〇七八
ナイフで喉を切る。いともたやすく首のは折れ、ぷつりと、視界が途絶える。……だが数秒も経てば、首を通る神経は元通りになり、視界がまた形成されていった。
ただの悪夢でしかない。
もう一度喉にナイフを突き刺そうとする。柄を握りなおす。
すると彼女が邪魔をした。私の腕をとって、弱弱しくも、私の自傷行為を止める。
そう、これは自傷行為だ。自殺行為とは、もはや言えない。
いや、自傷行為でもないのかもしれない。怪我を積むたびに私の治癒能力は開花していっている。自分自身を傷つけるのは、結局、治癒力を養っているにすぎない。
ここは薄暗い家屋の中。
いつの間にか建てられていた。記憶上、これが建てられたのはつい最近のはずだが、もう何年も放置されたように、陰湿としている。だが、やはり新築と言うべきか、家具はとても新しいものばかりだった。
たとえば隅の戸棚は、埃を少々被ってはいるものの、疵ひとつない新品だ。中には一度も使われていないらしい皿が重なっている。取っ手付きのマグカップも、二つだけ新品のが置かれていた。
冷蔵庫などの、電気を必要とする家具はない。あるとすれば、彼女の携帯電話くらいのものである。それも、今は電源を切っている。
彼女がものすごい形相で私を見つめてくるものだから、私は観念して、ナイフを放り投げた。虚しい音を立てて、ナイフは倒れる。
「ばかっ」
呟くように、されど空気を切るようにはっきりと、彼女が言った。茶髪は、薄暗い家屋ではあまり輝かしくない。茶髪は光があってこそ映えるのだ。どうでもいいが、ふとそう思う。
彼女が顔を両手で覆った。また泣いている。
「もう……そんなことやめてよ」
花の細かい毛のように、その言葉は私を刺そうとするも、実際には撫でるだけに終わっている。むずがゆい。
私はなにも言わずに、彼女の腕をゆっくりと振り払った。
彼女がなにか言いたげに私を見つめる。だが躊躇うように、彼女は顔を背けてしまった。
ここは薄暗い家屋の中。家主は、どうやらいない。いたとしても、ここに家を建てるのは違法なので、問題はない。
なにせここは、開発不要地域のひとつ――大山なのだから。