〇八六
「取り引き……?」
「オフコース。取り引きネ。ミキサーはたくさんのエナジーがいるネ。それをタダでしてもらえるとは、思わないネ」
広げていた両腕を、ニルは体の前で音をたてて手を合わせる。それがなにを意味しているのかは分からなかったが、話の内容は分かった。
「彼女は……渡さない」
だがニルは、わざとらしくとぼけて言った。
「カノジョ? きみのカノジョは、自殺して死んだネ」
私は悪態を吐く。それはもう終わった話だ。非情で言っているのではなく、今は、生きている命のほうが優先順位は上なのだ。特に、茶髪の彼女は。
だが、ニルが付け加えて口にした台詞を、私は聞いてしまった。
「……まあ、カノジョは、組織の仕事できみにキスしたネ。本当は」
「は?」
また強い風が吹いた。私の髪が乱れる。橋辺りの緑は、根がしっかりしているのか茎が太いのか、あまり揺れない。
「カノジョの行動、行為……全て、仕事ネ。仕方なくやったこと、ネ」
嗤い声混じりの嘲り。
強い風が私を取り巻く。
「まさか、きみのようなイケテナイ少年に、恋人ができるとでも思ったネ? だったらとんだメイワクボーイ。きみは、昔も今も、ただのドウフォーキャリクター――『陰キャラ』ネ」
私は勢い込んでニルに飛び掛った。二人の距離を、切る。
橋が軋む。
ニル。腕。ナイフ。一体どこから取り出しているんだ。まるで魔法のように、物質を瞬時に創造しているように――ニル。腕。ナイフ。
「科学と魔法は――科学と宗教は、根本が違って、結果が同じネ。おれの宗教は、おれに武器を与えるネ。組織はおれを、おれの宗教を、研究しようとしたネ。だからおれは、組織を逃げたネ」
ニル。腕。ナイフ。切れる。私。頬。治る。私。頬。
「だからなんだっつんてんだよ」
私の恋が嘘だったというのなら、私も嘘をやめて「俺」になろうか。
感情に任せて地面を蹴り付けた。橋が崩れた。