06 「希望を背に」
春音はトンネルの奥へと進んでいた。
外と比較して幾分か涼しいが、夏の厳しい暑さで快適とはいえない。
滲み出た汗が服を濡らし、春音の色白の肌にべったりと纏わりつく。
歩いている途中で、春音の腹の虫が鳴った。
トンネルに響くほどの大きさでもなく、周りに人がいるわけではないが、つい手でお腹を押さえてしまう。
「そ、そういえば……朝から何も口に入れてない……」
春音は恥ずかしそうに小声で言う。
それを誤魔化すように、スマホを取り出して時間を確認する。
時刻は正午を少し過ぎており、普段なら昼休み前の授業を受けながら、眠気と空腹と闘っている時間だ。
今は喉の渇きと空腹と闘いつつ、ゾンビがいないか警戒しなければならない。
それらを頭の片隅に留めながら、春音は歩き続けた。
程無くして出口が見えた。
出口に近付くにつれ、視界に閑散とした大通りと鉛色の空が広がる。
春音はトンネルを抜けた。
周囲にゾンビは見当たらないが、万が一に備えて拳銃片手に歩を進める。
公共施設や飲食店等が並ぶ大通りは閑散としており、水を打ったように静まり返っていた。
(ここまでゾンビの姿が無いってことは、ここら辺の人たちは皆避難したのかな……んっ?)
何かを見つけた春音が、不意に足を止める。
彼女の視線の先には、街路樹に衝突したと見られる赤色の軽自動車があった。
春音は様子を確認すべく、事故車へと歩み寄る。
(ガソリンの臭いはしないけど、用心しなきゃ……)
事故車は前方が大破しているが、後方は無傷である。後部座席には誰もいない。
「後は運転席だけ……っ!? 誰かいる!」
前方側の窓を覗くと、二十代前半ぐらいの女性が運転席で項垂れている。
出血の量から生きている確率は低いと、春音の直感が告げた。
念のため春音は、ゾンビがいないか周りを確認し、
「大丈夫ですか?!」
と女性に向かって、大きめの声で呼びかけた。
「…………」
暫くの間、静寂が流れる。
女性は返事はおろか、ピクリとも動かない。
「やっぱり……即死だったのかな…………」
フロントガラスには蜘蛛の巣のような、大きな皹が入っている。
その皹の上には、鉄臭い赤茶色の液体が撒き散らされたように付着していた。
血である。
更に大破した前方と街路樹の間に目を向けると、人らしきものが挟み撃ちにされていた。
両脚は見当たらず、両目は飛び出ており、首には人の歯形がくっきりと付いていた。
(性別は分からないけど……多分ゾンビかな)
事故車が通ったと見られる道路に目を向けると、道路には急ブレーキを掛けた痕跡が見られた。
黒いブレーキ痕の上は、まるで大きな筆でなぞったかのように、大量の血がベットリと付着している。
「……ゾンビを避けようとして、そのまま事故に……?」
春音は黙祷し、手を合わせる。
今日だけで、一体何回、死体を目撃したことだろう。
目を閉じた時の真っ暗な世界の中で、無意識のうちに考えていた。
「……何か使えそうなものが無いか、探索してみよう」
最初に、助手席から探索を始めた。
助手席側は辛うじて損傷が小さいため、難なくドアを開けることができる。
ドアが開くと、中から鉄臭い血の臭いと腐臭が鼻に付く。
春音は水中に潜るかのように息を止め、運転席の女性の死体をできるだけ直視しないようにした。
ダッシュボードを開けるが、特に目ぼしいものはない。
今度は助手席の足元を見ると、赤い筒のようなものが備え付けられていた。
発炎筒である。
「ゾンビの注意を引くのに、使えるかも……持っていこう」
春音は発炎筒を手に取ると、助手席のドアを閉めた。
次に後部座席を探索すると、座席の上で何かを発見する。
ライトピンクのリュックである。
春音はリュックの中を確認すると、水の入った500mlペットボトルが三本、エネルギーバーや缶詰が各三個、小さめのLEDライトが二本、ポケットラジオ、医療品や裁縫道具等が備わった救急セット、大きめのスポーツタオルが二枚、透明のレインコート、大きめのハンカチが二枚、銀色のオイルライター、未開封の袋に入った百膳の割り箸、ビニール袋が大小合わせて六枚、そしてステンレス製のコップが入っていた。
「非常袋の代わりかな? ということは、この人は避難の途中で……」
春音はそう呟くと、もう一度女性の死体に目を向ける。
リュックからハンカチを取り出し女性の顔に広げて被せた。
「……申し訳ありませんが、彼方の非常袋を使わさせて頂きます」
生きるためとはいえ、勝手に他人の物を拝借したことに春音は罪悪感に駆られる。
「とりあえず、何か食べよう……」
春音は車から離れた所のバス停に移動するとベンチに座り、リュックの中から水とエネルギーバーを一本取り出した。
水をゆっくりと飲むと、乾いていた喉が次第に潤っていくのを感じる。
更にエネルギーバーの袋も開け、腹ごしらえした。
当然、空腹は満たされないが、朝から何も口にしてないが故に、体と脳に力が漲ってくる。
食事を終えると、暫くベンチに腰掛けて休憩した。
「なんでこんな事に、なっちゃったんだろう……ハァ……」
一息ついた矢先に、現状を嘆くような言葉が飛び出る。
あまりにも唐突で、現実では考えられないような展開が続き、夢でも見ているのではないかという疑念すら沸いた。
一度頬を軽く抓るが、痛みも抓った感触もある。
「やっぱり、現実なんだよね……取りあえず、警察署を目指そう」
春音はリュックに物資を仕舞うと立ち上がり、背中にリュックを背負う。
リュックのサイズが丁度良いため、あまり違和感は感じない。
ジーパンの後ろポケットには、拳銃を差し入れた。
(ホルスターの一つでも欲しいなぁ……すぐに取り出せるようにしたいし)
そう思いつつ、春音は警察署へと向かうべく再び歩きだした。
空に浮かぶ灰色の雲の隙間から、太陽が姿を見せる。
弱々しい日光が春音の背を照らした後、灰色の雲に呑みこまれるように、太陽は姿を消した。