っている様子をみていると、自分もこんなだったかな、と子供の頃を思い出す。
何か、欲しいものを手に入れたときの反応はこんな感じだったかもしれない、と目を細めてベルを鳴らしまくるリンを優しく見守るのだった。
しばらくして、二人はまた飲み物片手にカウンターに座っていた。
二人ともが見つめているのは真新しい金色のドアベル。
リンは満面の笑みで、ユウは優しい微笑みで、次はいつこのベルが来客を知らせてくれるのだろうかと、心待ちにしている。
ここは喫茶店『小道』
今日から新しいベルが来客を知らせてくれる。
おすすめはコーヒー、涼しげなベルの音色をそえて。