〇八八
私は今、体内にいる。体内だ。何度言っても体内だ。獣の体の中だ。
たとえば人間が野菜を食べたとき、野菜の全ての細胞が死んでいるのかといわれれば、実のところ、答えはノーだ。野菜に限った話ではないが、食物が鮮度を保つためには、少なからず生きていなくてはならないのだ。
事故に遭って体が死んでしまっても、脳が死んでいなかったりするのと同じだ。植物人間になっても、心臓が機能しているのと同じだ。全ての細胞が死ぬというのは、体内においては、あまりない。
だから私は死ぬことなく。
獣の体の中にいる。
意識があちらこちら――獣は複数いたのだから、私の細胞の居場所も複数に分かれている――に分かれるのは、なるほど新鮮味があって楽しい。視覚が働かないから体内カメラになれないのが残念だが、意識だけでも、消化の過程を楽しむとしよう。
プール場の滑り台と似た感覚だ。……残念ながら私はプール場に行ったことがないが、なんというか、流されている。それも撒き散らすように流されているのではなく、そう、管のようなところを滑っている感じだ。坂を下るベビーカーに乗っている感覚とも似ている。……残念ながら、私はベビーカーに乗ったまま坂を滑ったことはないが、あったとしても記憶にないが、きっと清清しいのだろう。そのわりには、どことなく無知への恐怖が折りたたまれているような感じだ。どうにもこうにも、流されて滑っている。そして下っている。
そのうち私は排泄されるだろう。それが何時間後のことなのか、何日後のことなのかは分からないが、私の全細胞が、排泄されることだろう。そうしたらきっとまた、細胞同士が近づきあい、くっつき、私は元通りになっていくのだろう。その想像は容易い。そして確信でもある。ミキサーでかけでもしない限り、私が死ぬ瞬間は永遠に訪れないのだ。まして動物の消化器官など、危惧に値するほど威力のあるものではない。今私のいくつかの細胞は、胃液を逃れ、そのまま生きた状態で腸に入った。生きた細胞がひとつでもあるのなら、消化液で死んだ細胞も、また生き返る。ただ窮屈だから、その細胞たちが結合することはない。腸の中に丸々の腕があったりしても、通りが悪くなるだけである。ああそうか、一つ危惧することといえば、元の体に戻ったとき、不純物が体に混じっていないかが心配だ。糞尿が細胞に練りこまれるのは……嫌だ。そうなったときには、そうだな、体を切り刻むなりして、邪魔なものを排他してしまおう。
――結局は杞憂だった。元に戻った私の体は、完全に元のままで、どこも臭くはない。ただ、それは細胞に限った話で、私は全裸のまま糞尿に寝転がっていたのだが。