料理の事情
第5話
「ところで…このピラフやポトフという料理に使われているスープとやらは、もしかしてパエリアにも使うことができたりするんじゃろうか」
用意された料理は粗方食べ尽くされ、食卓には綺麗になった皿が並んでいる。ニコニコと嬉しそうに食器を片づけ始めるセリノに釣られるように笑顔を浮かべていたファビラは、ふと思い浮かんだ疑問をそのまま零す。
「………なぜ、こちらを?」
好奇心を含んだ茶色い瞳がゆっくりと移動し、アルトを捉える。あからさまに顔を顰めたアルトは、その向けられた視線を引き連れて、手が止まっている料理長へと顔を向ける。困惑気味に青い瞳を二人の間で行ったり来たりさせていたセリノは、軽く笑みを浮かべたアルトへ頷くと、一度、姿勢を正し、ファビラが座る方向へ身体ごと視線を向ける。
「ファビラ様、具材を先に炒めてからスープで炊くのではなく、米を水やサフランといったもので炊き上げた料理をパエリアと呼びますので、本来、パエリアという料理にはスープを使わないんです」
申し訳なさそうに説明するセリノに、気にするなと優しく微笑む。しかし、このときファビラは、内心、領主時代に数回しか食べたことがないパエリアの作り方をセリノが知っていることに動揺していた。
「………パエリアの作り方もカエデ殿に?」
「はい、そうですが…」
いつもと違う様子のファビラに、なんとなく違和感を覚えたセリノが不思議そうに首を傾げる。
パエリアという料理は、半島南部では、それこそ魚介をふんだんに使った有名な家庭料理である。そのため、カンタブリア伯爵領のある半島北部では、未だにどんな料理かですら知っている者が少ない料理であった。そんな料理を、普通に作れるというこの料理長と、その作り方を教えたというカエデに、ファビラは、ただただ驚いていたのである。
「でもですね…」
二人に動揺を悟られまいと必死に平静を装うファビラであったが、セリノが続けて口にした料理の解説に、更なる衝撃を受けるのだった。
「実は、こちらの別邸でお出しするパエリアは、スープを使って作っています。南部のパエリアの作り方も教えていただいたのですが、スープを使って炊き上げる作り方もあることを教えていただきまして、スープがあるときは使うようにしているんです」
次から次へと止め処もなく溢れてくる驚きに、張り付かせているだけで精一杯になっていたファビラの笑顔がついに崩れ始める。
「本日のピラフやポトフにも使っているスープなんですが、牛や鶏と一緒に野菜と香草で煮込んだだけのものなので、スープとしても勿論なのですが、出汁のように、いろいろな料理に使えるんですよ」
「………」
「そして、なんとっ!本日のピラフに使ったスープなんですが、昨晩、カエデ様が直々に、チキノンを使って作ったも――」
「ちょ、ちょっと待て!!」
会話の中に魔獣と呼ばれる魔力を多く持った野生の獣の名前が出てきたところで、ついにファビラの笑顔が剥がれ落ち、驚きの表情に染まる。その顔を見たアルトが慌ててセリノを止めるが…。
「………魔獣を使っておるのか」
ファビラが零した小さな声に、頭を抱え込むアルト。ここへきて話しすぎたことに気づいたセリノの顔が、徐々に青白く変わっていく。
「なぜ、普通の食材もあるのに、魔獣を使っておいでなのですか?」
バルドメロのその声に、すっかり止まってしまった三人の時間が再び動き出す。
「あ、あの、それはっ―バルドメロさんっ、私がやります」
振り返ったセリノは、食後に配膳するはずであったデザートと紅茶を載せたワゴンを押しているバルドメロの姿に、青白い顔をさらに青くさせると慌てて近寄った。
「まぁまぁ、食堂以外では、これくらい私の役目ですから、ね」
そう軽く笑みを浮かべてデザートを並び始めるバルドメロに、セリノは申し訳なさそうに頭を下げると、大急ぎで残りの空になった食器を片付け始めた。しかし、すぐにセリノの手は止まることとなる。
「…して、なぜに魔獣の肉を使っておるのかな」
ピタリと動きを止めたセリノは、掛けられた声とは別の方向へとそっと顔をあげる。組んだ両手に顎を乗せ、咎めるように半目でそれを見ていたアルトであったが、捨てられた子犬が助けを求めるようなセリノの視線に思わず溜息を吐くと、渋々といった様子で頷くのであった。
「カエデ様が仰るには、魔獣を使ったほうが、コクが出るそうなんです。私も味見をして驚きました」
「ほほう…カエデ殿がのぉ」
何か考え込む素振りを見せるファビラに嫌な予感を覚えたアルトであったが、ただそんな気がする程度で何か言うのも憚られ、もうしばらく様子を見ることに決め込んでいた。これ以上、余計な好奇心を出さないで欲しいと願いながら…。
「セリノ殿が作られたのですか?」
「い、いえ………」
しかし、注意しなくてはならない老人がもう一人いたことを、アルトはすっかりと忘れていた。援護射撃とばかりの質問に、諦めきったような表情を浮かべたアルトは、救いを求めるセリノに再度、頷いてみせる。
「昨日、仕入れた材料を整理しているところに、たまたまカエデ様がお通りになられまして…、魔獣があるなら『私が作る』と…、一度お止めしたのですが、あまりにも嬉しそうだったので、お願いしました。まさか次の日にご出産なさるとは思ってもいませんでしたので…」
ぺこりと頭を下げるセリノに、困った表情をしつつもアルトが気にしないようにと笑みを浮かべる。それを見て、少しだけ安堵したセリノがまだ残っていた食器を片付けて、厨房へと下がっていった。
「………ということはじゃ、カエデ殿は、南部のパエリアだけではなく、独自の調理法でパエリアを作ることができるということか」
食器を下げていく青年の姿を見送ると、バルドメロは、ワゴンからデザートを移し始める。先程の二人の微笑ましい光景に自然と笑みを浮かべていた初老であったが、その小さな呟きを耳にして、ハッと何かに気づくと、みるみると表情を渋くさせていった。
「ファビラ様………、それはさすがに…」
「大丈夫じゃ、分かっておる」
二人の老人が何やらひそひそと言葉を交わしているのを見て、何か不穏なものを感じたアルトが今までの会話を思い返し始める。それに気づいたバルドメロは何か言い掛けるのだが、視線だけでファビラに止められてしまい、渋面を浮かべたまま無言でデザートと紅茶を並べていった。
「バルドメロ様、申し訳ないです………、どうかなさいましたか?」
そこへ小走りに戻ってきたセリノは、もうすでにデザートと紅茶が並べられている食卓を目にして詫びを口にしながら、バルドメロへ視線を移したところで、その浮かべている表情に気づく。
「これ、バルドメロ。そんな顔しとらんで座らんか」
不機嫌そうな執事長へ呆れ混じりに声を掛けたファビラは、困惑しているセリノにも声を掛ける。
「セリノもせっかくじゃから座ってくれんかの」
「は、はい…って、私の分まで?!」
驚くセリノに、バルドメロが漸く笑みを見せる。
「あ、ありがとうございます」
御礼を言ってから席に着いたセリノを確認すると、ファビラが表情を真剣なものに変える。それだけで食卓の空気が少しヒンヤリとした気がして、セリノは隣に座るアルトの様子を窺うのだが、彼は未だ物思いに耽っていた。
「こやつは、少しほっといてええぞ。おそらく自分で気づくじゃろうからな」
いつものふざけた調子ではないその声音に、セリノは居住まいを正そうとするが、目の前の執事長は、相変わらず不機嫌そうに渋面を浮かべており、隣の青年もまた考え事に夢中になっているのが視界に入ってしまい、なんとも気合が入らないのであった。
「さて、確認じゃが…、セリノも今は同じような料理を作れるようになっておるんじゃな?」
「…はい、カエデ様ほどではありませんが」
「そうか、そうか」
再び思考の渦に取り込まれるファビラに、セリノが困ったように首を傾げる。一人にされてどうしていいか分からないセリノが何か喋らなくてはと焦り始めたその時、隣の青年が重苦しい声とともに考え事から戻ってきた。
「…芳しくない状況になっているということですか?」
その問いを受けたファビラは、ぎろりと視線をアルトへ向けると、ただ黙って頷いた。その隣に座るバルドメロ表情が、ますます苦いものに変わっていく。
「………そうですか」
寂しげに言葉を零したアルトに、耐えられなくなったバルドメロが、つい声を掛ける。
「出て行くことはないですよ」
悔しそうに、そんなことをいう執事長に、気遣わしげに笑みを送るアルトであったが、そんな状況に耐えられなくなった人物がもう一人いた。
「あ、あの…私にも分かるように説明してもらえません…か」
しかし、すぐに三人の視線を集めたセリノの声は、尻窄みに小さくなってしまう。そのまま下を向いてしまった青年に、ファビラが優しく語りかけた。
「状況が変わりつつある南部で親しまれている家庭料理の代表のパエリアを、この北部で作ることが出来るということが、どういうことになるか分かるかのぉ」
一人の青年を待つように、しばらくの間、静かな時間が食堂に流れる。
「………状況がって、出て行くって………、まさかっ!」
―ガタンッ
小さく独り言を零していたセリノであったが、漸く何が起こっているかに気づくと、机に覆い被さる勢いで身を乗り出した。
「まぁの…少し前までとは、ちと状況が変わっておってのぉ」
北部と南部の紛争が続いているとはいえ、このカンタブリア伯領があるイベリア半島は比較的平和であった。しかし、現領主の父であり、息子に地位を譲ったとはいえ、未だに国の重鎮とされているファビラには、この数ヶ月で変わりつつある情勢を敏感に感じ取ることは容易だった。
「…そうだったのですか」
真剣だった表情を崩し、少し困ったようなファビラを前に、自分の想像が正しかったのだと裏付けられてしまったセリノは、机に手をついたまま肩を落とす。しかし、次の瞬間、また何かに気づき、今度はファビラに掴みかからん勢いで前のめりに訴える。
「しかしっ、カエデ様はっ――」
「―大丈夫だ、セリノ。少し落ち着こうか」
いつの間にか立ち上がっていたアルトが、セリノの肩をぽんぽんと軽く叩く。それでも興奮冷めやらない様子のセリノは、そのままアルトへも食って掛かるのだった。
「なんでっ、なんでアルトは何も言わないん、です…か」
しかし、アルトの悲しそうな表情に、セリノの興奮もすぐに冷めると、その場に項垂れてしまう。そんな二人の様子を見ていた執事長が、現役時代を思い起こさせるほどの鋭い睨みをファビラへと向ける。さすがに、悪戯が過ぎたと思ったファビラは、弱ったようにこめかみの辺りを軽く掻いてから、組んだ両手を机に乗せて二人へと声を掛けた。
「何を勝手に話を進めておるんじゃ」
溜息交じりの声に二人の青年が振り向く。
「出て行けなんて言うわけないじゃろうが、まったく」
その言葉に、隣で睨んでいたバルドメロが一番驚いた表情を浮かべた。
「………わしをなんじゃと思っておるじゃ、お前らは」
はぁっと長い溜息を吐いたファビラに、三人の顔にも笑顔が戻り始める。
「南だけでなく、東のほうも騒がしくなってきておるでの…、そこで、アルトに少し相談があるんじゃが…」
そう言って、ファビラは立ち上がっている二人に腰掛けるように、手で促す。ホッと胸を撫で下ろすセリノに、優しげな笑みを浮かべてアルトが腰を下ろした瞬間・・・
「うわぁぁぁ」
絶叫とともにセリノの姿が机の下へと消えたのだった。