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〇九〇

「なぜだ」

 怒ったら口が軽くなる。とんとんと言いたいことが抜け出てくる。

「なぜ殺さない」

 だから私は訊いた。彼に訊いた。そこに彼しかいなかったから、彼に訊いた。だがその質問を、彼は予想していなかったようだ。「それは……どういう意味だ」と訊き返してくる。

「なぜ組織に連れていくんだ」

 怒ったら口が軽くなる。……秘密をばらしてしまうという意味ではなく、単純に口が軽くなる。軽い口。動かす労力は煩わしくもなんともない。

「なぜだ。なぜ殺さずに連れていく。なぜ私や、両親を失った少女のように――その場に居合わせたというだけで『裏』に引きずり込む。なぜ死ぬよりも苦しい事実に陥れる。なぜだ。なぜだ」

 私はただ、森で寝転んでいただけだ。黒髪の美しい少女はただ、電車に乗っていただけだ。ただそれだけなのに――なぜ事実を見てしまっただけで、「表」を諦めないといけないんだ。

 彼女はただ、学校帰りに私を見かけて、救急車を呼んだだけだ。それで病院にまで付き添ってくれただけだ。なぜその親切な行動が、彼女の人生を蝕んばむのだ。知らなかったことにして、見なかったことにして、「表」で生かしてあげることはできなかったのか。

「破れた紙を直すことはできない」

 白衣の男は言う。眼鏡をわざとらしく掛けなおして言う。冷静に述べる。

「紙の繊維は細かすぎる。できないわけではないが、それをそっくりそのまま元の状態に直すのは、とてつもない労力がかかる。ただ一枚の紙切れなのに、完全に完璧に直そうと思ったら、ありえないほどのエネルギーが必要になる。それなら紙を取り替えたほうがマシだ」

 なにが言いたいのか分からない。そんなの紙に限ったことではない。物を戻すのは難しい。それがなにであっても。……そんなの常識だ。どんな物体も、百億分の一秒でも経てば違う物体になっている。不変などない。

「だからだよ」

 男は話を続けた。どうせ、彼には分かりきっていることで、他人に説明するのが億劫なのだろう。私には伝わらない。なにを言っているのか分からない。

「『表』と『裏』を繋ぐ穴が、紙に開いてしまったのなら、それを直すのは不可能だ。紙を人の人生とするなら、取り替えることもできないのなら――紙は破れたままであり、『裏』が見えるのは必然だろう」

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