〇九三
「ともかく、仕事が終わったら、ここでニルと二人で、オレンジジュースを飲むはずだった。再会の祝杯も兼ねてな」
再会。病院で彼がニルにかけた言葉は、嘘ではなかったようだ。彼はニルの消息を知らぬまま、ニルと共に仕事を引き受けることになったのだろう。そんな、そんな物語が、彼にもニルにも……きっとある。
彼は、もう一つのマグカップを、少し悲しそうな目で見つめた。眼鏡がそれを明瞭にする。
「まさか、私が気付いていないとでも思ったのだろうか、ニルは」
そう言うと彼は、カップを私のほうに放り投げてしまった。私と彼の間を、一本の線、オレンジジュースのしみができる。私の足元で、カップが転がる。
私がそれをぼうと眺めていると、彼がゆっくりと言った。
「ニルは私と死ぬつもりだったのだよ。その、カップにこびりついた毒でね」
彼の今度の説明は分かりやすかった。
「理由は分からない。たぶんニルの特性――ニル曰く『宗教』のせいだろう。お前も幾度となく見ただろう。どこからともなく、ニルが武器を取り出すところを」
たとえば着物の女との戦闘。
たとえば喫茶店での逃亡劇。
たとえば大山の橋での威嚇。
私は確かに、ニルの武器を見てきた。何度も取り出すところを見逃したのは、実際に取り出していなかったから――少なくとも、目には見えなかったから。
「ニルはそれを、まるで『魔法』のように重宝していたが、結局はただの『情報体』の操作能力だ。確かにその能力が人間に備わることは珍しいことだが、その現象だけに着目するのなら、とっくに解明された原理だ」
その原理なら、私も知っている。AF-117が作っていた、歪んだ空間と同じようなものだ。自分のいる空間を歪めることで、本来「情報体」として存在するものを集めて物質を創りあげる。情報型アンドロイドができるのも、その原理だ。ここから先は私の憶測だが、おそらく、AF-117が空間を抜け出せたように、ニルの武具も元の空間で存在できたのだろう。元の空間からは歪んだ空間を視認できないから、そこから武器が取り出されたのなら、突然現れたように見える。なるほど、ニルは、それを利用していたのか。
ただ、被害妄想と共に。
この特別な能力を、組織が喉から手が出そうなほど欲しがっていると。
そう思い込んで、逃げ回っていたのだろう。