〇〇八
一般的に、学校の授業というものはつまらないものである、と、そのような概念が学生たちを取り巻いている。だが、私は思う。授業がつまらないのではなく、授業を楽しくしない教師がつまらないのだと。そして、授業を楽しく感じとれない学生がつまらないのだと。要は、「授業つまんない」と愚痴をこぼしている生徒にこそ、原因があるのだ。
考えてみれば、案外そのようなものだ。プラシーボ効果を引き合いにするのなら、つまらないと思えばつまらなくなり、楽しいと思えば楽しくなるということだ。
授業がつまらないからといって、休み時間が楽しいものだというわけでもない。私はただ、机に頬杖をついて、騒がしい教室を眺めるばかりである。宿題以外の目的で、私に近づこうとする人は、あまり多くない。だからといって避けているというわけでもない。ただ彼らは、休んでいるのだ。休み時間なのだから。休み時間、特に昼休みはつまらない。プラシーボ効果とはまた関係なく、本来の意義としてつまらないものなのだ。一昔前なら、昼休みとなれば、男勢はグラウンドでサッカーでもしているのだろう。だが惜しくも、生まれる時期を間違えてしまった。およそ一時間の昼休み、彼らは小型パソコンで遊んだり、図書室にいってライトノベルを読んだり、机に突っ伏して音楽を聴いたり、ぺちゃくちゃとお喋りをしたりするだけなのだ。グラウンドには、誰もいない。
私はその様子を、ただなにをするわけでもなく眺めていた。誰も、私の視線には気付かない。気付いたとしても、知らん顔をする。私に声をかけたところで、楽しいことはなにもないのだ。ただでさえつまらない昼休みだというのに、どうにか試行錯誤して楽しんでいるというのに、私のような他称がり勉に、一体なにを期待するというのだ。ああ一人だけ、茶髪の少女がこちらを見ているが、どうせ見ているのは私を通り越したなにかなのだろう。目が虚ろだ。
そうだ。昼休みはつまらない。することがないのだ。楽しいのいかんに関わらず、つまらないというのは、すなわち目的を見失ったことをいう。休む時間、休み時間。精神をリフレッシュさせたり、体の疲労をとる時間のことだ。が、それはつまり、なにもしないことを意味する。なにもしないということは、つまらないものなのである。必然的に。
そんなことは、おそらくずっと昔からあったことだろう。だが、現代において、その原因の中に、あの製品があるのだと思う。このクラスの、半数以上がその製品の依存にかかっている。だから、一回の食事は五秒で済む。……本来、学校での食事といえば、給食だとか、弁当だとか、売店のパンだとか、十分以上の時間がかかる栄養摂取のことをいう。咀嚼しないといけない。だが、もうすっかり世間に馴染んでしまったあの製品は、口に含んで、水に流して飲めばいいだけである。それだけで、十分以上の時間を、一気に節約することができる。その製品には、栄養や満腹感が、凝縮されているのだ。無味というわけでもなく、脳に旨みを伝えもする。だから、暇な時間が増えてしまったのだ。
これも、実は組織が開発したものだ。