御対面
第3話
「「………」」
ノックもなくゆっくりと開かれていく扉に、出産という一大イベントを終えたばかりで弛緩したはずの室内の緊張感は、再度、最高潮に達する。
騒がしかった先程までの空気は一変し、不自然なほどの静けさに、赤児の泣き声だけが響く。そんな張り詰めた空気の中で、カエデだけはニヤリと悪そうに笑うと、ベッドに横になったままの姿勢で床に向かって手を翳したのだった。
「…そういうことかい」
その様子に気づいた年嵩の治癒師は、扉の前にいる人物が誰かを察する。周りの空気を読んだのか、静かな寝息を立て始めた赤児を抱いていたその治癒師が零したその小さな呟きに、カエデはニコリと笑顔で頷くと、床に向けて翳した右手に魔力を籠め始めた。
「っ!おやめくださいっ、カエデ様!!」
自分たちの背後から突如感じた魔力に振返ってみれば、出産時にかなりの魔力を消費しているはずのカエデが、魔力を放出している。周囲の者たちは気づいて、慌てて止めようとするのだが、全員で止めるわけにもいかず、扉の警戒を解くことなく一部の者が慌ててカエデの側へと身体を寄せる。
しかし、その努力も空しく、青みがかった魔術陣がその傍らで浮かびあがると、扉に向かって氷の道がゆっくりと伸びていくのだった。何の前触れもなく、すでに魔術が行使されていることに驚いた者たちが顔をあげたその先では、カエデが、とても楽しそうに笑っていた。
その表情に、皆が漸く扉から入ってくる人物に気づく。
「(よろしくね)」
声を出さずに、口だけを動かして微笑むカエデに、気が抜けたような呆れ交じりの苦笑を浮かべていた彼女たちであったが、少女の悪戯の意図を正確に理解したというように、笑みを浮かべて頷き返す。気合を入れ直した彼女たちは、お互いに顔を見合わせると、開き始めた扉を楽しそうに中から押し戻しに掛かるのだった。
「―くっ!?」
ゆっくりゆっくりと慎重に押し開いていたはずの扉が急に重くなるのを感じたアルトの口から声が漏れる。
「なっ…!!」
徐々に押し戻され始めたアルトは焦りと混乱から、ただ力任せに押し開くことだけに懸命になっていく。そして、すぐに勢いよく押し戻されなかったことに疑問を感じるくらいの余裕すらなくしてしまった彼がとった行動は、取っ手から一度手を離し、少し扉から距離から離れるというものだった。
「—ていっ!」
この頃になると、呆れ交じりの表情を浮かべ始めた邸宅の使用人たちが見守るなか、アルトは助走をつけて扉に向かって飛び込んでいく。しかし、次の瞬間、今まさに彼が押し開こうとしていた扉が一気に開け放たれるのだった。
「うおっ!うわぁぁぁ―」
何が起こったか分からないままに、アルトは条件反射で体勢を整えようと床に手をつく。ところが、氷の道が敷かれた床は、部屋に飛び込んだ彼の勢いを削ぐことなく、氷の道の終点にあるカエデが横たわるベッドへと彼を誘うのだった。
—ガツンッ
静寂に包まれた室内に、鈍い衝突音が響き渡る。
「うぅぅ…!」
シンと静まり返った空気を破るように、アルトが呻き声を漏らす。両手で頭を擦りながら顔をあげた彼の困惑したその黒い瞳が、楽しそうな笑みを浮かべたカエデの紫の輝く瞳と交わる。
「………ぷっ、ふふふ」
―オンギャァァァ
一瞬、止まってしまったかのようなその時間は、堪え切れずに零れたかわいらしい笑い声とともに動きだす。釣られるように泣き出した赤児の声に続き、次々と湧き上がった笑い声は、室内だけでは止まらず、廊下で行く末を見守っていた使用人たちにも伝わっていくと、その場に居合わせた全ての者が笑顔を浮かべるのだった。
「なんとも、騒がしい登場だねぇ」
しゃがれた呆れ雑じりの声がアルトの頭上から降ってくる。しかし、何が起こったかを未だに把握できていない彼は、笑い声に包まれたまま、キョロキョロと辺りを見回していた。そんな彼の混乱は、悪戯っぽい笑みを浮かべた藍色の瞳の持ち主が、かわいく舌を少しだけ出す姿を目にするまで続くのだった。
「なにをやっとるんじゃ!もうちょい右だと言うとるだろうに」
緊迫した空気が霧散した部屋では、極度の緊張感から開放された治癒師たちがへなへなと床に座り込み、代わって部屋を出入りする使用人たちがきびきびと働いていた。そんな中、年嵩の治癒師に指示されながら、産まれたばかりの赤児が寝るためのベッドを設置していたのは、アルトだった。
「…これ、嵌らないんですが」
「………」
まずは、迷惑を掛けたから休んでいて欲しいというアルトに、この場の責任者である年嵩の治癒師が同意したことで、床に寛ぐ治癒師たちという構図ができあがり、次に、母親がしんどい思いをして産んだのだから、我が子が寝るベッドの用意くらいは父親の手でしたいと赤児のベッドを運んできた使用人に頭を下げ、半ば強引にアルトは仕事を譲り受けていた。
「………早くしてくれんかのぉ」
「も、申し訳ない」
「アルト様がんばれぇ」
客人とはいえ領主から屋敷の全権限を譲り受けている主とも言うべき者が、本来使用人がするような仕事をしているだけでなく、その姿を笑いながら寛いでいる治癒師という、本来あってはならない光景が、室内では出来上がっていた。
「なんじゃ、楽しそうじゃのぉ」
突如、部屋の入り口から掛けられたその一声に、和やかだった空気はピシリと凍りついた。瞬時に立ち上がった治癒師たちは、顔色を青白くしたまま、開きっぱなしとなっていた扉へと恐る恐る視線を向ける。作業をしていた使用人たちは、一度動きを止めると、出入りのために開けたままにしておいた扉へと頭を下げた。
「そんな畏まらんでくれんかのぉ」
暖色系の明るい衣装を着こなした貴族然とした白髪の老人が、困ったような笑みを浮かべてゆっくりと姿を現す。好々爺然とした温和な表情で部屋を見回したファビラは、他の者が動きを止める中、まるで気づいていないかのように動く二つの影へと視線を向けるのだった。
「まぁ、こんなもんでよいじゃろう」
「…やっと終わったぁ」
アルトは、小さなベッドに満足そうに頷くと、床へ腰を下ろし天井を仰ぐ。そのアルトへとゆっくりと近づく老人の視線の先を追うように、部屋中の視線がアルトへと集まっていく。
レオン王国が誇る海軍の中核を担い、その重要な港であるサンタンデルに領都を置くカンタブリア伯爵領は、北は海に、反対側の南側は、高い山々が聳え立つ領地の名を冠したカンタブリア山脈に囲まれた要衝として知られている。
しかも、その山脈を南西方向に越えると、そこはもう王国直轄地というおまけまで付いてくるほどの場所であった。長きに渡り他国の脅威から王国を守り抜いてきた、そんな重要な拠点を治めてきた者が、温厚なだけであるはずもなく、近しい者たちは、その併せ持つ厳しさを身に染みて知っているのだった。
「っと、これはこれは、ファビラ様、失礼いたしました」
そんな人物に覗き込まれても大した動揺もせず、さも今気づいたかのような素振りで立ち上がるアルト。そんな彼の態度に、その様子を伺っていた老人の茶色い瞳に剣呑な輝きが宿る。
「バルドメロが慌てていたんじゃが…、はて、心当たりはあるかのぉ」
別邸の執事長を任されている初老の名前を耳にした途端、ここに乗り込んだときのことを思い出したアルトは、そっと視線を逸らす。
「ハハハ…どうしてでしょ―」
できるだけ平静を装うアルトは、乾いた笑いとともにファビラへ顔を向けるが、射るような視線に慌てるように眼を泳がせた。
「あんまり若い者を苛めるんじゃないよ」
綺麗なおくるみに赤児を包み、小さいベッドへ寝かせた年嵩の治癒師が仕方なさそうに声を掛ける。その声に、威圧的な雰囲気を解くと、鋭く突き刺さるような視線を柔和なものに変えたファビラが、「ちょっとした冗談じゃ」と言ってカラカラと笑い出す。硬直したまま様子を伺っていた者たちは、ホッと息を吐くと、それぞれの仕事に戻るべく動き始めるのだった。
「いつもは、冷静なお主がのぉ。人の話も聞かずに走り出すとはのぉ」
「……お騒がせして、申し訳ありませんでした」
機嫌良さそうに笑うファビラに、アルトは改めて謝罪をする。
「それにしても、随分と酷い恰好だのぉ」
頭を下げたまま、なかなか上げようとしないアルトの姿を見ていたファビラの口から、ふと心の声が零れた。しかし、それほど大きくはなかったその老人の声は、穏やかな静けさを取り戻していた空間を再び笑いに染める引き金となるのだった。
「………」
頭を上げようとして、ピタリと止まったアルトは、今までの状況を思い浮かべつつ、そのまま自分の姿を確認する。
岬で風に煽られ、魔術によって強化された体で全力疾走し、緊張で噴き出した汗に塗れ、氷の道を滑って――。そうして一つ一つ振り返り、今の自分の姿をまじまじと確認したアルトの、気恥ずかしそうな表情を浮かべて顔を上げるその姿は、皆の和やかな笑いを誘うのだった。
「まぁ、そんなことはいいから、顔くらい見ておやり」
今まで赤児の世話をしていた治癒師が口調とは裏腹に笑みを浮かべると、髪の毛をくしゃくしゃと握り、申し訳なさそうにしている青年に声を掛ける。その言葉で、我が子の顔をまだまともに見ていなかったことに気づいたアルトは、ハッとして年嵩の治癒師へと顔を向けた。
「は、はい」
途端にかつてないほどの緊張に襲われたアルトは、乱れてしまっている服を慌てて払い、裾を引っ張って皺を伸ばすと、今度は髪を手櫛で整え、大きく息を吸い深呼吸をする。チラッと妻であるカエデに視線を送ると、にこりと笑顔で促される。
一つ、何かを覚悟するように頷いた彼は、スヤスヤと気持ちよさそうに寝ている我が子の許へとゆっくりと歩を進める。
「そんなに緊張してどうするんじゃ、まったく…」
年嵩の治癒師の言葉に、周りで見守る者たちが苦笑を浮かべている。そんな言葉も届かないのか、じぃっと小さなベッドを見つめていたアルトが、恐る恐るといった様子で、その小さなベッドを覗き込む。
おくるみに包まれ、幸せそうに眠っている産まれたばかりの我が子の姿に、変な力が抜けていく。自然と笑顔を零したアルトは、そのまま、少しだけ屈み顔を近づけると、そっと我が子へと声を掛けるのだった。
「元気に生まれてきてくれてありがとう」
大陸暦1031年1月21日の寒さが厳しい朝に誕生したひとつの小さな命に、未だ平和なレオン王国カンタブリア領の領主別邸は、喜びに沸いていた。