09 「報復と希望」
気絶した男性を尻目に、春音はワゴン車まで歩み寄る。
男性の発言から、レディースバッグの持ち主の安否が気になっていたからだ。
春音は恐る恐るワゴン車の中を覗いた。
後部座席は背凭れを倒され、ベッドのような形に変形されている。
その上で、一人の若い女性が仰向けになって倒れていた。
見た目は二十代前半くらいで、淡い茶色のロングヘアーが特徴的である。
「大丈夫で…………っ!?」
安否の確認のために声を掛けようとした春音であったが、ワゴン車の中の光景に思わず息を呑む。
女性の様子は惨憺たるものであった。
輝きを失った瞳は虚空を見つめており、口の端から一筋の血が流れている。
手足はガムテープでグルグルに巻かれ、手錠にかけられたように拘束されていた。また、清楚な着衣は乱れ、局部が露わになっていたる。
春音は悟った。この女性はあの男性に凌辱された、と。
念のため、春音は女性の手首から脈を取る。
脈はない。既に息を引き取っていた。
「酷い……こんな事って……」
春音の目から、一粒の涙が自然と流れ、同時に激しい怒りが沸々と湧き上がる。
座席の足元に目を向けると、使いかけのガムテープと銀色の金属バットが落ちていた。
「気が進まないけど、何かに使えるかも……」
春音はガムテープと金属バットを拝借する。
また事故車の時と同様に、助手席から発炎筒も拝借した。
女性の方に視線を戻すと、バッグからティッシュペーパーとハンカチを取り出す。
ティッシュペーパーは四つ折りにして女性の口元の血を丁寧に拭い取り、広げたハンカチを女性の顔に被せた。
「せめて……血のついたままは、嫌ですよね…………」
春音は黙祷し手を合わせる。
それを終えると、レディースバッグから催涙スプレーと防犯ブザー、バトン型のスタンガンを拝借した。
リュックを開けて中に、ガムテープ、発炎筒、防犯ブザー、右ポケットに入っていた財布と部屋の鍵を仕舞う。
催涙スプレーは空いた右ポケットに、金属バットは左手に、スタンガンは刀の様に腰ベルトに下げる。
「さてと……そろそろ行かないと日が暮れちゃう」
春音はそう呟き、出発しようとする。
「ま、待ってくれ…………」
背後から男性の声が聞こえ、春音は振り向く。
すっかり怖じ気づいた男性は、春音と目が合っただけで「ヒッ!」と情けない声を上げた。
「た、助けてくれ…………な、何でもするから!!」」
「…………あなたみたいな人を、本気で助けると思いますか? 人の命を奪っておいて…………虫がよすぎるわ!!」
春音の言葉に男性の顔は更に青ざめ、尻もちをついたような体勢で更に後ろに下がる。
男性の目には、右手に拳銃を構えて銃口を向ける少女の姿が映っていた。
真剣な表情のまま「動けば撃つ」と目で訴える姿は、首元に大きな鎌を近づけ、不気味な笑みを浮かべる死神の様である。
「……いざ自分が殺されるとわかった時、恐いはずよね?」
「た、頼む……やめてくれ!!」
「それは、あなたに殺された女性も同じはずよ」
「ほ、本当に……これは……魔が差しただけなんだ!」
「……そういえば、さっき『何でもする』って言っていたよね?それなら……」
春音は拳銃を構えたまま運転席のドアを開け、ハンドルの中央にあるクラクションに手を伸ばす。
「この辺りはゾンビが多くて困っていたの。だから丁度、『囮』が欲しかったの」
「お、おいっ……待てっ! それだけは!!」
男性は必死に命乞いをするが、春音は耳を傾けようとしない。
そして彼女は、思いっきりクラクションを鳴らした。
「や……やめろぉぉぉぉぉぉっ!!!」
クラクション音は男性の叫びを打ち消し、処刑の時を告げる鐘の音の如く、閑静な大通りに響き渡る。
顔色を更に真っ青にした男性は、白目を向いて倒れ、口を魚の様にパクパクと動かしながら気絶した。
徐々にゾンビの群れが踏切を通って、こちらに向かって来るのが見える。
春音は迫りくるゾンビの群れと反対の方向へ、走って行った。
(これから先は『ゾンビ』だけでじゃなくて、敵になる『人間』にも注意しなくちゃ……)
心の中で春音は呟いた。
やがて、ぽつぽつと雨が降り始める。
男性の哀れな断末魔と、無常に降り続ける雨の音だけが、春音の耳に残った。
春音は途中で見つけた屋根のあるバス停に駆け込み、中で雨宿りした。
見晴らしが良いためゾンビも発見しやすい。
スポーツタオルで濡れた髪や服を拭きながら、スマホの地図アプリで警察署の位置を確認する。
距離もそう遠くなく、日暮れまでに辿り着けそうだ。
「唯と広子さん、大丈夫かな……」
春音は分断された二人の事が気がかりであった。広子が同行しているとはいえ、一抹の不安が残る。
気づけば雨は止み、灰色の雲の間から僅かに青空が見え、淡い光が細く差し込む。
「一先ず雨も上がったし、そろそろ行こう」
春音は荷物をまとめ、警察署に向かうべく再び歩き始めた。
しばらく歩いていると、春音の視界に大きな建物が見え始める。
「もしかして…………やっぱり! 警察署だ!!」
春音は遂に警察署まで辿り着いた。
警察署は白色の四階建てで、のっぺりとした横長の建物である。
一階の玄関付近には椅子や机、板などで作られたバリケードが設けてあり、外から簡単に入れないようになっていた。
駐車場に目を向けると、何台ものパトカーが停車している。
(もしかすると……まだ中に警察の人が残っているかも)
そう考えていると、春音の背後から車の気配がした。
パトカーではなく、一台の白い自家用車だ。
春音は、その車に見覚えがあった。
「あれって……唯のお父さんのだ!」
白い車は春音の近くで停車すると、後部座席から見覚えのある人物が春音の方へ駆けてきた。
唯である。
「唯! 無事だったんだね!!」
「春音っ! 良かったぁ……生きてて……」
じわりと涙で滲ませた瞳で、唯は勢い良く春音に抱きつく。
「ゆ、唯、ちょっと痛いよ! 抱きつき過ぎだって……」
「あっ、ゴメン、つい……えへへっ」
「もう……ふふっ」
二人は互いに微笑んだ。春音の目元からも自然と涙が溢れ出る。
程無くして車から降りた広子と清も、春音の方へ歩み寄った。
「広子さん! おじさん!無事だったんですね!!」
「春音ちゃん、無事で良かったわ!」
「どうやら無事みたいだな、春ちゃん!」
四人が感動の余韻に浸っていると、突如、警察署の三階の窓が勢い良く開いた。
その中から一人の男性の警察官が、顔を覗かせる。
「白石先輩! ご無事でしたか!!」
「五十嵐君!? ええ、なんとか無事よ!」
「今、梯子を下します!」
五十嵐と呼ばれた警察官は、窓から縄梯子を投げ出した。長さは10m近くあり、おそらく避難用のものである。
唯、春音、清、広子の順に梯子を上り、四人は無事、警察署内に入った。
ふと春音たちは振り返り、窓越しに街の様子を見る。
半分以上の建物から明かりが消え、夕日が差し込む街の中では大量のゾンビが蠢いていた。
「唯……この世で一番脆いものって、『平和』なのかもしれないね」
「……そうかもね」
その場に居る者たちは、改めて感じた。
この状況は夢ではなく、現実である。
自分たちの知る日常は今、壊れ始めている、と……
To be continued in Chapter 2