奥様の依頼
第1話
「ちっちゃいなぁ」
月が変わり、少し暖かくなってきた陽射しに微睡む息子の小さな手をツンツンと突きながら、アルトが独り言のように零す。少しだけモゴモゴしている口が気になり近づけた指を吸う我が子にほっこりしていたが、それが指だと気づいたのか赤児は泣き出した。
「…暇なんですか」
ジト目を向けるカエデに、遅かれ早かれ泣いていたと言いたい気持ちをグッと仕舞い込んだアルトであったが、余計なことをしたのかもしれないと思い直すと申し訳なさそうに髪の毛をくしゃくしゃっと握る。母親が抱いただけでは泣き止まない様子に、ご飯の時間だと察すると、すごすごと部屋を出て行こうとした。
「あっ、ちょっと待ってて」
レオン王国があるイベラル半島の国々だけでなく、母国のヒルベニア連合など、大陸内外のほとんどの国で、4日に一回の休みがある。5日で一週間を6回繰り返して1ヶ月とするのが、ほぼ万国共通の暦である。
アオイが産まれてから二週間、ファーリス一家は比較的穏やかな毎日を過ごしていた。
「随分暖かくなったなぁ」
開いた窓から吹き込む風は、昼もだいぶ過ぎた夕方前のこの時間になると、生暖かくさえ感じる。今朝届いたという手紙をさっと読み流すと、胸のポケットへ差し込み、ふぅっと息を零す。
「川を下るばかりでは、知らぬ楽しさに気づかない。休日ばかりも、また同じ…か」
何事もなかったかのように木製の手摺りに腕を置いたアルトは、自分の名前を呼ぶ鈴のような声音に気づくまで、淡い緑が溶け込み始めた遠くの海をぼんやりと眺めていた。
「―ルト、アルトぉ」
漸く振り向いたアルトに、扉を開けて廊下を覗くカエデは、怒っていますという感情を体現するように頬を膨らませた。
「もう、何度も呼んでるのにっ」
「あ~、ごめん」
灰色の髪をくしゃくしゃと握る見慣れた青年のその仕草に、「しょうがないな」と一言だけ零したカエデは、すぐに笑顔を浮かべると、部屋へ入るよう促すのだった。
「ちょっと、ここで待っててね」
アルトが部屋に入ってくるのを確認したカエデは、ベッドの横に置いてある椅子をバンバンと叩くと、彼がその椅子に座る前に何かを探し始める。
「お腹いっぱいになったかぁ?」
すぐに放置されたアルトはというと、指示された椅子には座らず、側にある小さなベッドへと向かう。天井をじぃっと見つめて、もどかしそうに手足を動かす息子の姿に、思わず目を細める。
「もうっ」
探し物を見つけたカエデは、そんな青年の姿に不満を零すが、自然と浮かんでくる笑みを堪えきれず、嬉しそうに顔を綻ばせる。
「ん?」
そっと隣に並んだカエデの視線にアルトが気づく。
「どう、かな?」
カエデは少しはにかむと、大切そうに両手で支えるようにして、土でできたかわいらしいアクセサリーを差し出した。十字の形をしたそのアクセサリーは風車のようにも見え、羽根にあたる部分には小さな絵が描かれていた。
「お、ついにできたんだ」
嬉しそうにアルトが笑うのを見て、ホッとしたようにカエデが小さくかわいい吐息を漏らす。先程までの不安と期待を綯い交ぜにしたような表情から一転、明るい笑顔に染まった彼女に、アルトは少しだけ不安になった。
「こうして、ね…ここを見て」
アクセサリーを斜めにして、小さな絵が描かれている場所をカエデが指差した。そこは、小指の爪くらいの大きさの魔石であればセットできるくらいの窪みになっており、子供の好きな物語に出てくる水の精霊ウンディーネの鎮座する姿がデフォルメされて描かれていた。
「凝ってるなぁ」
「でしょ?」
嬉しそうに笑うカエデに促されるまま、視線を動かしてみれば、風車であれば羽根に当たる他の部分にもそれぞれかわいらしい絵が描かれており、右回りに土の精霊ノーム、風の精霊シルフ、そして火の精霊サラマンダーが鎮座していた。
精霊物語に出てくる四精霊である。
「四精霊か」
「うんっ」
同じように羽根が十字に交差した真ん中にも窪みが作られており、そこには精霊ではなく、葉を生い茂らせた立派な樹木が描かれていた。
「…なんで、ここだけ?」
「…」
微妙な表情で視線を逸らすカエデに、思ったことをそのままアルトが伝えようとする。
「ここには、木の精霊ドリュア―」
「そ、そんなの見られたら長老が怒りそうだからっ…ね」
「あ~…ありえる」
慌てて言葉を遮り、困ったような顔をするカエデに、納得顔をしたアルトがうんうんと頷く。顔を見合わせて、見つめ合う二人。
「ふふふふ」
「ぷ…ははははは」
昼というには、まだ早く、朝というにはもう遅くなってしまったそんな静かな時間に、楽しそうな二人の笑い声が、屋敷の廊下に零れ出す。
一頻り笑った後も弾む二人の会話の中心は、土でできた小さな可愛らしいアクセサリーだった。刻まれた精霊の完成度に引き気味のアルトが、デフォルメの素晴らしさを語るカエデに呆れてみたり、十字の先の部分が少しだけ曲線を描いているのことを褒められたカエデが先端を尖らせないようにバランスを取るのが難しいと熱く語ってみたりと、遅い朝の穏やかな時間を仲良く楽しむのだった。
「…もう、このまま鍛冶屋さん持っていってみ―」
話の流れから、あまりの完成度の高さに、ちゃんとした専門家に作ってもらったらいいと、つい本音を言い掛けたアルトは、突然、襲われた殺気に思わず口を噤む。
「っ!!」
「…?」
急に扉の先を気にし始めたアルトの様子を見て、不思議そうに首を傾げていたカエデであったが、ふいに本題を思い出す。目の前で瞳をうるうるさせ始めた小動物が、とても殺気を発しているようには見えず、既にその殺気も感じなくなっており、気のせいかなとアルトが首を傾げていると、カエデがずいっと顔を近づけた。
「アルトが作ってくれるんじゃないの?」
アクセサリーと一緒に手を拝むように握られてしまい、潤んだ紫の瞳で見上げられたアルトは、一度だけ無駄な抵抗を試みる。
「せ、せっかくだ―」
またもや、ぶわっと吹き抜ける殺気に思わず怯んだアルトに、今にも泣きそうなカエデの顔が迫ってくると、さすがに無碍には断ることができなくなってしまう。
「…シ、シルバーでいいのかな」
言質をとったカエデは、その瞬間、捨てられた子犬のような顔を一変させると、まるで嘘だったかのように、ニパッと花が咲き誇ったような笑顔を浮かべた。
「ありがとうっ、大好き!」
そう言って頬に軽くキスをして抱きつくカエデに、頬をぽりぽりと掻いたアルトは、満更でもない顔で「ま、やるか」と呟く。
「ちょろいのぉ」
しかし、扉越しに漏れてきた聞いたことのある小さな声にピクリと顔を引き攣らせたアルトは、しばらく、一つしかない部屋の入り口をじぃっと見つめていた。
―コンコンコンッ
「アルトはおるか―っ」
扉から顔を出したファビラは、氷のような冷たい眼差しに、一瞬身体を固まらせる。
「なんちう顔で待ち構えとるんじゃ」
しかし、顔を赤らめて恥ずかしそうにしているカエデの姿に、はぁっと溜息を吐くと、未だ扉を睨みつけているアルトへと、ぶつぶつ文句を言いながら部屋へと足を踏み入れるのだった。
「ビビアナの婆様はひどく御機嫌で気味が悪いし…まったく、何をしていたんじゃ、おぬしらは…」
そこで、漸く殺気を発した犯人に思いついたアルトは、苦笑いを浮かべると、がっくりと肩を落とす。力の緩んだ手から、するりとアクセサリーが零れ落ちる。
「あっ!」
それに気づいたカエデが、慌てて差し出した手のひらにその小さな土のアクセサリーがポンと着地する。ホッとしたカエデは、顔を上げてアルトへと抗議しようとしたところへしわくちゃな手が差し伸べられた。
「随分と凝ったもんじゃのぉ」
二週間も前から二人の女性によって練りに練られたアクセサリーを手に、感心しているとも呆れているとも言えない微妙な感想を零したファビラは、しかし、にやりとした笑みを浮かべて顔を上げる。
「…して、誰が作ることになったのかのぉ」
ふぉっふぉっふぉと楽しそうに笑うファビラは、ふいに悪い笑みを浮かべるアルトに笑顔が固まる。
「ビビアナの婆様の機嫌はなんだったんじゃ…いや、しかし…」
そのまま思考の渦に落ちいていくファビラの姿に、嬉しそうに答えを伝えようとしていて勢いを削がれたカエデは、おずおずとアルトの袖を引く。
「ファビラ様、どうしたの?」
「さぁ?………くっ」
本気で不思議そうに首を傾げてヒソヒソと耳打ちしてくるカエデに、邪悪な笑みを隠して返事をしたアルトであったが、苦しそうに何かを堪え………きれずに噴き出してしまう。それが何を意味しているのか、さすがに気づいたファビラは、顔を紅く染め上げる。
「おぬしっ、よくも―」
「だいじょうぶです!」
そんな二人に困惑しきっていたカエデは、何を勘違いしたのか満面の笑みを浮かべると、声を荒げようとするファビラとアルトの間に身を滑らせた。そのことに、今度は二人が何事かと注目をしていると…
「アルトが作ってくれるんですよ!」
その余りにも嬉しそうな笑顔に、はじめはキョトンとしていた二人であったが、すぐに腹を抱えて笑い始める。未だに何も把握できていない一人を残して…。
「…もう、二人とも、ひどいです」
ふぅふぅっと息を整えたアルトに説明を受けたカエデが頬を膨らませている。
「わしは、悪くないじゃろう」
困った表情を浮かべ、自己弁護を始めたファビラを冷たい視線が襲う。
「…ファビラ様は、分かっていらしたのですよね?」
「い、いや、それはじゃな…」
助けを求めて、視線を彷徨わせた先には今にも噴出しそうなアルトの姿があった。
「………アルトォ」
容姿からは想像がつかないほどの低い声で名前を呼ばれたアルトは、びくっと背筋を伸ばしたまま固まる。騎士の手本になるのではないかというほどの直立不動の体勢である。
「ま、まぁ、その辺にしてじゃなぁ」
助け舟を出したファビラを、キッと睨みつけたカエデであったが、しゅんとしている二人の姿に、呆れたような長い溜息を吐くと、いつもの笑顔を取り戻す。
「それで、ファビラ様はどうしたので?」
その笑顔に、ホッと短く息を零してから、ファビラは改めてアルトへと視線を向ける。
「そやつに伝えたはずなんじゃがのぉ」
その言葉で向けられたカエデの嫌な笑顔に、慌てて首を横に振ったアルトは、抗議するような視線をファビラに向けて、胸にしまってあった手紙を取り出す。
「まさか、これのことじゃないだろうな、爺さん」
「おう、それじゃそれじゃ」
しかし、恨みがましい視線を送られても、気にも留めずに笑顔で頷くファビラと、嫌な笑顔を浮かべたまま笑っていない視線を送ってくるカエデに、がっくりと肩を落とす。
「今朝届いて、さっき見たばかりなんですが…」
「え?」
項垂れたままのアルトが手紙をひらひらさせると、俄かにカエデが慌てだす。
「しかし、見たんじゃろうて」
ふぉっふぉっふぉと笑うファビラに、何か言う気力も失せたアルトは、何かを吐き出すように、はぁっと長い溜息をつくのだった。




