26 「黙する怪物」
「は、春音お姉ちゃん……」
いつの間にか香澄は春音の背後に回り、春音の服の裾を握っていた。
先程まで見せていた無邪気な笑顔とは打って変わり、雄叫びへの恐怖が滲み出ている。
「……私が様子を見て来る。香澄ちゃんは車のところまで戻ってて」
「でも……」
「安心して。危なくなったら、直ぐに戻って来るから」
軽く微笑んだ春音は体勢を低くし、香澄の目線に合わせる。香澄は不安げに頷くと、小走りで陸たちの方へ向かって行った。
「さてと……」
小さく呟いた春音は、路地の方に目を向けた。
あの路地の先に、雄叫びの主が潜んでいるに違いない。
ホルスターから取り出した拳銃を右手に握りしめつつ、ゆっくりと壁から顔を覗かせた。
路地はコンクリートブロックの塀で囲まれており、壁と路面には赤黒い小さな斑点が広がっている。似たような状況を何度も見てきたためか、それらが血だと理解するまで時間は掛からなかった。
斑点は路地の奥に行くにつれて大きくかつ数を増やしている。血の跡を目で追いかけていくと、ある所で春音の視線が止まった。
およそ五メートル先は袋小路になっており、行き止まりとなった正面の壁を背に、人らしきものが座り込んでいる。
ゾンビでもスクリーマーでもない、全く別の怪物だ。
「っ!?」
怪物の姿を目の当たりにし、春音は思わず息を呑んだ。
まず真っ先に目を引いたのは、色素の無い肌と体毛である。どちらも死装束を連想させるほど純白であり、言葉で表せない恐怖が蟲の如く這い寄って来る気がした。
怪物は俯いたままであるため、今のところ春音に気づいていない。
よく見ると怪物の体格はゾンビと比べて細く、身長もかなり高いことに気づく。筋肉量は少なく、爪も獣のように尖っていた。
(ゾンビの一種……なのかな?)
春音が頭の中で呟いていると、怪物の近くに細長いものが落ちていることに気づく。
(あれって……!?)
それは人間の腕であった。乳白色の破片が根元から覗かせており、胴体から無理やり千切られたようだ。
「ひっ!!」
物体の正体に気づいてしまった春音の口から、小さく悲鳴が溢れる。
同時に、ずっと俯いていた怪物が勢いよく顔を上げた。
怪物の口元にはスクリーマーと同じように鋭い牙が生えており、赤黒く変色した血や髪の毛が付着している。
しかし何よりも恐ろしいのは、真っ赤に充血した眼だ。春音に向けた鋭い眼光は、まるで血に濡れた刃のようである。
獰猛な獣の如く襲い掛かって来た迫力は、ゾンビやスクリーマーなどの比ではない。あまりにも、格が違い過ぎる。
稲妻の如く、体中を悪寒が走った。同時に春音は、弾かれたように顔を引っ込める。
「ハァッ、ハァ……ハァ……び、ビックリした……」
あまりの恐怖に、肺と心臓を握り潰されそうな錯覚を覚え、呼吸が一瞬乱れかける。
少しでも平静を取り戻そうと呼吸を整える最中、春音は自分の手足が震えていることに気づいた。
奴に近づくな。彼女の本能が、そう訴えかけている。
(さっきの雄叫び……もしスクリーマーみたいにゾンビを呼ばれたら……不味い!)
春音の脳裏で最悪の状況が浮かぶ。この路地は決して広くはない。ゾンビに囲まれれば、無事では済まないことは目に見えている。
気付けば春音の足は車の方へ向いていた。
何事もなく車のところへ戻れた春音を、他の三人が安堵の表情で迎える。急いで戻ってきた彼女の様子を目にし、真っ先に陸が駆け寄る。
「どうしたんだ、茜屋さん! 何かあったのか?!」
「ごめん、詳しい話は後で! 纏さん、車は動かせそうですか?」
「えっ?えぇ、何時でも出発できるわ!」
車に目を向けると、タイヤの下敷きになっていたゾンビは既に撤去されており、壁際に退けられていた。
「今すぐ出発してください! 早く、ここを離れた方が良いです!!」
どこか焦りを見せる春音の気迫に纏は押されかけるも、何かの危機を察知し、
「わかったわ! 急ぎましょう!!」
と了承する。
春音たちは直ぐ様、出発の準備を始めた。
荷物をトランクや後部座席に詰め込み、春音たちも車に乗り込む。
運転席には纏、助手席には陸が座り、春音と香澄は後部座席に座った。
「皆、乗った? エンジン掛けるわよ!」
全員が乗車したのを確認すると、纏は車のエンジンを掛けた。
メーターパネルが点灯すると、全員の顔に安堵の色が浮かぶ。燃料は半分ほど残っており、特に問題なく使えるようだ。
ギアをDに合わせ、サイドブレーキを解除すると、纏はブレーキペダルから足を離していく。
やがて四人を乗せた車は静かに進み始めた。
「無事に動いて良かったわ……」
「これで移動が楽になるな!」
安心した木村姉弟が笑みをこぼす。
「良かった……」
小さく呟くと春音であったが、ふと先程の路地に視線を向けた。
奥に見える怪物は依然として顔を上げたまま、微動だにせず正面を見つめたままである。
しかし、車が路地を通過する一瞬、偶然にも春音は見てしまった。
走り去っていく車を、怪物の赤い瞳が追いかけていく様子を……
警察署の三階から見える景色を、唯は廊下の窓から茫然と眺めていた。
時刻は午前10時31分。
澄み渡る空には時折、翼をはためかせるカラスの姿が確認できる。
建物の外では耳障りな蝉時雨が降り続けており、それ以外の音は何一つ聞こえない。
「春音……今頃どうしているんだろう?」
小さく呟く唯の元へ、程なくして一つの足音が近づいてくる。
「唯ちゃん」
足音と声のする方へ唯が顔を向けると、そこには広子が居た。
「隣、良いかな?」
「は、はい! 勿論です!」
了承を得た広子は、唯の隣に並ぶ。
「春音ちゃんを待ってるの?」
「はい……どうしても気になってしまって……」
「……春音ちゃんは幸せ者ね。こんなに心配してくれる友達が居るんだから」
「そう言えば、広子さんは昔から春音のことを知っているんですよね?」
「ええ。初めて会ったのは、あの子が小学校一年生の時よ」
「そうなんですか! もっと詳しく聞かせてください!!」
興味津々といった表情の唯を見て、広子の頬が緩む。
「ふふっ、良いわよ。そうね……何から話そうかな……?」
広子は春音との思い出を語り始めた。




