騒乱の匂い
第6話
「…すいません」
差し伸べた手を申し訳なさそうに掴んだセリノを、苦味のある笑みを浮かべたアルトが、一気に引っ張り上げる。
「…まったく、何をしておるんじゃ」
「……すいません」
ファビラの呆れたような声に、立ち上がったセリノは再度、謝りの言葉を口にする。しかし、一頻り笑った四人の顔には自然と笑いが零れており、緊張感のある空気はとっくに霧散していた。
「…というわけでじゃ、南部の家庭料理が作れるということは、今は、あまり外に知られないようにして欲しいということじゃ」
すっかり和んでしまった空気に、いまさら真剣さを帯びるのもバカバカしくなってしまったファビラは、二人に向かって投げやりにそう告げる。
「…「はい」」
一人は不服そうに、もう一人は嬉しそうに返事をするのを満足そうに頷いたファビラは、二人の青年にもう一度、席に座るよう手で促した。
「というのはオマケでの。二人には考えておいて欲しいことがあってのぉ」
先程とは、違う緊張感が場を支配し始める。その雰囲気に、ただ一人そわそわとし始めたセリノを、茶色い瞳が捕らえた。
「セリノや」
「は、はい」
改めて名前を呼ばれたセリノが慌てて姿勢を正す。
「少しだけ触れたのじゃが…、この半島全体に新たな争いの火種が燻り始めておる」
そこで、ファビラは、あえて柔和な雰囲気を作り、笑みを浮かべた。
「そろそろ親御さんと仲直りしてもええんじゃないか」
「………」
事情を知る二人の老人は、視線を落とすセリノに優しい視線を送る。詳しいことを知らされていないアルトもまた、俯く隣の青年を心配そうに見つめていた。
「まぁ、すぐにということではなくての…ただ考えておいて欲しいんじゃ」
俯いたまま、上目を使って様子を窺うセリノに一度、苦笑を浮かべてみせたファビラは、ここからが本題だというように顔つきを少し真剣なものに変える。
「アルトや」
「…なにか?」
隣に座る青年に心配するような視線を向けていたアルトが、名前を呼ばれて不機嫌そうに振り向く。ファビラは、困ったように眉を下げ、頬をぽりぽりと掻いてから表情を真剣なものに戻すと、鋭い視線をアルトへと向けた。
「おぬし、大陸の様子はどうじゃった?」
どうやら本当に真面目な話に切り替わったと感じたアルトは居住まいを正すと、こちらも眼差しを鋭いものへと変える。
「何か賑やかだったというか、私が思っていたよりも騒がしかったように感じましたが?」
「………そうか、やはりのぉ」
腕を組み、何かを考えているファビラから視線を外さずに、質問の意図を考えていたアルトは、ふと最悪の状況に思い至る。
「まさかっ!」
見開かれたアルトの黒い瞳をファビラの茶色い瞳がしっかりと受け止める。
「………その、まさかじゃ」
しばらく、そのまま見つめていたファビラであったが、ふぅっと長い息を吐くと、一人取り残されたようにキョトンとしているセリノへと視線を向ける。
「東からも良からぬ噂が届いておるのじゃよ」
そして、二人から視線を外すと、ファビラは少し遠くを見つめる。
「南だけならともかく、東からも攻められたら、ここカンタブリアも間違いなく戦火に巻き込まれるじゃろうな」
再びセリノへと視線を戻したファビラは、目を細めるようにして微笑むと、ゆっくりと優しく語りかける。
「今この場で決断せよとは言わん。慌てんでよい。ただのぉ……、ここに留まるか、ここを離れるかは、成り行きに任せるんではなくて、セリノ自身でしっかりと考え、決めて欲しいと思うておる」
「………はい」
消え入るような声で答えると、セリノはそのまま俯いてしまうのだった。
「少し時間をください」
「まぁ、まだ時間はあるでの、ゆっくり考えてもらえたらええ」
程なくして、食堂を後にしようとしたファビラとアルトをセリノが見送っていた。
「…ところでの」
「はい」
「ちょっとええかの」
「…はい」
ファビラがセリノと何かひそひそとやり始めたのを横目に見ながら、アルトは先に廊下へと向かった。
「………」
壁に寄りかかって待っていたアルトは、食堂から出てきたファビラへと問い詰めるような視線を送る。しかし、目の前を何事もなかったように通り過ぎていく老人に苛立ちを覚えると、その機嫌良さそうな背中へと声を掛けた。
「で、何をしていたんです?」
「これをもらっておったんじゃ」
振り向くことなく片手を挙げてみせたファビラの手には、セリノから聞き出したのであろう先程の料理にも使われていたスープのレシピが握られていた。
「何をやっているんですか、まったく」
ファビラの後ろを追いながら、溜息交じりにそう零したアルトは、しかしすぐに表情を真剣なものに変えるのだった。
「で…状況はそんなに悪いのですか?」
しかし、先を歩くファビラからの返事はなかった。
「爺さん、聞こえてる――」
再度、声を掛けようとしたアルトの目の前で、立ち止まったファビラが振り返る。
「他の者たちにも、ちゃんと後で考えてほしいのでな」
空き部屋の一つを指差して微笑んだファビラに、苦笑を浮かべたアルトは一つ頷くと、今は使われていないその部屋へと足を踏み入れるのだった。
「ルコンキシュタ………それが東の連中が、この半島を狙う理由じゃ」
扉を閉めたファビラは、ゆっくりと振り向くと、アルトの黒い瞳を受け止める。
カンタブリア伯領から見て東にある大陸西部最高峰の山々が連なるピレネウス山脈のさらに向こうにある大国、大陸の西側沿岸の大部分を領土とする神聖フランク帝国が、今まで見向きもしなかったこのイベラル半島を手中に収めるべく動き始めている。
その理由は、国土の回復。しかし、この半島が歴史上、フランク帝国の領土となったことは一度もなかった。
「どなたの国土を回復なさるので?」
「それなんじゃがのぉ……」
途端に困り切った表情を浮かべ、何かを考えるような素振りを見せるファビラに、アルトは訝しげな視線を送る。
「ところでアルトよ」
「…はい?」
話題を変えられると直感したアルトは、警戒するようにファビラの様子を窺いつつも返事をする。
「かの帝国で代替わりがあったのは知っておるな」
「ええ……、しかし、いえ、だからこそ、なぜこの半島が国土の回復になるのです?」
先代のルートヴィッヒ皇帝がなくなった後、ルートヴィッヒの名を継いだ第一皇子が帝位についたのだが、それに反発した二人の皇子によって、その実、フランク帝国は三つの勢力に分かれていた。そのため、皇子達の覇権争いによる内乱状態と化しており、その争いの影響で西側沿岸地域も騒がしかったのだとアルトは考えていた。
「西側を支配しておるのがシャルルということも知っておるな」
「ええ…まぁ」
「そこでの種族主義についても?」
「はい、この目で見てきましたから…」
ピレネウス山脈に隣接するフランク帝国の西側の実権を握ったのは、第三皇子だったシャルルである。元々、フランク帝国は霊人族主義であり、他の種族は冷遇されていたのであるが、このシャルルが治める領域は、その最たるものであり、霊人族以外の種族は排斥されるほどであった。
「シャルルが敬虔なサーベンダ教徒であることはどうじゃ?」
「それも、まぁ…」
『全ては神が創りしものであり、その末裔である霊人族こそが至高の存在である』という教えを最初に説いた「サー・ベンダー」が誕生した日が、現在の大陸歴の始まりとされており、フランク帝国もまた、その教えに従って繁栄してきたのであるが、その「サー・ベンダー」こそが神の生まれ変わりであり、彼こそが神であると祀っているのがサーベンダ教であった。
シャルル統治下であるフランク帝国の西側は、サーベンダ教を主教としている。霊人族のみが認められた種族であり、他の種族は霊人族を敬うべきであり、従えないのであれば、存在自体認めてはならないというのが当たり前とされているのだ。
「エルクレスの塔」
「………それが何か?」
イベラル半島をフランク帝国が狙う理由が未だに分からず、苛立たしげに首を傾げたアルトに、苦笑を返したファビラは、やれやれと首を振ると、事の成り行きを淡々と語り始めた。
エルクレスの塔と呼ばれる建造物の存在が認識されたのは、もう何百年も前のことである。その当時、ピレネウス山脈を越えてまで半島を訪れる霊人族が少なかったこの半島は、自然が手付かずの状態で残されていた。獣人族をはじめとした自然と共に生きることを是とする種族にとって楽園と呼べる土地であった。
—生命を育む大樹を崇める森人族
—自然が創りし大地に感謝を捧げる土人族
—空気を温め風を生み出す太陽を敬う風人族
—火を恐れ、憧れを抱く獣人族
そんな種族と共に生きたはずである当時の霊人族たちもまた、恵みを与えてくれる何かを敬い、崇め、恐れ、感謝していた。そんな彼らの祈りを捧げる象徴が神という存在であり、その神へ祈りを捧げるために建造されたのがエルクレスの塔であると、この半島に住む一部の者たちには伝承されていた。
「その話は、以前にも聞いたことがありますが?」
はぐらかされているのではないかと思い始めたアルトは、思わず口を挟む。
「ここからが問題なのじゃよ…シャルルは何を、どう聞いたのじゃろうなぁ。霊人族が祀ったものであれば、唯一神であるサー・ベンダーを祀ったものに違いない…とな」
「………は?」
「当時は、象徴でしかなかったかもしれないが、今は神という存在が実際におって、エルクレスの塔が、霊人族が神に祈りを捧げるために造られたものであるならば、種族共存のシンボルのような扱いを受けているのは許せん…と」
「………」
「つまりは、霊人族同士で争う前に、まずはそんな霊人族以外がのさばる領域をまずは奪還するべきだというのが、国土回復ということ…らしいのじゃ」
「バカバカしい」
吐き捨てるようにいうアルトへと一つ頷いたファビラは視線を窓の外へと移す。
「じゃが、黙って攻められるわけにもいかんじゃろうて…」
遠くのほうをぼんやりと見つめているファビラに、東部の状況をこれ以上聞くことができないことを感じ取ったアルトは、もう一方の懸念についても問い掛けることにした。
「南のほうはどうなっているので?」
「この半島で他の種族を対等と認めておるのは、このレオンのみじゃよ」
そういって振り返ったファビラは、なんとも悲しそうな眼をしていたことにアルトは衝撃を受ける。半島の北部に位置しているカンタブリア伯領のことだけを考えるのであれば、南部の戦闘がいくら激化したところで、そこまで大きな影響を受けることもないだろうというのがファビラの見解である。
しかし、東部からも攻め込まれるとなった場合、援軍を南部へ送ることはもちろん、こちらへ援軍を呼ぶことも期待できなくなる。結果として、否応なく半島全体を巻き込んだ大きな戦いになるであろうと、ファビラは、このとき既に予測していたのである。
※セリノとファビラ
「話にあったスープの作り方を教えてくれんかのぉ」
「…どうしてもですか?」
「スープだけしか聞かんから、この通りじゃ」
― レシピ(スープ)
1.チキノン(鶏がら)と水を入れた鍋を強火で加熱し、アクを取り除く。
2.ざく切りにした玉葱、人参、セロリ、ニンニクを鍋に入れたら、もう一度アクをとる。この時、野菜くずも一緒に入れる。
3.ローリエ、タイムを入れたら弱火で2時間くらい煮出す。
4.笊で濾したら、出来上がり。
―
「なんじゃ…分量が載っとらんぞ?」
「これが、限界です」
「むぅ…おぬしもすっかりファーリス側じゃのぉ」
(偽)次章「派閥勃発」
「いやっ、派閥なんてないですよ?!」