〇七六
医師が鏡の破片を床に打ち付けた。破片がまた割れる。
「実験にしては、たくさんヴェイン……無駄が多いネ」
サングラスはかけていない。目元が窪んでいて、目玉が飛び出ている。それに今見てみれば、この前は気付かなかったが、彼は酷い乱視でもあるようだ。瞳は前を向かない。
それも相まっているのかどうかは定かではないが、どうも、空気が軽い。黒人を取り巻く空気が、空間が、軽い。水素のように軽い。
「ニル……お前」
医師が、拳を強く握りながらそう言った。黒人の横では、状況を飲み込めない茶髪の少女が、どうすることもできず立ちすくんでいる。
「きみは、感情的になりやすい。昔と変わらないネ」
あくまでもお調子者を気取ってでもいるように、ニルは少女に肩を預ける。一瞬だけ、少女が震えた。
開いたカーテンから覗く外の世界には、この四人の他には、誰もいなかった。壁の反対側のベッドのカーテンは開かれている。が、そのどれにも、人はいない。無人ベッド。
「お前……一体今まで、どこに行ってたんだ」
医師が声を荒げる。椅子に腰掛けていたときとは、全く違う声色になっていた。焦りの色。疑問の色。再会の色。
「どこにも。おれは組織を抜けてからも、ずっと組織のそばにいたネ」
茶髪の彼女が、ニルから距離をとった。ニルは彼女にもたれかかっていたものだから、ふいのことに、ニルは体勢を崩す。咄嗟にカーテンを掴むも、派手な音をたてながらカーテンは破れてしまった。
ニルが尻餅をつく。
「……驚いたネ」
そう呟くとニルは、いつの間にか手にしていた拳銃を、彼女に向けた。
「おい!」
私の体が、咄嗟に動く。安静にしていないといけないのは、本来ならのことだ。首の傷は、既に治っていた。
ニルが引き金を引く。それは、私の顔をしっかりと確認してからの行為だった。ニルは、もとから彼女を射殺するつもりはなかったのだ。私が間に入るのを見越しての行動だったのだ。
要は、ニルは、私の心理状態を確認したのだ。
医師とは違って。