02 「唯の救出」
春音は電話越しの唯の遣り取りから、唯の身が危険に晒されていることを察した。
電話の内容から、おそらく彼女の母親に何かあったに違いない。
居ても立っても居られなくなり、春音はすぐに唯の家へ行くことにした。
「嫌な予感がする……急がなきゃ!」
春音はピンクの夏用パジャマ姿から、白と黒のストライプ柄のTシャツと、青色のジーパン姿に急いで着替える。
机上のスマートフォンと財布、部屋と自転車の鍵をポケットに入れると、赤と白のスニーカーを履き、玄関を後にした。
急いで部屋を施錠し、転がるようにアパートの階段を下りる。
飛び乗るように自転車に跨ると、唯の家へと向かった。
アパートを後にしてから、十分経過した頃。
唯の家の前で春音は自転車を下りた。
住宅街にある二階建ての一軒家で、一階と二階のどちらも、電気が点いている。
「唯……無事でいて……」
先ほどの電話の内容から緊張が走る。
少しでもそれを和らげようと、春音は深呼吸をした。
「スウッ……ハァァァ…………よしっ!」
春音は玄関の前に立ち、扉に手を掛ける。鍵は開いていた。
「……お邪魔しまーす」
春音はゆっくりと扉を開けながら、中の様子を窺う。
廊下には誰もいない。玄関に目を向けると、唯と母親の靴が綺麗に揃えられていた。おそらく、まだ二人は家にいる。
春音は慎重に一階を探索した。
液晶テレビが点いたままのリビングや、綺麗に片づけられたキッチンや風呂場。
どの部屋を探しても、唯たちの姿は見当たらない。
「あとは……二階だけ」
春音は二階へと続く階段を上がった。
一段上がるたびに、木の軋む音が耳に障る。それと同時に、何度も壁を叩くような音が聞こえ始めた。
二階に上がった直後、春音は息を呑む。廊下には、唯の母親がいた。
(叔母さん……?)
しかし、容易に声をかけることができない。
目のあたりが血まみれで、まともに目が見えてない様子だ。
左腕には大きな絆創膏が貼っており、そこを中心に血色が悪くなっている。
何より、幾つかある扉の内の一つに何度も頭をぶつけているという奇妙な行動を取っていた。
唯の母親がゾンビと化していると、春音の直感が告げる。
(あの扉は唯の部屋……ってことは、あそこに唯がいる)
春音は唯の救出を試みようと、階段の陰に隠れてゾンビの様子を窺う。
しかし、依然として扉から離れる様子がない。
このままでは埒が明かないと思い、ふと廊下の奥に春音は目を向ける。
小さな机の上で、花瓶に花が生けてあった。
瞬時に、春音の脳内で何かが閃く。
(あの花瓶、使えるかも。一か八かだけど……)
春音は財布から一枚の十円玉を、音を立てない様に取り出した。
(本当はやっちゃいけないけど、早くしないと唯が危ない!)
春音は花瓶に狙いを定める。
距離は約七メートル弱。当てられるかどうかは不安だが、今はそんなことに構っている暇はない。
春音は十円玉を投げた。
十円玉は綺麗な弧を描きながら、吸いこまれるように花瓶に命中した。
金属と陶器が強く接触する音を立てた後、十円玉は床に落ちる。
ゾンビは動きを止め、ゆっくりと花瓶の方へ向かっていった。
(今のうちに……)
春音は気づかれないように唯の部屋の扉へと近づき、素早く中に入って鍵を掛ける。
少し散らかった部屋の中を見回すと、唯はいた。
黄色のルームウェア姿で、ベッドの上で脅えていた。
「唯……大丈夫?」
春音は唯の方へと歩み寄り、優しく囁く。
「……は、春音? 本当に春音なの?」
「大丈夫、私よ。無事で良かった……怪我は無い?」
「うん……助けに来てくれて、ありがとう!」
そう言って唯は、春音に抱きつこうとする。
「ま、待って! まずは此処から逃げよう!」
「そ、そうだね……ごめん。とりあえず、着替えるね」
唯はルームウェアから、黒のリボンタイが付いた白の半袖ブラウスと、紺色のプリーツスカートに着替え、オレンジ色のカーディガンを羽織った。
ゾンビ騒動が起きてもお洒落を欠かさない彼女らしさに、春音の頬が緩む。
唯の支度が終わったところで、春音は扉を少しだけ開け、廊下の様子を確認した。
ゾンビは、まだ花瓶の近くにいる。
(今のうちに……)
春音は静かに扉を開け、部屋を出る。
唯はゾンビを名残惜しそうに見つめるも、それらを振り切って春音の後に続いた。
二人が階段を下りようとした時である。
不意にゾンビが振り返り、二人と視線が合ってしまった。
「アァ……アァァァァァッ!!」
ゾンビは二人の方へと向かってきた。
もはや二人の知る唯の母親ではない。生きた人間を襲う、立派な化物だ。
「ママ……」
「唯! 逃げるよっ!!」
春音と唯は慌てて階段を下り、外へ出る。
後ろからは、ゾンビが追いかけてきていた。
小動物を捕まえようとする猛獣のような勢いで、前に突き出すように腕を伸ばしている。
「唯、後ろに乗って! 早く!!」
「ま、待ってよ!!」
春音は唯と自転車を二人乗りし、慣れない状態の操縦で、唯の家を後にした。