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夜明けの記録  作者: 梁井 祝詞
第1章 はじまりの一日
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爺の思い

第10話


「…これで、よかったんかのぉ」


 街を赤く染め始めた夕日の暖かい陽射しが、白亜の御殿を照らす。未だ帰らず、窓からその景色を切なげに眺めていたファビラは、誰にとでもなく一人言葉を零す。


「エミディオ様は、間に合いませんでしたな」


 そっと後ろから背中越しに声を掛けてくる旧友に、顔を向けることなく窓の外の夕日を見つめたまま「そうじゃのぉ」と答えるファビラの背中は、いつになく気落ちしているように見えた。


「…お話になられたのですね」


 ワゴンの傍らに立ったバルドメロは、そんなファビラの様子を窺いながら、新しく用意した紅茶をカップへと注いでゆく。


「できれば…、もう少し、のんびりとさせてやりたかったんじゃがなぁ」


 ゆっくりと振り返ったファビラは、とうに冷めてしまった紅茶をぐいっと飲み干すと、「残されたままでも良かったですのに」と苦笑するバルドメロへとカップを手渡す。


「…彼の助けが必要なのでしょう?」


ファビラからカップを受け取ったバルドメロは、そう投げ掛けて、代わりに新しく注いだばかりの紅茶が入ったカップを差し出した。


「まぁのぉ」


 それを受け取ったファビラは、軽く頭を下げると、覇気のない笑みを見せてから、再び窓の外へと視線を移す。


「2年前のウェルスのヒベルニア侵攻は、もちろん知っておるな」

「ええ…存じております」


 静かに流れる空気を崩さぬように紡がれた穏やかな口調の問いに、バルドメロもまた、ゆったりと言葉を返す。


「…なぜ、あやつばかりが悲しい想いを背負わねばならんのじゃろうなぁ」


おそらく、他の者の前では絶対に見せることがない気落ちしたファビラの姿に、やれやれと首を振ったバルドメロは、そっとその背中に語り掛ける。


「そう思われるなら、そっとしておいてあげればよかったのでは?」


 バルドメロの言葉に、ファビラの肩がぴくりと反応する。そのまま何も言葉を返さないファビラに、苦笑するバルドメロ。嘗ての主従である二人の老人は、暫くの間、沈んでいく夕日をぼんやりと言葉を交わすことなく眺めていた。




「あやつはのぉ、聡いんじゃよ。良い意味でも悪い意味でも…」


日が沈みかけ、灯を点していない応接室が暗く染まり始めると、ゆっくりと振り向いたファビラは、漸く言葉を返した。


「…それは、存じておりますが」


 しかし、バルドメロが浮かべる不思議そうな表情に、「わかっとらんなぁ」と軽く首を横に振って見せてから、言い聞かせるように言葉を続けた。


「伝えなかったところで、遅かれ早かれ気づかれてしまうのじゃよ」


 ますます、疑問が膨らんでいくバルドメロの瞳は、「その時ではダメだったのですか」と言外に訴える。しかし、それを汲み取ったファビラは、肩を竦めると弱弱しい笑みを浮かべるのだった。


「あやつはのぉ…、わしらが気づかれたと思った時には、既に動いておるんじゃよ」


 合点がいったとバルドメロが小さく首を縦に振る。


「…であれば、共有しておいたうえで、できる限り負担を減らしてやろうかと思うてのぉ」

「そこまで、お考えでしたか」


 軽く目を見開くバルドメロに、「まぁのぉ」と小さく呟いたファビラの表情が、そこで悲しそうな笑みに染まり始める。


「いくらわしらが許すと言っても、自分を責め続けるだろうからの」


 差し出されたカップを受け取ったバルドメロは、「そうですか」という呟きを返すことしかできなかった。


「さて…そろそろ戻るとするかの」


 少しの間、俯いたまま食器を弄っていたバルドメロは、ふいに掛けられたファビラの明るい声にハッと顔を上げる。


「私も、夜の準備に入りませんと」


 そんなファビラに頷いたバルドメロは、弱々しい笑みを取り戻すと、ファビラの外套を用意してから、応接室の扉の前へと移動した。


「…7度目の赤と黄色が混じる暗闇の時」


 扉の前まで来たファビラへ外套を手渡して、扉を開けようとしたバルドメロは、突然掛けられた声に、思わず振り返る。


「アルトが再び、この地を訪れた理由じゃ」


 真剣な眼差しを送るファビラに、思わずごくりとバルドメロの喉が鳴る。


「おそらくな」


 そう言って笑うファビラの顔は、いつもの悪戯爺さんに戻っていた。




「親父っ!!」


 翌日、サンタンデル城に割り振られている自身の執務室で、溜まっている書類に筆を走らせていたファビラは、突然開け放たれた扉に、ちらっとだけ視線を向けると何事もなかったかのように再び手を動かし始めた。


「報告くらいくれてもいいだろう!」


 ずかずかと足音を立てて机に近づいてくる青年に、これ見よがしに、はぁっと大きく溜息を零すと、筆を置き、顔を上げる。


「母子ともに健康じゃよ」


その答えに、目の前の青年の怒りは静まるどころか、さらに顔を赤くしてファビラに詰め寄るのだった。


「それは既に他の者から聞いている!男の赤ん坊だっていうこともっ」


 バンバンと机を叩く青年に、じぃっと視線を向けてから、再びはぁっと大きな息を吐いて見せる。しかし、再び顔を上げたファビラの目に飛び込んできた青年の真剣な眼差しに、思わず息を呑むのだった。


「…アルの様子はどうだった?」


 ゆっくりと吐き出された青年の問いに、一瞬だけ言葉を詰まらせたファビラであったが、なぜだか、ふいに込み上げてきた笑いを我慢できずにぷっと噴き出した。


「…ふっ、ふぁっはっはっ」


 突然笑い出したファビラに、今度は目の前の青年が呆気に取られた様子で言葉を失う。


「すまんのぉ、ふぉっふぉっふぉ」


 謝りながらも、まだ笑っているファビラに、毒気を抜かれたのか、青年の表情に心配そうなものが浮かび上がる。


「親父、大丈夫か?」

「いや、すまんのぉ」


 一頻り笑い、ふぅふぅっと息を整えたファビラは、目の前の青年に、昨日、白亜の御殿の食堂でアルトと交わした会話の内容を伝えるのだった。


「…それじゃ、アルは、知っているんだな」

「すまんのぉ」


 話が終わると、急に何かを考え始めた青年に、ファビラが真っ白な髭を撫でながら、言葉だけの反省を伝える。そんなファビラに、じっとりとした視線を送ってから、青年は首を横に振った。


「ま、遅かれ早かれ…か」


 その言葉に、彼もアルトのことを理解している一人だったと改めてファビラは思う。


「まぁ、隠れて暴走されるよりかは、知っててもらったほうがいいか」


 にやりと笑う青年に、ついファビラも笑みを零す。


「で、この先、どうしようと思っているんだ。親父は?」

「そうじゃのぉ…」


 先程までの怒りの表情は全く消えており、まるで子供のようにファビラの言葉を待つ青年に、内心「ちょろすぎるだろ」と新たな不安と、「自分でも考えんかっ」という苛立ちを感じつつも、少しだけ手助けしてやることにする。


「仕事でもしてもらおうかと思うておる」


 ファビラはそういうと、アルトに力を貸してほしいと伝えたことを青年へと告げる。話が進むにつれて青年の目が輝き出すことに、徐々に「しまった」という思いがファビラの心に浮かび始める。


「それ、俺が考えてもいいかな?」


 キラキラと目を輝かせ、あまりにも乗り気な青年に、不安しかないファビラであったが、この青年なりにアルトのことを考えていることも知っているため、ここは任せることにした。


「まぁ、構わんが…」


 渋々といった様子のファビラに、何かを感じ取った青年は、少しだけ真剣さを含んだ瞳でファビラへと向ける。


「親父は、あいつに遠慮しすぎだ」


 その言葉に、ファビラがハッと目を見開く。


「確かに、何か負い目を感じているのは分かっているし、何かお願いすれば、アルのことだから、なんだかんだ言って引き受けるだろう」


 青年の言葉に熱が帯びていく。釣られるようにファビラの瞳にも、つい力が籠る。


「許すとか、許さないとか…親父もアルも拘りすぎなんだよ」


 そこで、はぁっと息を吐き出す青年の姿に、もう一端の領主じゃなぁとファビラは密かに成長を感じていた。


「アルももう父親になったんだ」


 そういって少し遠くを見つめる青年。


「…あの時さ、泣いて謝るあいつに、何も言ってやれなかった」


 悲しみが青年の瞳に滲む。ファビラは、そんな青年をじっと見つめている。


「一番辛かったはずなのに、あいつが一番謝ってたんだ」


 そういって何かを訴えるように青年がファビラへと視線を戻す。


「何で守ってくれなかったんだって、約束したじゃないかって、正直思ったよ…」


 ファビラは何も言わず、真剣な眼差しだけを返す。


「でも、あの時、あいつのお陰で、みんな救われたんだって、後で気がついたんだ」


 そう訴える瞳は、悲しみと後悔に染まっている。


「アルだけは、誰も責めることができなかったんだって…自分のことを責めることしかできなかったんだって、気づいた」


 言葉を切った青年は、一度だけ下を向くと、無理やり笑みを浮かべて顔を上げる。


「だから、俺は…、アルを救ってやるとか、そんなことは言えないけど…」


 揺るぎない決意の籠った視線を、ファビラは逃げることなく受け止める。


「俺だけは、昔のままでいようと思う」


 その言葉に、ファビラは「わかった」と小さく呟く。途端に、照れ臭くなったのか顔を背けて「まぁ、その」とボソボソと口籠る息子に、頼もしさを感じるとともに、自分が思うよりも立派になってしまったことに少しだけ寂しさを感じるファビラであった。




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