プシュケーラ
第6話
「今日はプシュケーラですね」
休みを翌日に控えた昼下がり、今日何度目かの母乳をアオイに与えていたカエデに、替えのオムツを持って来たメイドが声を掛ける。しかし、不思議そうに首を傾げるカエデに、あれ?と少し動作を止めて考えていたそのメイドは、何かに気づいたように「あっ」と声を出すと、にっこりと微笑んだ。
「この半島に言い伝わる伝統というか、風習というかそういうものなんです」
「そうなんですかぁ」
「そうなんですっ」
カエデの相槌に、とても嬉しそうに返事をしたメイドは、そのままウキウキと、アオイがいつも寝ている小さなベッドのシーツを交換し始める。見るからに心を躍らせているメイドに、どんな風習なのかとカエデは徐々に気になり始める。
「あの、よかったらどんな風習か教えてもらっても?」
「もちろんです」
そう言ってカエデに近づいてきたメイドは、少しだけキョロキョロと周りを見回すと、何故か小さい声で囁くように伝える。
「愛の告白の日なんですよ」
キャッといって顔を赤くして一人照れるメイドに、何のことだかさっぱり分からずカエデは、またコテンと首を傾げるのだが、肝心なそのメイドは、すでに自分の世界に浸ってしまっている。せめて少しでも疑問を解消したいカエデであったが、楽しそうに笑うそのメイドの姿に、少しこのままにしておいてもいいかとも思うのだった。
「厨房借りてもいいかな」
一方その頃、朝から珍しく外出していたアルトが屋敷に戻って早々に、晩御飯の仕込みを始めていたセリノの下を訪れていた。市場で購入した大量の小鰯を両脇に抱えて顔を覗かせたアルトに、手を止めたセリノは、厨房の入り口まで出迎えにいく。
「どうしたの?それ」
「いや…今日はプシュケーラだと聞いて…ね」
「お~、よくぞ御存知で」
「街で小耳に挟んだんだけど…借りてもいいかな」
「そういうことなら喜んで」
片手を厨房の中へと差し出して、セリノが笑顔を浮かべる。灰色の髪の毛をくしゃくしゃっと握ったアルトは、「おじゃまします」と照れ臭そうに頭を下げてから、さっそく調理台に新鮮な小鰯を並べるのだった。
「おつまみかな?」
「いや、プシュケーラの贈り物?」
「プシュケーラで小鰯?」
セリノの頭の中が疑問で埋まっていく。端整な顔を顰めて難題を紐解いている彼の横では、アルトが大きな樽から、取り出した大きな器へ水を注いでいた。
「カエデは母乳だから…ね」
青い魔術陣を徐々に淡い色へと変化させながらアルトが出したヒントに、しばらくウンウンと唸っていたセリノは、ガバッと顔をあげるとニコッと笑う。辿りついた答えに自信があるのか、魔術陣の代わりに現れた氷を小刀の柄で砕いているアルトに、少し誇らしげに胸を張ったセリノが確認をする。
「お酒を使った料理!」
「正解」
氷を砕き終わったアルトは、指を突き出すセリノと同じように、セリノを指差した。少しの間、笑い合ってから、アルトは、鰯の頭に小刀を入れ、そのまま内臓を引き摺りだす作業へと移る。
「そういえば、お昼は食べた?」
「いや…食べ損なった」
「それじゃ、軽く何か作ろうか?」
「そいつは助かる」
ニコリと嬉しそうに笑顔を浮かべたセリノが、準備を始める。アルトは、その間も鰯から内臓を取り出している。
「ポルムの燻製と胡椒が手に入ったから、パスタにしようか」
鍋を取り出しながらのその提案に、同じように鍋を取りに来たアルトは笑顔を返す。
「シェリー酒はどこにある?」
「シェリーを使うんだ?」
疑問で返しながらも、すぐに瓶を探してくれているセリノに、アルトがそういえばと疑問をぶつける。
「そういえば、なんで、プシュケーラに酒を贈る―」
危うく手に取った瓶を落としそうになるセリノ。思わずジト目を向ける彼に、アルトは髪の毛をくしゃくしゃと握って、申し訳なさそうに言う。
「いや…なんかそういうもんだということしか聞けなかったから」
アルトが本当に何も知らないことが分かると、はぁぁっと盛大な溜息を零すセリノは、シェリー酒の入った瓶を差し出して、少し真面目な顔をする。
「プシュケーラは、男性が女性に告白する日なんだよ」
「ほぉ」
シェリー酒の入った瓶を受け取りながらアルトは頷いて先を促した。
「そのときの贈り物っていうのが、お酒なんだよ」
「…そか」
もうすでに作業に戻り、火に掛けた鍋でニンニクを炒めているアルトの生返事に、セリノは再び呆れたような溜息を零した。
「それが何故か知りたいんだろ?」
「あ~、そうだった、ごめんごめん」
一度鍋から目を離し、ぺこりと頭を下げるアルトに肩を竦めて見せたセリノは、そこまで真面目に語ることでもないかと思い直し、水を張った鍋を火に掛けると、そのまま会話を続けることにする。
「まぁいいや…それで、なんでそうなったかっていうと、昔の神話が由来なんだ」
「ほぇ~」
しかし、背後からのなんともいえないアルトの返事に、また肩を落とすことになるのだった。
その頃、カエデはというと、ようやく話が進み始め、プシュケーラが告白の風習であることを知る。さすがに女性同士というべきか、そこから徐々に二人の会話は、盛り上がりを見せることとなる。
「その神話って長いんです?」
「カエデ様、聞きたいのですか?」
「うん」
花が咲くような笑顔を向けられては断れないメイドであった。カエデの腕の中で眠ってしまったアオイを受け取ると、そぉっと小さなベッドに移す。その間にカエデはベッドの側にある丸い椅子を自分の横に準備すると、振り返ったメイドに「どうぞ」と腰掛けるように促す。ここに長時間コースの完成であった。
「それでは、お聞かせいたせましょう」
満更でもないメイドは、コホンと一つ咳払いをしてから、昔から伝わる神話を語り始めるのだった―
遠い遠い遥か昔のこと、それはそれは美しい霊人族の娘がおりました。その美しい娘は噂となり、性別も種族も関係なく、多くの人に慕われるようになっていきました。
ある日のことです。そのあまりの美しさに人々の敬意を集め始めてしまった娘に“美を司る神”が、嫉妬をしてしまいます。そして、あろうことか息子である“愛を司る神”に嫌がらせを命じるのです。悪戯好きの彼でしたので、喜んでそれを受けるのですが、その途中で彼自らが傷ついてしまいました。その時に側にいた美しい娘は、嫌がらせをされていたのも忘れて、彼を助けます。そのことに感動した彼は、こうして助けてくれた美しい娘に恋をしてしまうのです。
その美しい娘には姉妹がおりました。日頃から比較され、持て囃されるその娘のことを良く思っていませんでした。そこへある噂が届きます。それは、神が霊人族に恋をしたという噂でした。その姉妹は思います。あの娘と似た容姿である私たちならば、出し抜けるかもしれないと。あわよくば、自分たちが神と結ばれるのではないかと。
ある夕暮れのこと、姉妹は暗くなる前に屋敷の明かりを点けるようにと美しい娘に命令をします。渡された蝋燭に細工が施されているかもしれないなどという疑問は何一つ持たなかった娘は、何の疑いもなくその蝋燭を受け取ると、言われたとおりに明かりを灯すため、屋敷の階段を上り始めるのでした。
その時でした。フッと階段の上から“愛を司る神”が現れたのです。その気配に気づいた娘は、蝋燭から目を離して、彼を見上げます。手にしている蝋燭が真ん中から折れるようにゆっくりと倒れ始めていることに気づかずに…。
しかし、“愛を司る神”は気づいてしまいます。娘を助けるために慌てて近寄るのですが、身を挺して娘を庇った彼は、なんと大火傷を負ってしまうのでした。
これに怒ったのが彼の母である“美を司る神”でした。件の噂だけでも許せなかった彼女の怒りは、美しい娘を捕らえてきた者には、自らの接吻を褒美に与えるという褒賞を掲げるほどでした。その話を人伝に知った美しい娘は、恐ろしくなって逃げ出すのですが、しかし相手が神ということで、誰も手を差し伸べてはくれませんでした。最終的に諦めた娘は、自ら出頭するのでした。“美を司る神”は、捕らえた娘に自ら折檻するのですが、それだけでは腹の虫が収まらない彼女は、その後も次々と無理難題を押し付けるのでした。
一方、傷が癒えた“愛を司る神”は、母の行動を知ることになります。すぐに娘を助けに駆けつけた彼の眼に飛び込んできたのは、押し付けられた無理難題をどうにか乗り越えようとする健気な娘の姿でした。心を打たれた“愛を司る神”は、神の酒を取りに帰ると、すぐに戻って彼女の前に現れました。傷ついた身体を癒す飲み物だと言って、その酒を飲ませた彼は、そのまま彼女に求婚するのでした。
しかし、美しい娘は、身分違いを恐れて断ります。そこで、彼は、傷を癒した飲み物は、神の酒であったこと。その酒を飲んだということは、神々の仲間になったことなのだと伝えるのでした。それを知った美しい娘は、それならばと涙を流し、喜んで結婚することを引き受けたのでした。
「―この“愛を司る神”の妻の名がプシュケなのです。そして、神の酒を飲んだとされる日が2月第3週の休前日。この神話が基になって、プシュケーラの日には、男性から女性へ酒を送るのが習慣になったそうです」
話し終えて満足そうにメイドがふぅっと息を零す。そんな彼女に「ありがとうございます」とカエデは頭を下げるのだった。
曇っていた空がだいぶ晴れてきた夕方の少し前、階下にある厨房でも、神話の全貌がアルトへと伝えられていた。
「だから、酒なんだ」
そう言って、厨房の椅子に腰掛けているアルトが、パスタを突く。この二人、結局、器用に料理をしながら神話トークをしていたのだった。
「今では求婚っていうのは廃れちゃったけどね」
ははは、と笑うセリノが、じぃっと見つめる視線に気づき、そっと視線を逸らす。
「セリノは、誰かにあげないの?」
「ん~、どうだろう」
何かを隠すように、セリノは、ガタっと音を立てて椅子から立ち上がると、慌てるように夕飯の準備を再開する。一人になってしまったアルトは、遅すぎる昼食を再開するのだった。
所変わって二階の一室では―
「カエデ様はいいですよねぇ、旦那様がもういますから」
ガールズトークが盛り上がっていた。
「ギジェルミーナさんは―」
「皆、ミーナって呼ぶのでミーナでいいですよ」
「それなら、私も様はやめてね」
「はい」
楽しそうな話し声の中、アオイはスヤスヤと気持ち良さそうに眠っている。
「改めて、ミーナはそういう人いないの?」
「ん~、どうかなぁ」
小首を傾げて、心当たりを探していたミーナは、パッと顔を上げる。
「でも、男性から来るのを待つ身としては、貰えたらとりあえず嬉しいですね」
かわいらしくはにかんで見せるミーナであったが、カエデはその答えでは納得しなかった。
「それじゃ、質問を変えて、贈って欲しいなって人はいないの?」
「えっ」
途端に頬を染めてあからさまに動揺するミーナ。
「やっぱり、いるわよねぇ」
「えっ、えっ?!」
「言っちゃえっ」
「っ!!」
顔を赤く染めたミーナは、下を向いてモゴモゴと何かを自問自答し始める。それをかわいいなぁと、カエデは眺めていると、急にガバッと顔を上げたミーナが少し前のめりに詰め寄ってきた。
「カエデさんっ!男の人ってどうしたらいいんですかっ」
「……………え?」
「あっ、そのっ、いえ…」
シューッとまるで湯気でも出ているかのようなミーナの真っ赤な顔に、苛めすぎたかと反省するカエデ。
「…少しだけ相談に乗りましょうか?」
「お願いしますっ」
スヤスヤと眠るアオイには、まだまだ早すぎるカエデの恋愛講座が開始されるのであった。
※セリノとアルト
「今日はプシュケーラだね」
「そうらしいねぇ」
「はい、これプレゼント」
― レシピ(パスタ)
1.乾燥パスタを茹でる。
2.溶き卵、削ったチーズ(粉チーズ)、胡椒を混ぜておく。
3.フライパンでバターを溶かし、ポルムの燻製を軽く炒める。
4.火を止めたら、茹でたパスタを加える。
5.牛乳とスープ(「昼下がり」のレシピ参照)を加えて、もう一度火に掛けたら軽く煮立たせる。
6.煮立ったら[2]で作ったものを加えて、さっと混ぜ合わせて火を止める。
7.お皿に盛ったら、出来上がり。
―
「…あり、がとう?」
「いつも教えてもらってばかりだからね」
「…そんなの気にしてたのか」
「そりゃ…気にするよ」
(偽)次回「ついに発覚!」
「いや…うん、じゃあ、ありがたくもらっておくよ」
「やった!あれ?ギジェルミーナさんどうしたの?」
「…え?」
「いなくなっちゃった」
「ちょっと待てぇぇぇ!」




