プロローグ
Prologue
「君のような前途ある若者一人に託すことしかできないとは、なんと不甲斐ない―」
「先生っ！」
透き通った少女の声が静かな森の中に響き渡る。
「……」
まるで懺悔でもするかのように言葉を紡いでいた老人は、悲痛な表情に染めた顔をゆっくりと上げる。種族の特徴である長く尖った耳は力なく垂れ下がり、今にも泣きだしそうなその老人に、困ったような笑みを少女は浮かべるのだった。
「もう時間、ありませんよ？」
出会った頃と変わらないその優しい声音に、老人は、これまでのことを思い出す。同時に、老い先短い自分ではなく、目の前で微笑む若い少女に最も危険なことを任せることしかできないこの状況に、己の不甲斐なさを再び感じると、悔しそうに唇を噛み締めた。
「君は…私たちに出会ってしまったことを後悔していないのか」
頭では理解していても、感情は別である。もう自分たちにできることは、少女を見送ることしか残されていない。困ったように首を横に振るその少女に、顔を見ることができず俯いた年嵩の男は、先程までの懺悔の続きを始めるのだった。
「わしは…わしはのぉ、こうして、こういう状況になって、君を見つけてしまったことを…、出会ってしまったことを、後―」
「先生っ！！」
「…」
先程より強い、それ以上は言わせないといった語調で、言葉を遮った少女は、肩を落としたまま、しょんぼりとする男の姿に、はぁ、と小さく溜息を零す。
「もう、行きますね」
その言葉に、縋るように顔を上げた年嵩の男の目に、少女の笑顔が映りこむ。呆れたような口調とは裏腹に、慈しむようなその微笑を目にした男の頬に、一筋の涙が伝う。
「……申し訳ない」
震える声でやっとそれだけ伝えた年嵩の男は、何かを我慢するかのように顔を顰めて、深く頭を下げる。
「礼っ！」
後ろに控えていた集団の中から一歩前に出た青年の涙混じりの声が、静かな森に染み亘る。年齢も性別も種族でさえもバラバラの一団が、その声を合図に、まるで軍隊のように一糸乱れず一斉に深く頭を下げる様子に驚いた少女であったが、優しく微笑むと彼女もまた一礼を返す。
ゆっくりと顔を上げた少女は、まだ頭を下げたままのその集団を見渡すと、一瞬だけ寂しそうな表情を浮かべる。しかし、すぐさま優しい笑顔を取り戻した彼女は、一つ頷くと号令を掛けた青年に歩み寄った。
「皆さんをお願いします」
声を掛けられた青年が顔を上げる。涙で濡れた顔を拭おうともせず、必死に歯を食いしばり、真剣な眼差しを彼女に返す。
「…お任せくださ、い」
震える声を絞り出し、睨みつけるように毅然と前を向いた彼に優しく微笑んだ少女は、再度一礼すると、皆に背を向けて歩き出す。頭を下げたまま顔を上げることができず項垂れてしまう者もいるなかで、せめて見えなくなるまでは見送ろうと年嵩の男を含めた数人が顔をあげた。
「わしは…、わしらはなぜもっと早く―」
少女の華奢な後姿に、己の無力さを改めて痛感し、つい漏れた年嵩の男の呟きは、そっと横に並んだ青年の声に掻き消された。
「移動、しましょう。彼女の邪魔にだけは…」
小さくなっていくその姿を名残惜しそうに見送りながらも、青年の言葉に頷いた年嵩の男は、もし再会が叶うのならば、後悔なぞしていないのだと、会えてよかったと、その時はちゃんと伝えようと心の中で誓う。
だからこそ、今は彼女の気持ちを無駄にしないためにも、彼女が自分たちを気にして力が発揮できないなんてことがないよう、今はこの場所を離れようと己を奮い立たせ、皆に声を掛けるべく、小さくなっていく少女に背を向ける。
「私はっ！皆に出会えたことっ！感謝してますっ！！」
背後から響いてきた透き通った声に慌てて振り返ると、もう随分と小さくなってしまった少女が、大きく背を伸ばして手を振っている。残された者たちが、その声に気づいたことがわかると、誰もが惹きつけられるような笑顔を浮かべ、ぺこりと御辞儀をする。
「わしもじゃっ！…わしもじゃ……後悔などと言って………すまんかった」
弾ける様な声が、みるみると萎んでいくと、年嵩の男が泣き崩れる。
「俺もっ！」
「わたしもですっ！」「俺たちも！！」
「「必ずっ！戻ってきて…ください」」
皆が涙を流しながら嗚咽交じりに、少女へと必死に言葉を返す。
「また会おうぞっ」
やっとの思いでもう一度顔を上げた年嵩の男は、無理やりに笑顔を張り付けて、怒鳴るように声を振り絞る。少女は一つ頷くと、未だ仄暗い森の中へと消えていった。
空が白みを帯び始めた頃、獣道のような細い道を抜けた少女の目の前に、突然、木々が薙ぎ払われた空間が現れる。不自然に土が剥き出しになった広場の中央には、酷く争った形跡が残されていた。
「……ここね」
綺麗に丸く削られた、大人の男性の掌ほどの大きさはある石が陽光を浴びて、淡く黄色く輝いている。
円を描くように均等に置かれたその12個の石は、まるでその一部を零すかのように、ほんのりと色をつけた細い黄煙を真っ直ぐに上空へと燻らせていた。
「これは…重労働ね」
げんなりとした表情を浮かべた少女は、既に昇り始めた太陽で明るさを増していく空に一度視線を向けると、目を瞑り深呼吸をする。
「やりましょうか」
再び目を開けると、先程までとはまるで違うぴりぴりとした雰囲気を纏った少女は、左の腕に巻きつけた鎖状のブレスレットに右手を重ねた。彼女が目を閉じたその刹那、ゆらゆらと逆立ち始めた綺麗な茶色い髪の毛に呼応するかのように、ブレスレットに埋め込まれた赤い石が光を纏う。
暫くの間、そうしていた彼女は、小さく息を吐き、右手をそっとブレスレットから離す。紅い光を纏ったままのブレスレットを確認した少女は、ホッと安堵の表情を浮かべたると、空に視線を送った。
「間に合う…のかな…」
不安そうな表情を浮かべ空を見つめる少女。
「何を辛気臭い顔をしてるんだか」
突然、背後から聞こえてきた声に、ハッと息を呑む。ゆっくりと振り返った先にある黒い瞳と目が合うと、嬉しそうに顔を綻ばせた。しかし、それは一瞬のことで、笑顔はそのままに、視線を睨みつけるような鋭いものに変えた少女は、一音一音はっきりとした低い声で問うのだった。
「どうして、あなたが、ここに、いるの、かしら？」
見るからに怒りの表情を浮かべる少女に、灰色の髪をくしゃくしゃっと握った少年は、眉尻を下げて困ったように笑った。
「あれ？喜んでもらえると思ったんだけど…」
「っ！！こんな危険な状況で喜べるわけがないでしょっ」
笑顔すらも取り払った彼女は、押さえつけていたものを吐き出すかのように、大きな声で怒鳴りつける。
「素直じゃないなぁ」
しかし、別の方向から聞こえてきた鈴の音のような声に、少女の表情が強張る。ギギギと軋む音が聞こえてきそうなほど、ゆっくりと振り向いた少女の視線の先では、黒い髪の少女が口に手をあててクスクスと笑っていた。
「なんで…、あんたまで……」
そのまま固まってしまった少女に、どこまでも軽い調子の少年が言う。
「まぁ、今から戻っても十分な距離まで離れられないだろ？」
ケラケラと笑う少年を睨みつけていた少女は、確かにその通りだと思うのと同時に、それならば尚更、何故ここにいるのだと、さらに怒りを募らせた。
「せっかく、私が残って…」
「まぁ、だからさ、自己犠牲もいいんだけど、みんなで生き残らなきゃな」
にっこりと笑う少年の言葉に、仕方がないといった様子で、漸く笑顔を浮かべた少女。その頬には一筋の涙が零れ落ちたのだった。
―パンッ
黒髪の少女が何か呟き、柏手を打つ。しんと静まり返った森に、凛とした音が染み渡っていく。やがて、森が静けさを取り戻すと、黄色く輝いている石が並べられている広場の空気は、澄み切ったものへと変わっていた。
「相変わらず無茶苦茶ね…」
陽光を受けて金にも見える髪を掻き揚げ、なんとも嫌そうに呟いた少女が、今も黄色に輝く一つの石に近づいていく。
「そんな物騒なものを使いこなす人のほうがよっぽどでしょ」
ぷくっと頬を膨らませた黒髪の少女が抗議をする。途端、妙な緊張感が場を支配し始めた。
―ぷっ…あはははは
睨み合う二人の少女を交互に見ていた少年が、堪らずに笑い出すと、キッと二人の鋭い視線が少年へと向かう。
「なによ？」「なんですか？」
そこで、漸くひぃひぃと呼吸を整えた少年は、二人に向かって言うのだった。
「どっちもどっちだろ」
「「はっ？」」
少女たちは、お互いを再度睨みつける。
「一緒にしないでくれる？」「一緒にしないでくれますか？」
ぷいっとそっぽを向く二人の少女を見て、少年はまた笑い出した。そんな笑い転げる少年に怨めしそうな視線を送る少女たちであったが、やがてどちらともなく吹き出すと、一緒になって笑い出した。
「ほんと、あんたたちと一緒だと緊張感がないんだから」
目尻に浮かんだ涙を拭いながら、茶髪の少女が、ふぅっと長い息を吐く。
「さぁ、はじめるわよ」
「「おぅ！」」
二人の返事に頷き返すと、少女は、足下で淡黄の煙を燻らせる石へと、ゆっくりと手を伸ばした。
「……そろそろか」
天頂近くまでに昇った太陽が、徐々に欠け始めていく。それを確かめるように空を見上げていた少年は、まだ2本の黄煙が立ち昇る地上へと視線を戻す。
「まぁ、やるだけやってみようか」
作業に没頭する二人の少女の背中に、そっと声を掛けてから、再び、空へと視線を移す。そのまま、少しの間、空を見渡していた少年は、太陽を隠しつつある月の影の中に、こちらへ導かれるように向かってくる小さな何かを視界に捉えると、視線を鋭いものに変え、両手を掲げた。
―ガガガッ
大きな黒い岩の塊が落ちてきたのだと認識できる距離まで近づいたその時、それは突如、大きな音を立てて砕け散る。
―パンッ
そこへ、澄み切った音が鳴り響いた。小石ほどの大きさになっていた岩の残骸は、砂と呼べるくらいの粒になり、パラパラと広場へと降り注ぐ。
「さぁ、天体観測と洒落込もうか」
少年の楽しそうな声が周囲の森に響き渡る。笑顔を浮かべた少女たちは、その声に答えるかのように力強く頷くのだった。
