21 「回り道」
ガソリンスタンドを後にした春音と香澄は、閑静な道路を歩いていた。
出発してから約十分が経つ頃、路上には幾つもの血溜まりと、無造作に停められた車の姿が目立ち始める。
ドアが開けたままの放置車、フロントガラスに皹が入った事故車、車内や車体の付近に広がる赤黒い血の跡、ゾンビに食い荒らされた無残な死体などが、意識せずとも視界に入った。
此処で何があったのか、どれだけの人数が犠牲になったのか。
考えるだけでも、気が遠くなりそうだ。
右隣の香澄は、ちょこんと小さな手で春音の服の裾を握っていた。
隠し切れない不安が、表情に滲み出ている。
「……お姉ちゃん」
「…………あまり見ちゃダメ」
そう言う春音にとっても、見るに忍びない光景であった。
途中、春音は損傷の少ない車を見つけると、発炎筒や役立ちそうな物を探す。
何台か漁った結果、発炎筒が三本と、銀色のパンタジャッキを見つけた。
(ジャッキか……地震や火事が起きた時に役立つかも)
回収したものをリュックに詰めると、二人は再び歩き出す。
「ねぇ、春音お姉ちゃん……なんで、だれもいないの?」
「恐らくだけど、何処かに避難したからだと思うよ。或いは、もう既に……」
「パパとママ……死んじゃったのかな…………」
「……大丈夫、きっと生きているよ。私も探すの手伝うから、安心して」
その言葉を聞いて、香澄の表情が少し和らいだ。
(この子の為にも、早く親を見つけてあげなくちゃ……警察署に戻ったら、広子さん達に調べてもらおう)
春音が今後の事を考えながら歩を進めていると、裾を引っ張る香澄の力が、急に強くなったのを感じた。
振り向くと、香澄は裾を握ったまま立ち止まり、じっと空を見上げている。
「どうしたの?」
「春音お姉ちゃん、あれ……」
呟きと同時に、香澄は空中の一点を指さす。春音も釣られて、その方向に視線を向けた。
遠目に見える空の向こうで、何かの物体が移動している。
二人が目を凝らすと、物体は少しずつだが此方へと近づいており、徐々に姿を現していった。
ヘリコプターだ。
機体は白をベースとしており、青と水色のラインが入っている。配色からして、報道機関が取材時に使用するものであろう。
「もしかして、キュージョの人かな?」
「ううん、違うと思う。確かあれは、テレビ中継とかで使うヘリだよ」
この時、ふと春音は違和感を感じた。
機体に目立った損傷や部品が落下している様子が無いにも関わらず、どこか動きがおかしい。
(何だろう……何かがおかしいはずなのに、言い表せない。凄く嫌な予感がする……)
得体の知れない違和感は、春音の不安を少しずつ掻き立てていく。
やがてヘリコプターの向かう先が、二人の位置から約五十メートル先に聳え立つ、全体がガラス張りで八階建てのビルであることに気づいた。
そこで漸く春音は違和感の正体を掴んだ。
ヘリコプターに周囲に大きな建物があるにも関わらず、機体は速度を落とそうとしていない。
(やっぱり変だ……不味いっ!!)
春音の脳裏で、危険を知らせる赤信号が灯る。
彼女の手は、半ば本能的に香澄の腕を掴んでいた。
「えっ?! お姉ちゃん?!!」
「香澄ちゃん、逃げるよっ!! 死にたくなかったら、走って!!」
春音は香澄を連れ、ビルから離れるべく、走り出した。
突然の行動に困惑を隠し切れない香澄であったが、春音の焦りと恐怖の混じった必死な表情に、迫る危険を察知する。
程なくして、ヘリコプターはビルと衝突した。
ガラスは粉々に砕け散り、幾つもの欠片が雨の様に降っていく。
完全にバランスを失った機体は、そのまま道路に吸い込まれるように、墜落した。
刹那、二人の背後で激しい爆発音が響き渡る。
破損した機体から火柱と黒煙が上がり始め、激しく炎上した。
咄嗟に春音は「伏せてっ!!」と言い放ち、香澄と共に伏せる。
爆風が生じた際に、「伏せる」という行動は効果的だ。
伏せることで、衝撃波や破片に当たる面積を減らし、目や耳、表皮や肺を守れるという、メリットがある。
つまり、立ったままの状態と比べて、遥かに安全な姿勢であるということだ。
「危なかった……香澄ちゃん、怪我は無い?!」
「うっ……んっ……大丈夫!!」
「良かった……?!」
大きな怪我は免れた二人であったが、安心している暇は無い。
先ほどの爆発音に引き寄せられたゾンビたちと一体のスクリーマーが、道路の脇道や物陰などから姿を現し始めた。
ゾンビたちは、機体から這い出てきた人に襲い掛かる。
その度に炎に包まれ、火だるまと化し、やがては燃え尽きた枯れ木の様に倒れていった。
時期も時期だけに、「飛んで火に入る夏の虫」という諺が、そのまま具現化されたようである。
「……もうこの道は使えない。一旦、ガソリンスタンドの所まで戻ろう!」
幸い、まだ二人の存在はゾンビたちに知られていない。
気付かれないうちに逃げようとした時、春音の視界にある光景が飛び込んでくる。
燃え盛る炎に対し、スクリーマーが異常なほど怯えていた。
そこに一体の火だるまと化したゾンビが近づくと、スクリーマーの身体は瞬く間に炎に包まれる。
だが、燃え方も普通のゾンビとは違った。
理科の実験で、酸素の満ちた集気瓶に火の付いた線香を入れると激しく燃えるように、スクリーマーを包む炎は勢いを増している。
(もしかして……スクリーマーは火が弱点? ……これは調べてみる価値がありそう)
春音は心の中で呟くと、香澄と共にその場を後にした。
来た道を引き返した二人は、ガソリンスタンドを過ぎ、そのまま歩き続けていた。
先ほどの出来事から、香澄の裾を握る力が、より強くなっている。
無理もない。あまりにも刺激が強すぎる光景だったからだ。
「…………春音お姉ちゃん、ケーサツショには行けないの?」
「行けないことはないよ。ただ……さっきの道が通れないから、大きく迂回する羽目になったけどね。時間も掛かるし、警察署に行くのは明日になるかな」
「今日はどこでおとまりするの?」
「お姉ちゃんの住んでいるアパートだよ。此処からなら、そんなに離れてないから」
実は、ガソリンスタンドで地図アプリを眺めていた時、春音は自宅のアパートの位置も確認していた。
真っ直ぐ警察署を目指すとしても、疲労が蓄積している二人が、無事に辿り着けるとは限らない。
春音は万が一に備えて、一度体勢を立て直せる場所を移動プランに組み込んでいたのである。
「春音お姉ちゃんの、おうち! あたし、行っていいの!?」
「勿論! でも、一ヶ所だけ寄りたい所があるから、その後ね?」
「はーい!」
午後6時に差し掛かる頃、運良くゾンビに遭遇することなく、とある建物の前に二人は辿り着く。
白塗りの壁に、厚みのある茶色の平たい屋根。アルミサッシの戸の上には旭日章が掲げられていた。
「春音お姉ちゃん、ここって……」
「交番だよ。お姉ちゃんの知り合いのお巡りさんが勤めていたの」
此処は広子が勤務している交番だ。
中には誰も居ない。辺りを見渡すと、春音の目当ての物があった。
「あった、固定電話! 運が良ければ、警察署と連絡が取れる!」
災害等で電話が混み合うと通信制限がされるが、警察や消防などは「災害時優先通信」というのが利用でき、制限を受けずに通信が行える。
交番が警察官不在の場合は警察署に繋がるため、春音はこれを狙っていた。
「さてと……香澄ちゃん。今からお巡りさんに電話するから、見張りお願いね」
「わかった!」
春音は電話の受話器を取って暫く待つと、聞き覚えのある声の主が対応した。
広子である。
「はい、こちらM警察署です」
「……広子さん? 私だよ!茜屋 春音!」
「春音ちゃん!? 無事だったのね! 良かった!!」
「うん!あの後色々あって……広子さんも無事で、良かった……」
気づけば、春音の声は上擦っていた。電話の越しの広子の声も、嬉しさのあまり震えている。
胸が熱くなり涙が目に溢れそうになるが、なんとか堪えた。
「春音ちゃん……ごめんなさい! 私が救助活動の協力をお願いしたばかりに……」
「気にしないで、広子さん! それよりも、今の状況を手短に伝えるよ」
「……うん、お願い」
春音は、広子と別れてからの経緯を話し始めた。
内容は、コンビニであった出来事や訳あって慧介とは別行動であること、幸一や香澄と知り合い、現在は自宅に向かっていること等についてである。
その中でも、広子は「反政府軍」の存在に驚いていた。
「反政府軍? そんなのまで、いるの?!」
「本当だよ。もしかしたら警察署にも来る可能性があると思うから、気を付けて! 私の考えだけど、ゾンビ以上に警戒が必要かも」
「……わかったわ。それと、香澄ちゃんの両親の件も任せて!」
「ありがとう、広子さん!」
「あっ、ちょっと待ってて」
「広子さん?」
暫くすると、別の人が電話に出た。春音の一番の親友、唯である。
「春音っ! 無事だったんだね!!」
「唯!!」
「良かったぁ……春音まで死んだら……私……ぐすっ……」
「もう……唯は、心配性だなぁ……ふふっ」
唯の声は広子以上に上擦っており、電話越しでも嬉し涙を流していたのが分かった。
再び胸が熱くなり、春音は流石に堪えることが出来ず、涙がポロポロと零れ始める。
「唯……今日は帰れそうにない。でも、明日には警察署まで戻るつもりだから、安心して!」
「うん! 私、待っているから! パパも五十嵐さん達も、春音の無事を祈っている、って!!」
「皆……ありがとう……ぐすっ……」
「それじゃ……切るね」
「……うん!」
春音は電話を終え、受話器を元に戻した。
(みんなの為にも、私は生きなきゃ!)
涙を拭って気を取り直すと、香澄の方へと向かう。
「お待たせ、香澄ちゃん。見張り、ご苦労様」
「お姉ちゃん、電話長かったね」
「ごめんね、話すことが結構あったから」
「そっか……そろそろ行こうよー」
「日も暮れてきたし、行こうか」
春音と香澄は交番を後にすると、春音の自宅を目指して歩き始めた。
時刻は午後6時27分。
沈みゆく夕日が、風に靡く雲を赤橙色に染める。
それは、今日を生き延びた者たちを祝福するかのように、命を落とした者たちを弔うかのように、暗くなりゆく空の中で、鮮やかに輝いていた。
世界が謎の病原菌の脅威に晒されてから、まだ二日も経っていない。
今までの出来事は、これから始まる惨劇の序章に過ぎないのであった……
To be continued in Chapter 3




