〇九二
彼の目の前には、二つのマグカップと、二リットルペットボトルのオレンジジュースが置かれていた。そのマグカップは、元からこの家屋にあったものだ。
「戸棚の仕掛け、あれはなかなか上手くできていた。さすがは高校二年生だ」
戸棚は傾いていない。ただぐちゃりとした糞尿が覗いているだけだ。皿の白さが、妙に目立っている。
そういえば仕掛けを施したとき、マグカップは戸棚から出していた。なんとなくではあったが。
「それに敬意を表して、糸はそのままにしておいた。だからそれ以上近づくと、皿の破片がお前を――いや、汚らしいものがお前を煩わせることになるぞ」
皿の破片がいくら刺さっても、私は鬱陶しく思ったりはしないだろう。そう思ったであろう彼は、ならばと糞尿に視線を移した。それは正しい判断で、私は近づこうとは思わなかった。依然として、ドアは開いたままである。
彼はマグカップに、オレンジジュースを注いだ。一つではなく二つに。
「このカップは、ニルが用意したものだ。……ああ、その前に、この家屋が組織のものであることから教えねばならないのか」
彼は説明した。この家屋が、つい一ヶ月前に組織が建てたものであることを。
そして。
「全く……説明しようと思えば、随分と掘り下げないといけない。これだから説明は苦手だ。患者に病気を説明する煩わしさといったら、並大抵のものではない。まあ簡単に言えば、お前がこの山に逃げ込むことは、我々の思惑通りだったということだ。何ヶ月かの人体実験プロセス……もうとっくに気付いていただろうが、AF-117がお前に配属された時点から、実験体をお前とした実験は始まっていたのだ。ニルや私や、AF-117もとい挽磨高校の黒髪が印象的な少女が任を受けた――これは実験だったのだ、と」
本当に、彼は説明下手だ。そんな事実、今更言うことではないじゃないか。
「ただ、人体実験遂行部の頭が邪魔してくるのは想定外――彼女はこの実験とは全く関係のない人間だったはずなのだが」
彼女の目的ばかりは分からない、と付け加えるように彼は言う。
マグカップを一つ、彼は取っ手を手にし持ち上げる。薄暗くもない家屋の中、光の加減を確かめるように、オレンジジュースを揺らめかす。
「ああそうか。黒髪の少女に至っては、任を受けたのはお前へのアプローチだけで、本来の目的を知らなかったのだけどな」
風は吹かない。